さて、上野の東照宮を訪れた時に、私が最も気になったのは…
ドゥルルルルルル…
ジャン♪ 実は透塀(すきべい)!「すきへい」じゃないw
だって、初めて見た当時はちょうど修復工事完了後からまだ間もない頃だったので、それはそれは美しかったのです。
完成から早7年…屋外展示と同じなので今はどんな感じでしょうかね。
※2009年(平成21年)から修復工事→2013年(平成25年)5年かけて完成。
では、まだ修復完成後の間もない頃の彫刻を見ていきましょう。
絢爛な透塀を黄金扉の内側から

きゃー!ナニコレ☆ *:.。. (゚∀゚≡゚∀゚)。ステキ!.。.:*☆状態の私w
もちろん、外側の通路からもこの彫刻は見えていて、目は釘付けだったのですが(おお〜@∀@!)、外側にはこの下段の「水の彫刻」はないのです。(あ、なくはないけどこんな感じでズラリとはない)
正面の唐門のある南東の面には外側の塀の下段にも「水の彫刻」がチラッと写ってますが、大楠の主様や御狸様のおられる南西側の下段にはありません。
★【末永く魂鎮るところ 2 黄金扉の向こう側】 2020(R2)/06/19(金) 記事参照〜
<境内案内図より>

東西南北が分かり難かったので加工してみたw

上段を見上げる感じになっているので塀の外側からの写真だったかな?

ツグミ?レンジャク系とか?でも連雀は冬鳥…
この植物は紫陽花だと思っているのだけど、品種としてはウズアジサイでしょうか。今の季節にぴったりの一枚(そろそろ紫陽花の時期も終わりそうだけどw)
ウズアジサイ(渦紫陽花)は最近はポップコーンとも呼ばれているそうですが、元々はホンアジサイの変異種で日本の古品種の一つでもあります。別名お多福紫陽花(オタフクアジサイ)と呼ばれていますので、縁起が良さげな草花の一つとして選ばれたのかもしれません。
※ご注意※
しかしこの彫刻の花弁は5つ…。紫陽花では花のように見える部分は萼(ガク)で、概ね4枚(よひら)なのだよね。勿忘草(ワスレナグサ)?などと迷いつつこれだと分かる植物がないので、もう紫陽花で押して参るw
植物や小鳥の名前が詳しく分かるとこの透塀はもっと楽しい!に違いないと思う…(=∀=;)
ともあれ、修復された彫刻達のこの色合い、何と美しい事でしょうか!
透塀には想像上の動物などもあると言うので、まずは目で見てお気に入りの一枚を探し、気になったら動植物名を確認するといいでしょう。(´▽`*)b☆
★【BIRD FAN|野鳥を楽しむポータルサイト】公益財団法人「日本野鳥の会」より
★【 EVERGREEN 植物図鑑・Q&A】
透塀(すきべい)
1651年(慶安4年)造営。国指定重要文化財。
向こう側が透けて見えるのでこの呼び名がある。
社殿の東西南北を囲んでおり、上段に野山の生き物や植物、下段には海川の生き物が200枚以上彫られている。
獣や鳥、魚の他、蛙や貝、なまず、蝶、かまきりや想像上の動物など、珍しい彫刻もあり、生き生きと表現されている。
これらの彫刻は造営当時、極彩色であったと考えられているが、その後の修復の際に弁柄漆で上塗りされていた。
平成21〜平成25年の保存修理工事では江戸造営当時の姿を蘇らせるために、全ての彫刻に彩色を行った。
彫刻の形から動物の種類を推察し、造営当時の彫刻や絵を参考に有識者間で検討を重ね色を決定し彩色がなされた。絵具は造営当時と同じ岩絵具を使用し、生彩色(いけざいしき)を施した。金箔で彫刻を覆った上から絵具で彩色を行う豪華な彩色方法である。
=上野の東照宮の透塀の看板より=
看板などから、修復の経緯はこの様な感じではないかと推察されます。
○寛永4年(1627年):
上野に東照宮(当時は東照社)が造営される。
「三人で一緒に魂鎮まるところを作って欲しい…」と言う家康の遺言から、藤堂高虎の屋敷地に天海僧正が管理する寛永寺の子院として建てられたのは、75歳で家康がなくなった元和2年(1616年)から11年後。
寛永7年(1630年)同じく75歳で藤堂高虎が亡くなる3年前のこと。
天文5年(1536年)生まれとされる天海僧正はこの時既に91歳だった。
(※諸説あり)
東照宮の今の御祭神は略記でも「家康、吉宗、慶喜」となっているが、それは明治に入ってからの話で、元々は「家康、高虎、天海僧正」だったとか。
(※そうだよね!?そのための家康のあの遺言だもの。何か違和感あったのよ〜)
↓
○寛永20年(1643年):
仲良しお三方の最後の一人、天海僧正(南海坊天海)が108歳で没する。
↓
○正保2年(1645年):
朝廷からの宮号宣下により「宮」を名乗ることとなる。
ここから日光、久我山、上野他「東照社」は「東照宮」となる。
↓
○慶安4年(1651年):
当初の東照社造営から24年後。
家康の孫である3代将軍家光は、実は高虎と天海僧正の建てた上野の東照宮の出来栄えが(地味で?)気に入らなかった。二人も亡くなったことだし、家康公の没後○○周忌だからと称して上野の東照宮も豪華な日光風に建て替える。
なので、今現存する彫刻達は、家光好みの極彩色だったのではと思われる。
↓
○江戸時代初期〜明治〜大正〜昭和
これまで色々修復してきた過程で何かあった模様
↓
○昭和40年(1965年):
家光の造営替えから314年後。
昭和の時代に修復する際に何か問題があったのか、透塀の彫刻に塗られていた色彩を全て剥離しエイヤッ!とベンガラ色(紅殻、弁柄、鉄丹:土中の鉄が酸化した『酸化第二鉄』を主成分とする顔料)で上塗りした模様(!?)

