船の思い出4 和船の趣き(下:弁財船編)の番外編で追加。(上中下でまとまらなかったとも言う…)
毎秋の廻船レースでお祭り騒ぎに盛り上がっていた天下泰平の江戸時代
ヾ(・∀・)ノワックワク♪ヽ(*>□<*)ノキャ━━ァ♪ヽ(≧∀≦)ノ v(o゚∀゚o)vワッショイo(^▽^)o
キターッ! o(≧ω≦)oイェー!Σ(゚□゚(゚□゚*ナヌッ!?(」゚ロ゚)」(」゚ロ゚)」(」゚ロ゚)」オオオオオッッッ
○『菱垣新綿番船川口出帆之図』安政期(1854~9年)の作:含粋亭芳豊の錦絵参照。
…より遡ること約300年前。時は戦国、安土・桃山時代(*注1)の頃。
*注1:織田信長と豊臣秀吉が政権を握っていた時代。1573年から1598年の間の時代。 戦国時代の末期と見なしたり、戦国時代から江戸時代への過渡期と見なす場合もある。 始まりを1568年とする場合や、終わりを1603年とする場合もある。 by Wiki
…
1578年(天正6年)、織田信長が琵琶湖畔で前代未聞のとんでもない大安宅船(戦船)を建造する。
これは1576年(天正4年):大阪での「第1次木津川口の戦い」(※)の敗北を受けて、鳥羽水軍を指揮する九鬼嘉隆(*注2)に信長が命じて造らせた大型の戦船だった。
※[一向宗の大阪石山本願寺攻めの際に毛利水軍(*注3)(村上水軍を含む多数の水軍)に惨敗し大阪湾の制海権を失う]
1578年(天正6年):「第2次木津川口の戦い」で、当時の日本では類を見ない重装備の巨艦(*長さ約○m?、大砲3門を備えた鉄甲船)を計6隻を用い、火攻めを得意とする毛利水軍を蹴散らして勝利する。
この海戦で勝利した後、大阪の堺に入港した信長の大安宅船を目撃し、ポルトガルの宣教師オルガンチノも驚嘆したと言う。(*船についての詳細な記述はない)
*注2:九鬼嘉隆
九鬼水軍を率いた水軍武将、九鬼氏の第8代当主。(当時の読み方は"クキ"ではなく"クカミ"だったとか!?)志摩の国衆の一員として身を起こし、1568年(永禄11年)に織田信長の家臣となる。その後織田信長、豊臣秀吉のお抱え水軍としても活躍し、志摩国を支配して3万5000石の禄を得る。こうした経歴とその勢威から、江戸時代には軍記物などで海賊大名の異称をとった。後に関ヶ原の戦いで西軍に与し、戦後家康に許されたが、紀伊で自害した。 by Wiki
*注3:毛利水軍
もとは因島など瀬戸内海沿岸の海賊だったが、戦国時代に毛利氏の一門・小早川氏の家臣となる。江戸時代に毛利氏が周防(現在の山口県の東半分)・長門(現在の山口県の西半分)の2国に領地替えになった時、毛利氏についてきた人たちを御船手組(おふなてぐみ)として、毛利水軍を編成した。 by ほうふWeb歴史館 防府市歴史用語集
★【村上水軍|戦国武将列伝Ω】も参考にどうぞ。
ちなみに和田竜の歴史小説『村上海賊の娘』は、この「第1次木津川口の戦い」で登場する村上水軍の大将村上武吉の娘をモデルに描いたものだとか。
信長の水軍を相手にコテンパンにしてやったりな「第1次木津川口の戦い」を村上水軍からの目線で描くお話であれば、さぞかし痛快なものだろうなとこちらも気になります。
★【第一次木津川口の戦い】1576年(天正4年)
★【木津川口の戦い②】1578年(天正6年)
=信長の大安宅船(鉄甲船)=
○長さ:30間 (*?)
*尺貫法より:
1尺=10寸=約303mm。
1間=約6尺≒1.818 m、→30間 ≒ 54.54 m 。
信長の時代は1間=6尺5寸?
≒1.879mだとすると、56.37m??
ざっくり50m 位はあった!?しかし、長さが出典により色々で20m〜30mともある。(*某TV番組では、長さ:32.4m、幅:10.8mと設定してあった)
○幅:7間 (*同じく 12.726 m 位?)
