北の部屋にはヘルン先生が使っていたという机(*レプリカ)が置いてある。
机の上に見えるのは法螺貝で、これを使って用がある時にヘルン先生は別室にいるセツ夫人や女中を呼んだらしい。…というか法螺貝ってw。


太陽の光を背に風景を眺めるため、逆光にならず色が鮮やかに映るからだ。
もし北庭があっても昼間も日陰で薄暗いという場合は、屋根など家屋の高さによるのかもしれない。
平屋なら北庭にも昼間にいくらか光が当たるだろうが、二階建て、もしくはマンションなど階数が高ければ高いほど、いくら北側に土地があっても光は届かないだろう。

ちょっと近づくと机の高さとイスの高さのバランスがチグハクなことに気がつく。
これはヘルン先生は片目はほとんど見えず、もう片目も近視だったため、机に噛り付くような姿勢で読み書きしていたためだ。
きっとそんな姿勢で本を読んでいたらますます目が悪くなりますよ、と忠告したくなるかもしれないが、おそらく書物に疲れたヘルン先生はふと顔を上げて、傍らの北庭を眺めてほっと一息付いたのだろう。
北側にある第二の庭は、私のお気に入りである。大ぶりの草木が茂っているわけではない。そこには青い砂利が敷いてあり、その真ん中に小さな池がある。珍しい植物に縁取られたそのミニチュアの池には小さな島も浮かんでいる。その島には小山もいくつかあり、小人の国に生っているような桃、松、つつじの木が生えている。
(…略…)
池の縁のあちこちにほとんど水面と変わらない高さで、大きめの平たい石が置かれている。その上に立ったりしゃがんだりすれば、池に棲む生き物を観察したり、水草の世話をしたり出来る。美しい睡蓮(学名:ヌファール・ジャポニカ)が、その鮮やかな緑の水盤状の葉を油を浮かべたように水面に浮かべている。たくさん浮かんでいる蓮には二種類あって、ひとつは薄紅色の花を、もうひとつは真っ白な花をそれぞれつけている。水際では、菖蒲が目にも鮮やかな紫色の花を咲かせている。他にも観賞植物やシダや苔も生えている。
『新編 日本の面影』ラフカディオ・ハーン…「日本の庭にて」第7章より

屋敷の部屋を「田」の字に例えると、ヘルン先生の部屋が左上だとしたら、その隣(右上)の部屋がセツ夫人の部屋だったらしい。
この四つの部屋以外は公開されていないのでセツ夫人の部屋のさらに奥の方に水屋などがあったのだろう。

初夏になると、蛙の数は驚くほど急増し、日が暮れる頃にはなんともいえずかしましい。それでも、蛙は多くの天敵にやられるのか、週ごとに夜の大合唱は小さくなっていく。なかにはゆうに1メートルの長さの大蛇の大家族がいて、ときどき蛙の群れに襲いかかっていることがある。その犠牲になった蛙がよく悲しそうな鳴き声を上げるので、気がつけばうちの者がすぐ助けに出てゆく。女中がくわえた獲物を放すようにと、蛇を竹竿でそっと叩いて、命拾いした蛙も少なくない。
この蛇たちが泳ぐ姿は、これまた見事である。庭中を好きなように動き回っているが、庭に出ているのは夏の暑い日に限っている。ただしわが家では、誰ひとりとして蛇を傷つけたり、殺したりしようなどとは考えていない。実際、出雲では、蛇を殺すのは不吉なことだと言われている。「害のない蛇を理由もなく殺したら、後で米櫃の蓋を取ったときに、その中から蛇の頭が出てくるぞ」と、私はある百姓から念を押されたことがある。
『新編 日本の面影』ラフカディオ・ハーン…「日本の庭にて」第10章より

