さて、タイムマシンのごとく新幹線に乗って軽く数年前の東京に到着w
★【蒼き逆さ富士】2020(R2年)/05/24(日) 記事参照〜。
東京に来たからには、江戸幕府を開いた徳川家初代将軍家康公にご挨拶しておきましょう。
なーんて、実は家康を祀る神社が東京にもあるとか知らなかった当時の私。(日光東照宮は知っていました)
実は最初からここへ行こうと思ったわけではなく、上野の公園を散策していたら「あれ?こんなところに神社あるの?」という感じでフラッと立ち寄ったのだった。

※「照」の下編は「火」の変化形だったっけ、とか一番組〜十番組の「組」が今更気になる。なんの番付けなんでしょう。祭り当番?各組の名前の上にある組のマークも気になる。

行ってみたらそこが「東照宮」だったわけです。
東照宮といえば日光東照宮?くらいの基礎知識で、なんでここにも東照宮があるのかしら?と思ったのでした。
そう、上野にある東照宮って意外と知られていないマイナーな場所ではないですか?自分が知らなかっただけですけどw
日光東照宮は「徳川家康を神格化した東照大権現を祀ってある神社」で江戸の鬼門封じ的な役割があることでも有名ですが、よくよく考えたら家康を祀る神社が江戸にある方が自然ですよね。なんてったって今の東京があるのは、家康がここ江戸に幕府を開いたからなのですから!
=東照宮の成り立ち=(付け焼き刃でさくっと学習)
元和2年(1616年)4月17日:
駿府城へ隠居していた大御所様こと家康は当時としては長寿の75歳で生涯を終え、自身の遺言によりその日のうちに久能山に埋葬された。
(家康公を祀った最初の神社は久能山東照宮?いやいや、一周忌まで埋葬された墓所だったので最初から神社だったわけではない?)
元和3年(1617年):4月以降?
亡くなってその1年後、久能山(静岡県静岡市駿河区)から下野日光山(栃木県日光市)に遷葬される。(※現在の日光東照宮へ)
これは家康公の遺言による指示だったそうで、「鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス」のイメージ通りなのです。さすが江戸幕府の祖、大御所様は死後も実に用意周到にことを運んだのでございますな。
「遺体は駿河国の久能山に葬り、
江戸の増上寺で葬儀を行い、
三河国の大樹寺に位牌を納め、
一周忌が過ぎて後、
下野の日光山に小堂を建てて勧請せよ。
関八州の鎮守になろう」
『本光国師日記』より
日光へ遷葬されたその年に、朝廷(第108代天皇:後水尾天皇)から神号「東照大権現」が宣下されて家康公は神となります。ので、”家康を祀った神社”としてはやはり日光東照宮が最初と言うかここが本拠地?なのですかね。
※神号については「大権現」か「大明神」かで結構揉めたらしいが、「大明神は秀吉と被るからボツ!」という天海僧正の意見により「大権現」となった模様。家康本人の意向はどうだったのだろう?と思わなくもないw
ともかく、死後も「東から日の本を照らし守る」と言う意向の表れもあっての神号なのでしょう。
風水的には日光は江戸の鬼門の位置にあり、江戸を守る魔除けの意味合いもあるそうだけれど、個人的には距離的にちょいと遠すぎやしないかい!?と思ったりもする。ほら、現代人的には新幹線で行っても遠いなと思う距離って、新幹線がないととてつもなく遠く感じてしまうではないですか。。。
★久能山東照宮 から 日光東照宮への道のり