○櫓数:100挺立(片側50挺立)
○大きさ:1,500石積みの大型安宅船とされる
○建造年月:2年間で6隻を建造
○装備:木造の船の鉄板で覆い火攻めに対抗し、
1隻@大砲3門=6隻で全18門を備えた。
「敵船を間近く寄せ付け
大将軍の舟と覚しきを
大鉄砲を以って打ち崩し候
是に恐れて中々寄り付かず」
(6隻の大安宅船が敵船を間近に寄せ付けては、大砲で打ち崩した。これにより毛利水軍は船に中々寄り付くことができなかった)★『信長公記』より
★【信長の鉄甲船】船のお話(日本編)より参照
信長の鉄甲船については詳しい絵図や記述が少ないらしいので、動画の鉄甲船はあくまで想像図かと思いますが、音楽と躍動感溢れる映像と編集にワクワクしますw
そして、実際のところ本当にこの想像上の船の大きさ・形状で進水できたのか、実に気になります。

○「石山戦争図」(和歌山市立博物館蔵)
大阪定専坊所蔵の石山合戦配陣図を中川眠之助が写したもの
(*北が左側で一番左の大きい川が今の淀川)
琵琶湖で建造したと言うこの大安宅船はどのルートで大阪湾に出たのか?
目立つ破格の巨艦6隻が、当時の淀川を湾まで村上水軍に見つからず木津川口まで航行することは可能なのか??建造した場所は本当に琵琶湖畔だったのか!?などなど気になることも色々。
★【船の思い出3 (中:三十石船編)】参照〜。
しかしこの戦いで、信長の九鬼水軍が当時最強と謳われた毛利の村上水軍に勝利したことは確かだ。
鉄の船といっても、むろん全体が鉄で造られていたわけではなく、実態は木造の船体に約3ミリ厚の鉄板で装甲を施したものにすぎない。
しかしその発想は当時、世界に類を見ないもので、同様の鉄甲船がヨーロッパで登場したのは、それから約300年後のクリミア戦争の頃だった。
詳しい記録が残っていないためその姿は想像するしかないが、2階建ての戦闘用矢倉の上に3層の天守閣を構え、大砲3門にさらに多数の鉄砲を備えたその偉容は、造船技術で当時圧倒的な先進国だったポルトガルの宣教師・オルガンティーノをも驚嘆させたという。
重い鉄で装甲した巨船が実戦で役に立つはずもないとたかをくくっていた毛利水軍は、木津川沖の海戦で徹底的に打ちのめされた。信長の鉄甲船に、毛利水軍得意の火攻めは通用せず、1貫目玉の巨砲の威力にまったく太刀打ちできなかったのである。
★【海運雑学ゼミナール:309「ポルトガル人を驚嘆させた織田信長の鉄甲軍船」】JSA(社団法人)日本船主協会より
お館様ーーーっ!!(*゚ロ゚)(*゚ロ゚)(*゚ロ゚)
てっきり信長の西洋かぶれによる鉄甲船だと思ったら、毛利水軍の火攻め攻撃を蹴散らすために考案したオリジナルの船だったとは。流石に維持は出来なかったのかすぐに錆びてしまったのではと思われるが、安土城といい、この鉄甲船といい、信長の突拍子もないアイデアによる建造物の記録がことごとくないのが惜しい。絵図、絵図が欲しいよぅ!なぜに残っていないのか。
そして、当時とんでもなく巨大だった鉄甲船(大安宅船)の存在は、後の
秀吉の構想した「唐入り」に、幾分か影響を与えたのではないだろうかと思うのだ。(と、長い長い導入部となったが、この信長の鉄甲船について「船の科学館」に展示等があったかは全く覚えなしwなかったかも)
下記は「文禄・慶長の役」の戦船の模型。
信長が第2次木津川口の戦いにおいて奇抜な大安宅船(鉄甲船)を用いて勝利してから、ほんの14年後の1592年(天正20年/文禄元年)。天下統一を果たしたばかりの秀吉は、諸国大名たちに命じ建造させたこの戦船を早々に朝鮮へ向けて出陣させるのだ。

○手前の船:文禄・慶長の役の時の「関船」(中型の軍用船)
*安宅船=大型の軍船、関船=中型の軍船、
小早船=小型で足回りの早い軍船
この模型(*奥の帆船。下記に別途追加あり)は武田勝頼(*注4)の臣下が制作したものであると説明文があるそうで、これも模型自体がすでにかなりの年代物とか。例えば、この模型の制作が1592年頃と仮定して、今(2019年)から…427年前!?この模型って…レ、レプリカなのかな?