実は、この小泉八雲旧居はヘルン先生が熊本へ発ってから5年後の明治29年(1896年)、簸川郡(*現在の出雲市)郡長の役職を終えて後に八束郡郡長となった元の持ち主である根岸干夫(ねぎしたてお)一家が戻ってきており、その際に手狭になったこの屋敷の内部を改装したり一部建て増しなども行われている。
北庭の池があったところなどは隠居部屋が建てられていたらしい。
その改築建て増ししてあった屋敷を、ヘルン先生の居た当時の状況に戻して保存しよう!と決めたのは根岸干夫氏の長男、根岸磐井(ねぎしいわい)氏である。
磐井氏は地元松江の中学校からヘルン先生のいた熊本の五高へ進学、東京帝大へと進み、その後日銀に就職している銀行マンだ。
明治40年(1907年)のある日、彼は東京の丸善で、『知られざる日本の面影』英語版『Glimpses of Unfamiliar Japan』上下2巻(ドイツのタウハニッツ社発行)を入手する。
そこで初めて郷里の我が家の庭が(!)ヘルン先生によってきわめて魅力的に紹介されたことを知るのである。
![]() | Glimpses of Unfamiliar Japan Lafcadio Hearn (1997/03) Tuttle Pub *詳細を見る |
さらにその6年後の大正2年(1913年)、磐井氏は松江銀行へ招かれ帰郷し父干夫氏の没後にあの屋敷に戻るのだが、出雲地方の小銀行の合併に奔走する日々の中である事実を知り驚いた。
明治25年(1892年)から42年間(昭和9年:1934年まで)に松江を訪れた3,614人の外国人が
「ハーンの『知られざる日本の面影』を読んで日本に惹かれて来た♪」(´∀`σ)σ📖
とあった警察の調査書を読んだのだ。
これを読んだ磐井氏は、松江の観光都市としての振興のためにもとハーンの住んでいた旧居の保存を思い立つのである。
そして残されていた池の図面等により、北の池の上にたてられていた隠居所を取り壊し、池を掘り、もとどおりの庭へと復元しました。
(ハーンは、この庭の作者を非常に古い時代の庭師と考えていましたが、実はこの庭は版籍奉還直後に干夫氏とその父の小石氏が庭師とともに大根島から石を運び、樹木を選んで、思うがままに作り上げた庭でした。干夫氏は後に松江の園芸会長をつとめたりしたそうですので、父子ともにそうしたことが好きだったようです)
時は移り、磐井氏の死後は、その妻の菖蒲氏とそのこどもたちが彼の遺志を継ぎました。
戦時中には、ハーンが外国人であることから憲兵の訪問-もちろん庭の見物ではありません-なども受けたそうです。
その時に彼らを撃退した菖蒲氏の武勇伝は、のちに彼女からその話を聞いた末っ子の朗-私(根岸泰子氏)の父です-によって、いまなお記憶されています。なお、憲兵の訪問はヘルン旧居を訪ねる外国人たちの素性についてであったようです。
現在では、この旧居は磐井氏の次男啓二夫人道子氏とその長男の夫人タカ子氏によって、保存・公開されています。
(啓二氏によって南側の庭は長く苔や土に埋もれていた花壇の縁取りの石が掘り出され、ハーン在世当時の姿を甦らせました)
★【厨川白村「小泉先生の舊居を訪ふ」】
★【根岸泰子のHP(*近現代日本文学研究者)】
ラフカディオ・ハーン「日本の庭」-『知られざる日本の面影』より-
しかし、この家中屋敷もこの庭も、いずれはすべてが永遠に姿を消してしまうことになるだろう。すでにわが家の庭より広くて立派な庭の多くが、田んぼや竹林に変わっている。そして、長年の懸案であった鉄道が十年を待たずに敷かれることにでもなれば、古風で趣のあったこの出雲の町も大きく拡張され、やがて平凡な一都市へと変貌を遂げることになるであろう。そうすれば、わが家のような土地も工場や製作所の用地として差し出すことになるに違いない。
出雲だけではない。日本国中から、昔ながらの安らぎと趣が消えゆく運命のような気がする。ことのほか日本では、無常こそが物事の摂理とされ、変わりゆくものも、それを変わらしめたものも、変わる余地がない状態にまで変化し続けるのであろう。それを思えば、悔やんでも仕方のないことだ。
『新編 日本の面影』ラフカディオ・ハーン…「日本の庭にて」第14章より

ヘルン先生、明治24年(1891年)にあなたが松江を去ってから116年後の現在(平成19年:2007年)も、あなたの愛した庭は根岸家子孫の尽力で今も静かに松江の町に残されていますよ。