航海記 ♪歌いながら行くがいい♪
私の船は、時々歌いながら旅に出る。
DATE: 2007/01/26(金)   CATEGORY: 旅情
松江旅情 2 堀が守るモノ

松江に来たら、出来るだけ自分の足で散策してみると良い。
のんびり歩くことで些細な発見に喜びを感じられると思う。



松江城堀川7



塩見縄手



へぇ~、城下町じゃこんなまっすぐな道のことを「縄手(なわて)」と呼ぶのか。
ふむふむ、寛永15年(1638)に松江藩町奉行に勤めていた塩見小兵衛という人がいたわけだが、この人が異例の大出世をしたというのでその功績を称えて縄手に名前を付けたとか。
実際、どんな手柄を立てて出世したんだっけ?
たしか苦しかった財政再建に貢献した人だったような…(うろ覚え;汗)

寛永15年(1638年)といえば、島原の乱(天草四郎の乱)などが起こり、幕府がキリスト教を厳しく取り締まり鎖国政策を始めたころの時代。

この土地は関ヶ原の合戦(1600年)後、出雲隠岐の太守として入国した堀尾吉晴富田城を廃して松江城を築城した後、寛永15年(1638)徳川家康の孫・松平直政が入城して親藩松江藩が誕生し明治維新まで続く。



松江城堀川2



ちなみに島根県の県名は、明治4年1871年)11月に名付けられている。
県庁所在地の松江市が、古くは島根郡(出雲国の東北部、島根半島の東部)に属していたためだとされている。

島根郡という地名は、『出雲国風土記』に

「島根と号くる所以は、国引き坐しし八束水臣津野命の詔りたまひて、名を負せ給へるなり、故、島根と云ふ」

とあり、八束水臣津野命(やつかみづおみづぬのみこと)によって名付けられたことが由縁とされている。
この神様がこの地にやってきた時に

「ここは細い布切れみたいな狭い土地だなぁ。
 よし、それなら私が布を縫い合わせるように広い国に造り変えよう」

とあっちこっちから島を引き寄せて造った…という伝説からきている。
確かに宍道湖を囲む出雲の土地(半島)の形は、改めて地図で見ると言われてみれば…で、あっちこっちから土地を引っ張ってくっつけたのか?と考えられなくもない変わった地形をしている。

そういう訳で「島根」という言葉は、島または島国の意味で(実際には“島”ではないが)、根は島に付く接尾語としてくっ付いているのだそうだ。

ちなみにそれまでの県名(松江県)が使われなかったのは、明治維新の際に松江藩が倒幕に消極的な立場をとったためである…とかなんとか(爆)
この地名ひとつの由来をみても当時の人間の感情が絡まった、まあこれも「歴史」を知ることで味わえる面白みでもあるw





松江城堀川4






お城を囲むこの堀沿いに歩いていけば、のんびりと寛ぐ鴨や白鳥など様々な水鳥に出会えるが、これも冬ならではの光景かもしれない。




松江城堀川6







幕府に提出された城下町の地図(控図)、約3m四方の折り紙。
正保元年~4年(1644~1647年頃)

松江城堀川地図


正保元年(1644年)というのは、幕府が「正保日本国図」を編纂するため、諸藩に「国絵図」(地図)の提出を命じた年だ。
例えば、現北海道の松前藩が幕府に提出した自藩領地の地図には「クナシリ」や「エトロホ」など39の島々が明記されてあるそうだ。
★【歴史のページ:徳川幕府撰正保日本国図(1644年)】より参照。

この原図は「出雲国松江城絵図」として国立公文書館に大切に保管されている。









改めて眺めてみて、松江城はとても美しいお城だと思う。(あまり有名ではないけれど)


松江城






名古屋城のようなきらびやかなハデさはないけど、この黒塗りのお城の佇まいは好きだ…。(名古屋城も結構好きだよ!)

お城そのものもステキだが、この松江城のなんとも言えない趣はその周囲を囲んである手入れされたお堀の印象が大きいように思う。






松江城堀川8






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