1965年(昭和40年)に修復した時〜2009年(平成21年)の修復前の状態。
★【上野東照宮「透塀」【重要文化財】】 「神田明神・御朱印Ⅲ」より
ええ〜!全然違うやんΣ(゚д゚)!?<どうしてこうなった
↓
時は流れて昭和の修復から44年後。。。
○2009年(平成21年)〜2013年(平成25年):
平成の修復に当たって「家光が造営替えした当時は極彩色だったらしいよ?」「じゃあこの弁柄漆を剥がして下の元色を確認しよう」となるも
「あれっ!?昭和40年の修理の時に元色も全部剥がしてから漆塗っちゃってるじゃん…」Σ(´Д`*)「えー、どうしよう」Σ(゚□゚(゚□゚*)
「そうだ、久我山や日光東照宮の彩色や当時の動植物を参考にしよう」
「諸君、彫刻の特徴を捉らえるのだ」( ゚Д゚)⊃ビシッ!と研究に研究を重ね、この彩色が完成した。(らしい。台詞はイメージですw)
○2014年(平成26年):
無事修復も済んだ翌年、上野の東照宮が一般公開される。
あの総弁柄漆状態からよくぞ復活してくれた…(´д⊂)と、今更ながら感心しております。
(※弁柄漆が悪いわけではございません)
○2015年(平成27年):
何も知らず呑気に拝観中☆*:.。. (*´∀`*)ワーイ.。.:*☆。←今ココ
そう言った様々な経緯があって、たまたま運よく、私は家光好みと思われるあの美しい極彩色の彫刻群を拝めたのです。
最も、総弁柄漆の雰囲気も彫刻そのものの造詣を堪能するには悪くはないかもしれません。
が、やはりあのキンキラでありながらシックな金色殿をぐるり取り囲む彫刻は、この楽しげな極彩色であってこその美しさであり、楽園に似合う気がするのです。

柿の実の艶々感と密な小鳥達のふっくら感が何とも言えないw

下段:波+鴨?

下段:波+これも雀?
上段と下段を拡大してみた。

元の写真がヘボいのでボヤボヤw
でも、じっくり見れば見るほど楽しいw
もっとちゃんと写真撮っておけばよかった〜!

下段:波+ナマズ
上段と下段を拡大。

これいいわ〜♪好きだわ〜(*´~`*)
実は、この透塀は四方全部を見ることはできなくて、拝観ルートの設定上、観覧できるのは大体半分くらいです。
「なぜこの時もっとちゃんと写真に撮らなかった私!!」
と只今自分を叱咤中…(´д⊂)バカー
でも、あの楽園はあそこにあってこその楽園なのです。
全て写真で見るのもいいかもだけど、立体芸術である彫刻は、やはり肉眼で見てこそ震えるものなのではないか。
上野の東照宮でこんな感じなら、ずっと規模も大きく立派な日光東照宮の彫刻の方がきっとより豪華で絢爛なのであろうなぁ。
が、私はこの地味な上野の東照宮の彫刻群が大好きなのですよ〜ヽ(≧∀≦)ノ
自分の目でじっくり見たからだけどw

変わらぬ信頼、友情、愛情、そして平穏を表現しているのではないかと思う一枚
ただ自分好みに派手な改修をしただけではなくて、祖父であり偉大なる徳川幕府初代将軍とその家臣であり友でもあった彼らの魂が末永く鎮まるところとして、家光はちゃんと意識していたんじゃないのかな、とも思うのです。
あの修復前の総弁柄漆版を見た後だから殊更思うのは、元々の彫刻の造形にとても愛嬌がある上で、修復作業に当たった方達の知識や美的センス、心意気などもここの彫刻達の佇まいに影響しているのに違いないと言うこと。
極彩色でありながらとても穏やかな気配に満ちていて、どれも見ているだけでほんわか楽しい気持ちになるのです。

そう言う意味で、透塀のこの修復された彫刻達は過去と現代(江戸時代初期と平成)の職人と美術家達の類稀なるコラボ作品とも言えるのではあるまいか。
この楽園がいつまでも心穏やかな場所でありますように。
家康の願い通り、末永く魂鎮まるところとして。