*注4:武田勝頼
天文15年(1546年)生〜天正10年(1582年)没。
甲斐国の戦国大名。武田信玄の嫡男、甲斐武田家第20代当主。
だが、勝頼本人は「文禄・慶長の役」の前に亡くなっている。臣下が誰だったのか不明だが、その後別の君主の配下についてこの模型を制作したと言うことだろうか?
もしかして、文禄の役(1592年)の10年以上も前、勝頼が存命中にすでに「唐入り」計画は進んでいて、その関船を建造する前段階で縮小版を試作したのかもしれない。(しれないばっかりですまないw) 信長も例の鉄甲船を6隻建造するのに2年程かかっているのであり得ない話ではないだろう。
何しろ日本の天下統一をほぼ手中にした秀吉が目指した次なる相手は、海を渡った朝鮮半島のさらに向こう、大陸の国・明!
相当に念入りな準備が必要だったと思われるからだ。
○奥の帆船:文禄・慶長の役の時の「安宅船」(安宅型軍船=大型の軍用船)
*歴史の文献等で朝鮮出兵時の資料として出てくる軍用船が大体これ。
*後日追加〜軍船の模型製作は勝頼死後、小早川秀秋の朝鮮出兵後!?
16世紀末期、武田勝頼の遺臣が小早川秀秋に仕えて習得したと言われる軍船です。船体構造は、戸立造りと言う箱型の船首が特徴の伊勢船型で、上廻りは総矢倉の胴壁造りといって船体上部のほぼ全体を矢倉で囲い、装甲板で覆うなどさしずめ今日の戦艦と言える船でした。本模型は、個人より購入後、籾山船舶模型製作所㈱において補修されたものです。
○全長:19.6 m
○肩幅:8.2 m
○深さ:1.7 m
○櫓の数:大櫓、40挺立
○縮尺:1/20
★【船舶模型 安宅型軍船 (1/20)】(「船の科学館」資料詳細>資料番号:19680023B)より
*小早川秀秋:天正10年(1582年)生〜慶長7年10月18日(1602年12月1日)没。
改名:木下辰之助(幼名)→ 秀俊 → 羽柴秀俊、丹波亀山城主 → 文禄3年(1594年)小早川秀俊 → 文禄4年(1595年)筑前国名島城主 → 慶長2年(1597年)6月(朝鮮在留中)小早川秀秋 → 、関ヶ原の戦い後、西軍から東軍に寝返り東軍が勝利。播磨国の飛び地数郡以外の旧宇喜多秀家領の岡山55万石に加増・移封され、後に秀詮へと改名。
”朝鮮出兵”と言う言葉だけを聞くと朝鮮半島が目的のように思われるが、構想そのものはそのはるか先、大陸の明であり、さらに向こうインドまで行くつもりだったと言うのが「唐入り」で、朝鮮半島はその通り道としての先駆けではあった。
ただ、半島から先へは中々進めなかったと言うことは、日本国内と同じ感覚で言葉と文化の違う現地を根回し的な配慮をする間も無く急ぎ統一支配しようとしたことや、総指揮官でもある秀吉の指令は戦地からあまりに遠く、現場の実情が伝わらない事や、現地での連携が欠けていたのも失敗の一因であったろうと思われる。
後に家康が天下を取ったその後内政の充実に重点を置いたのもご最もで納得な選択だが、まだ国内もまとまりきってもいないのに、秀吉が日本の次は明だ、大陸だ、アジア圏だ!と外へ外へと向かう意識が強かったのは、やはりあの破天荒な信長の生き様の影響が少なからずあったからなのではないか…?などと思ったりするのだ。
最近では、明を含め東南アジアを征服する勢いのスペインを牽制するため、先手防衛としての外征出兵だったとする説もあり、それなら無茶振り無理難題な出兵に至った理由が腑にも落ちる。
=秀吉の朝鮮出兵より前の出来事=
天文3年(1534年):(信長、誕生)
天文6年(1537年):(秀吉、誕生)
天文11年(1542年):(家康、誕生)
天文12年(1543年 ):種子島に外国船(*中国の船)が漂着、
ポルトガル商人から鉄砲が伝来する。
天文18年(1549年):イエスズ会宣教師フランシスコ・ザビエル