気楽に「久能山(静岡県)から日光(栃木県)へ遷葬」と書いたけど、距離にして約300km、徒歩で64時間、毎日7〜8時間(日/38km)歩いたとして8日間かかる距離です。遠いw なぜそこに建てようと思ったw
はぁ、車や電車どころか自転車もない昔の人の歩いて移動する時の距離感ってどうなってんのかしら…。
日光東照宮を竣工したのは後継者である2代将軍秀忠。
(修正した※ 家忠ではないw 遠江国浜松城生まれの家康公の三男、幼名は長松。
秀忠の”秀”は秀吉の秀と覚えましょう。)by★【刀剣ワールド|2代将軍徳川秀忠】
元和2年(1616年)10月26日起工(当時の社名は日光東照社)
元和3年(1617年)3月に完成。
秀忠は同じく江戸城内へも東照社を造営するよう命じる。
元和4年(1618年)3月、江戸城の紅葉山に社殿が完成。
ん?江戸城内の紅葉山に東照社?ということは、この上野にある東照宮とはまた別もの…なのかい!?と今更困惑(”東照宮”と名の付く社は全国に23もあるのか…)
ここ上野の東照宮は藤堂高虎の家敷地に建立した社だったはず。
(しかし、藤堂高虎って…名前だけで超インパクトある。その名前のお陰でほとんど基礎知識もないのに既にカッコ良いイメージしかないw)
高虎の詳細は↓詳しいサイトに任せます。
★【藤堂高虎|戦国武将】刀剣ワールドサイトより
寝屋を出るよりその日を死番と心得るべし。
かように覚悟極まるゆえに物に動ずることなし。
これ本意となすべし。
(毎日、朝起きたときから今日が死ぬ日と思いながら過ごせば、判断に迷うことも戸惑うこともしなくなる。これを忘れずに生きなさい)
藤堂高虎の遺訓より
うむ、知れば知るほど想像以上に渋カッコいい…。>藤堂高虎
何というか、「今日死ぬかもしれないなら、好き勝手に生きよう」ではなく、「今日死ぬかもしれないと思いながら、今日と言う日をしっかり生きる」となる件で、その精神性がほらなんかカッコいい…と思ってしまう♡(´∀`*)

明治7年:1874年建立。「匂配の美、都下随一」と看板にあり。
ちなみに、明治元年(1868年)3月、神仏分離により明治政府は神道の国教化政策(それまで結構ゆるい感じで混ざっていた仏教的な要素を神社から排除しようとする政策)を行い、それにより全国各地の社の権現号は廃止されている。
この場合、東照宮はどうだったんでしょうか?しかしこの神仏分離、個人的には野暮な気がするわ。神も仏も一緒に祀るってのは実に日本ぽいノリな気がするのにw