(スペイン人)が鹿児島に上陸。キリスト教伝来。
天文19年(1550年):長崎平戸にポルトガル船が来航。
(信長16歳、秀吉13歳、家康8歳)
弘治元年(1555年):(信長21歳、秀吉18歳を召しかかえる)
永禄5年(1562年):(信長28歳、家康20歳と同盟を結ぶ)
永禄8年(1565年):スペインによりフィリピン諸島の侵略が始まる。
元亀2年(1571年):スペイン、マニラを占領。
天正6年(1578年):(信長44歳、第2次木津川口の戦いに勝利)
天正8年(1580年):スペイン、ポルトガルを併合。
天正10年(1582年):(信長48歳、本能寺の変にて自刃)
天正13年(1585年):秀吉48歳、関白になる。
天正14年(1586年):(家康44歳、大阪城にて秀吉に臣従)
天正15年(1587年):秀吉50歳、「バテレン追放令」を出す。
=文禄・慶長の役(ぶんろく・けいちょうのえき)=
・文禄の役:1592年(文禄元年/万暦20年/宣祖25年)に始まって翌1593年(文禄2年)に休戦。
・慶長の役:1597年(慶長2年)の講和交渉決裂によって再開され、1598年(慶長3年/万暦26年/宣祖31年)の太閤豊臣秀吉の死をもって日本軍の撤退で終結した。
★by Wiki
1592年(文禄1年)と1597年(慶長2年)の2度にわたる豊臣秀吉 VS 朝鮮・明の連合軍との戦い。高麗の陣ともいう。朝鮮では干支により「壬辰倭乱・丁酉再乱」、明では「万暦朝鮮役」(*明の宗属国朝鮮を守るという意味)と呼んだ。
★ブリタニカ国際大百科事典より参照。
確かに自分も大体こんな感じで習ったけども、詳しい戦の様子をみてみると、戦が始まった1592年4月はまだ「天正20年」だったようだ。でもまあ細かいことは言わないでいいということで…教科書もブリタニカも「文禄の役」なのか!?
=*以下の年表は★を参照=
天正14年(1586年):秀吉は九州征伐の頃から大陸の明を見据えて出兵の準備を進める。(*出兵の6年前)
天正15年(1587年):秀吉、「バテレン追放令」を出す。
天正19年(1591年):3月、軍役令を出す。大名に石高に応じての兵役の準備、海に接する国へは10万石あたり大船2隻の建造を指示。
:8月、諸大名に「唐入り」を命じる。
(*明まで行くぞ!と征明遠征の不退転の決意を表明。しかし中国大陸どころかその先のインドやフィリピンなどの諸島をも視野に入れた構想だった)
:9月、国内の反乱軍を一掃し秀吉(54歳)の天下統一が完成。
天正20年(1592年):3月、前年10月から築城し完成した城を唐入りの前線基地として、肥前名護屋に本営をおく。総勢15万8000の兵を9軍に編成。
天正20年(1592年):4月、第1陣が釜山に上陸(*小西行長・加藤清正・小早川隆景ら15万余の大軍を渡海させる)→釜山城陥落→東萊城陥落→慶州を占領。5月、漢城(ソウル)を占領。6月、平壌城を占領。
:7月、亀甲船を有する李舜臣指揮の朝鮮水軍に海戦で敗北が続く。明の軍が参戦してくる。平壌城で明軍と交戦し押し返す。
:?月、碧蹄館の戦いで明の援軍を破る。晋州城攻めなどを経て広範な地域を占拠する。秀吉はさらに明への侵入を企図するが朝鮮の冬は過酷で現場はかなり疲弊する。(現地では和平交渉が密かに進められる)
※1592年=天正20年:12月8日元号が「文禄」に改められる。
※1592年=文禄元年:12月8日~12月30日まで。
文禄2年(1593年):4月、竜山停戦協定の成立に伴い朝鮮を撤退する。(*明の沈惟敬と和議交渉:日明双方の講話担当者がそれぞれ君主を恐れ適当なことを報告する)
:6月、秀吉は明が降伏したと思い7ヵ条の講和条件(*明帝の娘を后妃に迎えること、勘合船を復活すること、朝鮮を割譲することなど)を決定するが、明は明で秀吉を日本の国王と認めてやるから朝鮮から撤退しろ(日本を明の属国にしてやる)等の方針を打ち出し書状を書く。
=勘合船とは=
室町幕府は勘合符をもって明朝と貿易船を往来させた。勘合船は足利義政の時代に1船団3隻に制限されたが、それ以前は4、5隻から10隻という船団で、応仁の乱以前に渡明した船数は58隻に及んでいる。したがって貿易貨物も莫大な数量にのぼり、銅銭・陶磁器・香薬・染料などさまざまなものがもたらされたが、各時代を通じて大きな額を占めたのは絹織物と生糸である。
=勘合貿易=
一般には、勘合(勘合符)を用いておこなわれた貿易と解されているが、勘合は船舶の渡航証明書ではあるけれども貿易の許可証ではなく、勘合貿易という用語は日明間の貿易の実体を正しくいいあらわしたものとはいえない。むしろ、勘合を所持した勘合船の貿易とか、遣明船の貿易とか表現する方が適当であろう。勘合船は1404年〜1547年(応永11年〜天文16年/明の永楽2年〜嘉靖26年)のあいだに17回84隻が渡航した。
※「勘合船」について言及している用語解説の一部。
★株式会社平凡社『世界大百科事典』第2版より
*ちなみにこの休戦状態の間に国内では…
文禄3年(1594年):1月、指月伏見城の築城工事を開始。宇治川の対岸に支城の向島城も築城。
伏見城築城に伴い、槇島堤を築いて巨椋池(おぐら池)と宇治川を分離、大坂と伏見を水運で繋ぐ。また宇治川は豊後橋を架け、巨椋池を縦断する小倉堤を築いて新たな大和街道とした。他にも淀堤、大池堤を築く。
またこの頃、淀川左岸に長さ27kmに及ぶ文禄堤を築き、川の氾濫を防ぐ。同時に堤が京街道として使用される。
…と、先の★【船の思い出3 (中:三十石船編)】でもあったように、大規模な水利土木工事が行われている。
…閑話休題…
文禄5年(1596年):9月、秀吉は大坂城で明の使節(楊方亨・沈惟敬)を大々的にもてなし面会。沈惟敬からの書状で「日本を明の属国とし、秀吉を日本の王と認める、朝鮮の駐留軍は全面撤退すること、他色々」と知った秀吉はその内容に激怒(*そもそも講話の方向が双方で食い違っている…)。再び朝鮮出兵を決定する。
※1596年=文禄5年:10月27日、元号が「慶長」に改められる。
※1596年=慶長元年:10月27日より12月末まで。
慶長2年(1597年):1月、秀吉(60歳)は協定の不履行(*そもそもお互いの認識がずれているから当然…)、条件の不備、交渉の内情を不満とし、秀吉軍(14万)を朝鮮半島再上陸させる。
:7月、漆川梁海戦(巨済島の海戦)にて秀吉水軍が、巨済島を拠点とする朝鮮水軍を壊滅させ海上ルートを確保。
:9月、鳴梁海戦。地の利を生かした李舜臣率いる朝鮮水軍(亀甲船を含めわずか13隻)に敗北。しかし翌日朝鮮水軍は北の於外島へ撤退、最終的には秀吉水軍が鳴梁海峡を支配する。
:12月、蔚山(ウルサン)の戦い。加藤清正(兵数1万)が蔚山城を普請工事中に明軍(兵数4万)・朝鮮軍(兵数2,500)に包囲され籠城戦となる。12月28日に救援(兵数1万3,000)が到着し、明・朝鮮軍が撤退する。
慶長3年(1598年):1月、朝鮮在留の諸将が軍議を開く。蔚山、順天、梁山の3城放棄を秀吉に提案するが拒否される。(*厳冬期にロクな防寒具もなく凍傷で足の指を落とす者が続出したとか)
:3月、秀吉は親族・大名を連れ醍醐の三宝院で盛大な花見を行う。
(*その後伏見城で病床に伏せるようになる。最後まで派手好き…)

○国宝・重要文化財「醍醐花見図屏風」国立歴史民俗博物館所蔵
:8月18日、秀吉61歳が死去。四大老(毛利輝元、宇喜多秀家、前田利家、徳川家康56歳)が朝鮮からの引き上げを決定し朝鮮在留の諸将に全軍撤退を伝えるための使者が出発する。(*現地に伝令が届くまで2ヶ月かかる!?)