東照宮(略記)
=祭神=
徳川家康(初代)
徳川吉宗(8代)
徳川慶喜(15代)
※第15代征夷大将軍。江戸幕府最後の将軍。在職期間約1年:1867年1/10(慶応2年12月5日)〜1868年1/3(慶応3年12月9日)
=縁起=
元和2年(1616年)2月、見舞いのために駿府城にいた藤堂高虎と天海僧正は危篤の家康公の病床に招かれ3人一処に末永く鎮魂まるところを造って欲しいと遺言された。そこで高虎の家敷地であるこの上野の山に寛永4年(1627年)に本宮を造営した。
その後、将軍家光はこの建物に満足出来ず、慶安4年(1651年)現在の社殿を造営替えし江戸の象徴とした。
=文化財=
唐門(左甚五郎作竜)
透塀(すきへい)
拝殿(金色殿)
幣殿本殿棟れ ー(?)
銅灯篭
表参道大石鳥居 ー以上重要文化財
紅葉山鳥居(寛永3年:1626年)
石灯篭220基主に(慶安4年:1651年)
水舎門(慶安4年)
お化灯篭(寛永8年:1631年)
茶室(明暦2年:1656年)
新門辰五郎水舎、(明治6年:1873年)
神楽殿(明治7年:1874年。匂配の美、都下随一)
陣羽織(都重宝)
辻ヶ花染胴服(都重宝)
看板より
看板を読んで真っ先に↓気になったところ。
「3人一処にに末永く鎮魂まるところを…」
3人一緒にお墓に入りたいってこと?(家康公と高虎と天海僧正で?)
一族でもない他人なのにどんだけ仲いいのかとw …なーんて当時は笑ってしまいましたが、生きるか死ぬかの戦国の荒波を乗り切り、ともかく最終的には盤石な天下統一を成し遂げた主君と臣下、心の友?というかその時代の同志として、きっと私には想像もできないほどの絆があったのでしょうか。
家康は高虎のことが本当に本当に好きだったのかもしれません。
逆に高虎が家康に対して深い忠義を示したのはどうしてだろう…高虎目線での家康の魅力とは何だったのだろう?とかそんなことがちょっと気になってきました。(天海僧正のことはこの際割愛w)
家康が高虎を気に入った(あるいは恐れた)のは、高虎のちょっとしたエピソードからも何気に想像がつくのですが、その高虎がこうも家康に入れ込んだ理由は何だったのか?
家康が天下統一を成し遂げたから?江戸幕府の祖であるから?褒美をちゃんとくれて仕事ぶりを評価してくれるから?そう言った歴史的な偉業に心酔したからとか、時の権力者なので気に入られないと出世できないから…などとと言う理由だけではない様な気がするのです。
(例えば仕事がめっちゃできる上司がいたとして、その業績はすごいと思うけど、その人となりを自分が好ましいと思うかどうかはまた別ではないですか?ああ、しょぼい喩えw)
高虎は家康を、何らかの好ましさで捉えていたのではないだろうか。
それがどんなものなのか私には見えないのかもしれないけれど。
実は時代劇などで出てくる家康ってパッとしたイメージがないのよねーw
強烈な印象を持つ信長や個性的な秀吉と比較してしまうからかもしれないけれど、家康は…人物像の手触りは薄いのに、歴史上の結果としてやったことって凄いよね!みたいな印象なのですよ。(あれ、それが家康なのか?)
強いて挙げるとすれば、チームナックスが2012年(平成24年)に上演した舞台『WARRIOR~唄い続ける侍ロマン』で安田さんが演じた家康像は中々面白かったけど、やはり舞台上では戸次信長がカッコ良すぎて、安田さんでもってしても家康のイメージは霞んでしまうのだ。
★【WARRIOR】※テーマソングは「人間50年」…ではありませぬw
この舞台は役者もすごかったけど、何より森崎さんの演出がすごかった!
DVDも持ってるけど、やはりこれは舞台で見るべき!いや、また見たいw お願い再演希望!
★【TEAM NACS Official Site】過去の公演参照。
寛永4年(1627年):
高虎の家敷地であるこの上野の山に東照宮を造営。
(そういえば誰が造営したのだ!?高虎の屋敷地内なので高虎でいいのか?)
将軍家とは違うからなのか、高虎が(?)上野に東照宮を造成したのは家康公の死後11年も経ってから。
まあ、日光の方に大規模な神社を造営されているので、将軍家とは別で造営するとなるとそれくらいかかるかもと思いましたが、この時高虎は72歳。
齢70も超え、己の寿命を悟って「3人一処に末永く鎮魂まるところを造って欲しい…」と言う家康の遺言を自分なりに全うしようとしての上野の東照宮だったかもしれません。
そうしてせっかく高虎が(うん、もう高虎が建てたって前提でw)ここ上野に建立した東照宮の出来栄えに満足出来ず作り直してしまう3代将軍家光w
今の東照宮の姿は家光改築ver.てことですよね。
高虎の建てた当初の東照宮は、おそらくもっとシンプルな感じだったんではないでしょうか。私の勝手な想像によるイメージになりますが(=∀=)
寛永11年(1634年):
3代将軍家光、日光東照宮の大造営で豪華絢爛な建造物に改築する。
我々が知っている今のあの馴染みのある日光東照宮の姿はこの改築後なのね。
ほんと豪華よね!家康公は日光には ”小堂”を…と遺言してましたのにw
慶安4年(1651年):
家光、同じく江戸の東照宮も現在の社殿に造営替えする。(日光風にした?)
「江戸の」とあるが、江戸城内の紅葉山と上野の高虎家屋敷地内の東照宮とか全般的になのか??
しかし家光(慶長9年:1604年誕生)は結構な派手好きだったからなのか、それとも3代目の将軍として、「初代のお社がしょぼいとかあり得ないです!何てったってここは”江戸の象徴”ですから〜!」と考えての東照宮の大造営事業だったのか。
家光は先んじて日光の方(当時は日光東照社?)を豪華絢爛な建造物に大改築したので、バランスを考えて江戸の東照宮もそりゃあ日光に引けを取らない位にはしないと…となったのかもしれません。
草葉の陰から高虎(*寛永7年:1630年に75歳で逝去)
Σ(´Д`lll)エエ!!<せっかくワシが家康公のために建てたのに…)
一応、江戸の東照宮の造営替えは高虎が亡くなって21年後のことですし、まあ木造建築をリフォームする頃合いとしては妥当だったと思われますw
しかし家光もその慶安4年(1651年)には48歳で逝去。まさに3代将軍としての最期の江戸の大仕事としての造営替えだったのかもしれません。

今見ると、高虎のシンプルなイメージとこの日光風のキンキラデザインは違和感あるかもw
ちなみに…「上野東照宮」by wikiによると。
「上野東照宮」とあるが、ここ上野にある神社の正式名称は「東照宮」。多くある東照宮は大抵地名を冠して〇〇東照宮と呼称されるので、上野にある東照宮と言う意味でしょう。寛永4年(1627年)、藤堂高虎が上野の高虎の敷地内に創建した。
社伝によれば、元和2年(1616年)、危篤の家康から自分の魂が末永く鎮まる所を作ってほしいと高虎と天海に遺言されたという。
現在の社殿は慶安4年(1651年)に家康の孫である徳川家光が改築したもので、上野戦争や関東大震災や第二次世界大戦でも焼失を免れている。
そのため強運の神様として、また家康を祭神としていることから出世、勝利、健康長寿の神様として信仰されている。
社殿は平成21年(2009年)1月から平成25年(2013年)まで修復工事が行われ、平成26年(2014年)から公開されている。500円の拝観料で透塀内を見学できる。
ただし社殿内部は文化財保護のため非公開としている。
そうか、私がフラッっと訪れたこの頃は丁度修復工事も終わり、自由に見学できる様になってからの頃だった様です。ラッキーでした。(´-`)
創建当時の江戸時代には庶民の拝観は叶わなかったというこの上野の東照宮。
およそ400年後の現在は、誰でも、どの国の人でも自由に拝観できる様になっています。(*写真の時は388年後)
今は新型コロナウイルス感染症の影響で、まだ気楽に旅行に行く状態ではないのが残念ですが。。。
とは言え上野の東照宮がこの数百年の間で、特に江戸時代末期から近代にかけ旧幕府軍と新政府軍による戦がありーの(※慶応4年5月15日:1868年7月4日の戊辰戦争の戦闘の1つ)、関東大震災がありーの(※大正12年(1923年)9月1日11時58分頃発生)、極め付けは第二次世界大戦時の東京大空襲がありーの(※連合軍の東京への空襲は昭和20年:1945年3月10日下町への大空襲から本格化)と幾度も危機的状況に見舞われながらも焼失を免れたとは、改めて考えると ま さ に 強 運 !としか言いようがありません。
そして、その強運に気軽に肖ることができる現代人はまっこと幸運なことかもしれません。(『仁』の再放送を見ていたのでついw)
★【ドラマJIN-仁-再放送】 各キャストの名シーンを名言と共に振り返る:鷺谷政明の一人演芸協会より(音声だけですがドラマのあの感動が蘇るw)
★【日曜劇場「JIN-仁-」メインテーマ】今は”お江戸と現代”と言えばこの音楽w

日本人だけでなく、その強運に肖る世界中からの人々の願いも受け止める。
そんなのんびりした時もまたいつか来ることを願って。
私も、もっとちゃんと心を込めてお参りしておくべきだったw
当時の印象ですが、正直なところ日光東照宮と比較してしまい、この上野の東照宮はそれほど有名な観光地という感じではない様な気がしたのですよね。
東京のど真ん中にあるのに、どちらかと言えばややマイナーな場所のイメージ。家康と高虎と天海僧正が一緒にいるのは日光東照宮の方じゃないの…?みたいな。(Google先生に”東照宮”って?と聞くと、「日光東照宮」「久能山東照宮」や「和歌山東照宮」なんてものから〇〇東照宮はさっと出てくるのに、この「上野の東照宮」はなかなか出てこないのよね…)
もし、この仲良し御三方が今の時代に生きていたとしたら、どう生きるのでしょうか。実に興味あります。
しかし激動のまさに戦国の時代を知恵と策略で生き抜いてきた猛者達を、このゆるい現代でまた働かせるのも酷と言うもの。
それともこの平和な時代を享受しつつ、やっぱりそれぞれが 「今、自分にできることをやらねば!」 とバリバリ活躍してしまうのでしょうかw
いやいや、ここはもう気楽に高みの見物とさせてあげるべきでしょう。
(でも見守っててください (´人`)
彼らが ” 末永く鎮魂まるところ ” として休むには、このゆるく静かな上野の東照宮の方が良いのかもしれません。