:9月、順天城の戦い。水陸から攻撃を受けるがこれを防ぐ。1ヶ月後に明・朝鮮軍(兵数2万3,000)は兵を引き対峙が続く。
:9月、第二次蔚山城の戦い。籠城するが大きな戦闘はなく、数日後に明・朝鮮軍(兵数3万)は撤退。
:10月、泗川(シセン)の戦い。超人武将島津義弘(兵数7,000)が泗川城から出撃、明・朝鮮軍(兵数1万6,000)は敗走。その後明・朝鮮軍と対峙が続く。
:11月、撤退命令を受け秀吉軍全軍撤退を開始する。露梁海戦で明・朝鮮水軍が順天城の小西行長の退路を遮断。巨済島から島津義弘が救援に向かう。明・朝鮮水軍と海戦となり、なんとか小西行長は脱出する。
:12月、各隊が博多へ帰国する。その後停戦協定が結ばれ戦いが終結。
<おまけ>
=明のとばっちり…=
もともと北方民族の女真族(ツングース系の半農半牧の民族)との対立でてんてこまいだったのに、この長年に渡る秀吉軍との戦で朝鮮へ援軍を出し続けた明の国力が疲弊してしまう。
1616年:満州で女真族のヌルハチが後金国(後に清朝となる)を建国。
1644年:清(女真族)が北京を制圧し明が滅亡する。。。
【1592年 - 96年 文禄の役】【1597年 - 98年 慶長の役 秀吉の死】
★【戦国時代勢力図と各大名の動向ブログ】織田信長・豊臣秀吉・徳川家康など戦国武将の年表と勢力地図まとめより
【戦国時代|1592年:文禄の役】【戦国時代|1596年:中国(明)の国使を追い返す】【戦国時代|1597年:慶長の役(第二次朝鮮出兵)】
★【日本の歴史.com】より
★【文禄・慶長の役 詳細事項目次 主な合戦、年表、相関図など】(戦国サプリメント|戦国未満)位置図など。
★【天下人豊臣秀吉の『唐入り』は、大明国を震撼させた!ホント?】
さて、この関船(写真下の船)は15万も兵を輸送できたのか。
1隻当たり何人乗れたのだろうか。当然、兵だけでなくそれ相応の武器や馬、食料など兵站の荷物も必要。実際何隻くらい建造して遠征して行ったのか数字がどこかにありそうなんだけど捜索しきれず。(*海に接する国は10万石あたり大船2隻建造せよとの指令が出ている。とりあえずは2000隻を目標にしている、とは記述があるようだ)まあ、対馬から渡る程度ならピストン輸送できたのだろうか。
しかし、当初は海戦で秀吉水軍はかなり苦戦している。朝鮮水軍の有していた亀甲船がどんな感じだったのかも気になる〜とチラッと検索してみたが…。うん、まあ、今のK国の再現にはあまり期待しないでおくわw と言うか、船のデザイン的に受け付けるかと言われたらどうかなぁ。面白いは面白いけどw
亀甲船もあまり記録がないようだが、当時でもかなり突飛なデザインではあったようだ。しかし確かにあの全面蓋つきの船では、接近戦で相手の船に飛び乗って切り込むとか、近くから焙烙玉を投げ入れるような戦闘スタイルでは取り掛かりようがなかっただろうし、守備を強化した朝鮮水軍側の戦略としては正解であったと思う。逆に秀吉水軍としては、戦車に歩兵が群がってもどうしようもない感じに似て、攻めあぐねていたのではと推測。
ただ、このスタイルは信長水軍が鉄甲船で毛利水軍と戦った時に使った戦法とほぼ同じではないのか!?
全く知らない戦法でもないような気もするので、もうちょっとこうなんとか作戦を考えて対処できる水軍の指揮官がいなかったのか…とも思うわね。
さて、秀吉はこの文禄・慶長の役の時に「日本丸」と言う安宅船(軍船)を建造しているのだが、当時の写真にはないので記述されている資料をメモっておく。
・『図説 和船史話(図説日本海事史話叢書)』
(石井謙治/著 至誠堂 1983年.7月)
(P:255-262)
・『朝鮮役水軍史』
(有馬成甫/著 海と空社 1942年)
(P:190-198)
・『和船 2 ものと人間の文化史』
(石井謙治/著 法政大学出版局 1995年.7月)
(P:1-6)
・『織田水軍・九鬼一族』
(七宮涬三/著 新人物往来社 2008年.10月)
(P:154-158)
※船の諸元については、船大工の記録である『志州鳥羽船寸法』を出典とする資料が多い。
★【レファレンス事例詳細(Detail of reference example)】より(*大阪府立図書館に所蔵あり)
同じく「鳳凰丸」の記述等資料は以下。
朝鮮出兵関係、瀬戸内水軍関係、造船史関係の資料には「鳳凰丸」に関する記述は見当たらず、小豆島関係資料の中に関係する記述あり。
『小豆郡誌』(香川県小豆郡役所 1921)
「第十二編 兵事」の「第一章 朝鮮征伐」
(P:509-513)より
豊太閤ノ朝鮮ヲ征スルヤ 本郡ニ於テモ夥多ノ船舶ト水主トヲ徴シタルノミナラス淵崎村ノ田井ニ於テハ軍用船ヲ新造セリ
役後大谷ニ於テ之カ保存ヲ命セラレシカ遂朽チ果テタリト傳フ
(太閤の朝鮮を征するや、本郡に於いても甚だ多くの船舶と水主とを徴したるのみならず、淵崎村の田井に於いては軍用船を新造せり。役後、大谷に於いてこれが保存を命ぜられしが、遂に朽ち果てたりと伝う)
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この章では、4点の史料から「軍用船」に関係する箇所を抜粋して掲載。
・『御用船加子舊記ノ寫』
・『小豆島風土記』
・『小豆島三才圖會』
・『八代田氏由緒』
このうち、『八代田氏由緒』抜粋の一部↓に「鳳凰丸」の名前が見られる。
豊太閤大軍ヲ發向シテ朝鮮ヲ征伐セントスルトキ小豆島大谷肥土ニ據リ軍船阿多計丸鳳凰丸ヲ造リヌ
(豊臣太閤、大軍を発向して朝鮮を征伐せんとする時、小豆島大谷肥土により、軍船「阿多計丸(あたけ丸)」「鳳凰丸」を造りぬ。)*この記述以下、船の建造時のエピソードが続く。
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『小豆島八十八カ所ガイド』(横山拓也/著 朱鷺書房 2008年.9月)
「第79番 薬師庵」(P:137)に、「孔雀丸」と「鳳凰丸」の記述あり。
本尊の薬師如来は、豊臣秀吉が海上安全のために作った守り本尊。秀吉が朝鮮出兵の際に、薬師庵の東隣に設けた造船所で、「孔雀丸」と「鳳凰丸」の2艘の軍船を造り、武運長久を祈って本尊を安置したという。
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『香川叢書 第3』(香川県 1943年)
全3巻からなり、香川県関係の各種史料を活字化したものを掲載。第3巻に収録されている「小豆嶋名所圖會」の「薬師堂」の項(P559)に、上記『小豆島八十八カ所ガイド』と類似の記述あり。
藥師堂
田井村にあり。本尊藥師佛。長壹尺二寸餘。遍禮七十九番の札所也。同堂の左傍に大師堂あり。本尊瑠璃光佛は、往昔太閤秀吉公の御船の守護佛なりしを、賜るところといふ。靈験殊に新たなり。凡て當嶋は舊は賦税といへることなくして、常に公の御用船の橈手の役を勤しとぞ。故に戦國の間は軍艦の棹手を專ら勤め、且は此田井村に於て朝鮮渡海の軍艦を造りしよし。是等の由縁によりて、當藥師佛を賜りしなりと言傳ふ。
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★【レファレンス事例詳細(Detail of reference example)】より(*大阪府立図書館に所蔵あり)
天下統一の半ばで毛利水軍と戦い、鉄甲船を建造して勝利した信長。
その後、秀吉もこの文禄・慶長の役の頃には「鉄の装甲を持った大型船」を建造したと言う記録がある。絶対対抗意識があったと思うw
=豊臣秀吉の鉄甲船=
信長の鉄甲船はいまだ謎に包まれているが、秀吉が文禄・慶長の役時に鉄の装甲を持った大型船を建造したことは『フロイス日本史』に文禄2年(1594年)のこととして明確に記述されている。
名護屋からジョアン・ロドゥリーゲスは一書簡を送付してきたが、彼はその中で次のように述べている。
「関白はこのたびの朝鮮征服のために幾隻か非常に大きい船舶を建造させました。それらの舟は、すべて水面から上は鉄で覆われ、中央に船楼を有します。相互に通じる船橋は、いずれも鉄が被せられ、木(造部)は露出していません。
そして全て甚だしく美しく塗金されています。それは大いに鑑賞に値するもので、私は時々それらの船に入ってみました。
同署にありました船を測ってみましたところ、長さ19畳ありました。数名のポルトガル人たちは、それらの船舶に入ってみて肝を潰していましたが、それらの船は弱体で、船骨に欠(陥)があったために、幾隻かは裂けて沈没してしまいました。」
鉄張りの船については『家忠日記』の文禄2年2月12日の項にも、「つくし大舟つゝミ候くろかね板あたり候、壹萬石ニ百五拾枚、」とある。
by Wiki
急造した為か、耐久性を検証する間もなく進水したためか、船体が鉄板の重量に耐えきれなかったと言うことだろうか。
しかし戦船なのに金箔塗りとはいかに!?
どこまでも派手好みの秀吉デザインだったことだろう。
何隻か沈んでしまったらしいのが何とも惜しいw
秀吉の船で、今のところ名前が挙がっている「日本丸」、「鳳凰丸」、「孔雀丸」、「阿多計丸」(*安宅丸?)が特別な大型船だったとして、ジョアン・ロドゥリーゲスの書簡によればこれら全ての船は金箔塗りだったとすると、そりゃぁ中々壮観だったのではないだろうか。当然、秀吉自身が乗り込む事も想定してのド派手な作りだったとも思える。
海のある国だからって事で明らかにこんな金のかかりそうな軍船の建造を任された大名達はさぞかし大変だった事だろうけど、建造している最中は意外とワクワクしながら作っていたのじゃなかろうか。
何しろ、大航海時代に大船でヨーロッパからやってきたポルトガルの宣教師達が「ど肝を抜かれた」と手紙に書くくらいだ。(どこまで実用的だったか分からないけどw)
この文禄・慶長の役ではこのポルトガルとの関係…と言うかポルトガルから種子島に伝わった鉄砲が大いに影響してる。
鉄砲を見よう見まねで国内で作り信長が戦闘で使用し快進撃をしたのと同様に、朝鮮半島での戦いでも明・朝鮮軍に圧倒的に兵数で劣る秀吉軍はこの鉄砲による戦闘で当初はかなり優勢に進んでいたが、当時は明軍がこの鉄砲による戦闘に慣れていなかったせいもあったようだ。
よくも悪くも、この頃の戦はポルトガルからもたらされた新しい武器が勝機を分けたのだと言える。
しかし、文禄の役後の休戦の間にあちらでも相応の防衛対策がされ、2度目の侵攻で秀吉軍がさらに苦戦したのも当然と言えば当然の結果ではあったので、慢心はいつの時代も禁物と言う事だろう。
ちなみに、さらに時代を遡った鎌倉時代の大型海船はこんな感じ。(なんだか急に素朴に感じるなぁw)

○鎌倉時代の大型海船(復元模型) 縮尺1/20
この模型は、『北野天神縁起』(承久本)に描かれた13世紀前期の大型海船の絵を参考に復元制作したもの。当時の最大級の海船として250~300石積を想定し、船底部の船瓦は四材構成、棚板(舷側板)も2段となっている。
★【鎌倉時代の大型海船】日本財団図書館|「船の科学館」ものしりシートNo.29/36より
櫓の数が鎌倉時代のは片側5本:両側10本(櫓の数え方って”本”でいい?)、秀吉の時代の戦船の櫓は写真では全部写ってないけど少なくとも片側14、15本:両側30本位なので、ざっと3倍以上の推進力があったと思ってよいのかな。
そして今頃櫂と艪(カイとロ)の違いに気がつく。。。
推進力の構造的な違いがあるのね。
○櫂(カイ、オール)…こぎ手が船の後ろを見て座り、船のふちに櫂の支点を固定して、より細長い櫂(これが英語でいわゆる、oar”オール”)を引っ張るこぎ方で使用する。
○櫓(ロ)…主に船尾に取り付ける。複数ある場合は左右にとりつけるケースもある。空中にでている部分を櫓腕(ろうで)、水中に沈めて推進力を生み出す部分を櫓脚(ろあし:または櫓羽、櫓べらなどとも)、櫓を船のふちに固定する支点となる穴を入子(いれこ)という。櫓脚の断面は片面がふくらんでいて今でいう”翼型”のような形状だったため、左右に動かす際、少しひねりを加えることで揚力が生まれ、推進力を生み出している。したがって櫂よりも推進効率が高い。
★【人力で船をこぐ!櫂(かい)と櫓(ろ)の違い】SHIP for Everyone:船の世界を知って楽しむための情報サイトより
軍用船などの大型船で何本も船体から出している場合は櫂(カイ)だと言うことですかね。(*でも船の構造ではよく「櫓数」と書かれている…??)漕ぎ手が大人数の場合は後ろ向きに一斉に引いた方が息を合わせやすく推進力も増すような気もします。
和船シリーズを(上)(中)(下)にしてしまったがためにまとまりなく詰め込んでしまい、軍船は「番外編」となった…orz。
写真が少ない割に無駄に長くなったので致し方なし。
しかし、調べながらも自分が楽しかったので、ま、いっかw