航海記 ♪歌いながら行くがいい♪
私の船は、時々歌いながら旅に出る。
船の科学館と「宗谷」の思い出 4 和船の趣き(下)

なんとなく和船シリーズだから(上)・(中)・(下)にしてみたのw

結構大きな荷船の部類になる弁財船とか廻船の模型。
先の船の思い出2:御座船編で、和船の構造を見せてくれた論文「船絵馬」の解説をよくよく読んだら、船の図面の出典元がそもそも「船の科学館」の資料だったわ。船のことなら「船の科学館」なのよ!

★【粟崎八幡神社の船絵馬】(日本船舶海洋工学会講演会論文集 第26号 / 論文番号:2018S-OS1-3)正会員 小嶋氏の論文
 →P76の付録(弁才船の船体各部名称 12)の図面より。


江戸時代に大阪から江戸に米や雑貨等を輸送した代表的な和船が、「弁財船」と呼ばれる船の形式で一般的には「千石船」とも呼ばれたものです。「千石船」は文字通り積載量が1000石積める船という、江戸時代において大型の輸送船を意味しますが、ややこしいことに米の容量と船の積載量としての”石”は単位が違うのです。

<1石>
○米の場合:米1石=10斗≒約150kg程の米の量
     (*俵だと2俵半)
○船の場合:和船は容積を「石」で表する
     (*木材の積数も同じく「石」)
  船一石は10立方尺。 
  *1尺=約30cm(立て×横×高さ)
  この容積を1才として1石=10才と数える。
  (1才 ≒ 0.303 m × 0.303 m × 0.303m)× 10
  1石(船)≒ 0.28 ㎥ 
  千石(船)≒ 280 ㎥

★【弁財船】より





200907-fune-higakibune1.jpg

○北前船(北前型弁才船)の「両徳丸」
(*現代に作られた模型ではなく、本物の船が活躍していた江戸時代当時に作られたもの!)

実は写真の舷側の模様を見て「菱垣廻船」の模型なのかなと思ってたんだけど、こちらは「北前船」の模型。
わざわざエイジングした凝った作りの模型だなと思ってたら、そもそもが江戸時代に制作された模型だったと今更知ってびっくりだよ。モデラーはいつの時代も凝り性なのね。。。



18世紀後半以降になると、帆に張ってある布目の数が25反帆あれば千石積みの船だろうと、帆の反数を見れば大体の船の大きさが分かるようになっていて、上の船も数えたら25反帆あった。
*中心から半分が(12反+端っこが半反)×2=25反帆

 *帆布一反(幅)…幅は3尺(90cm)前後
         →1反(90cm)× 25 = 2,250 cm

弁財船(千石船)の帆の幅は約19〜20mくらいあったようだ。つなぎ合わせるからその位になるのかな。例えば、8反帆だとおおよそで100石積み程度の船だな、と分かるような感じ。


下の模型も多分25反帆で、千石積みの大きめな弁財船だということだろう。
帆には一部黒布(たまに赤布)で棒のような印が入っているが、これを「帆印」と言い、船の所有者を識別するためのもの、らしい。
船の名前や所属は大抵船尾に幟旗があったりするらしいので、帆の黒布の存在意義が今やイマイチよく分からないらしい。装飾と言うには素っ気ない気もするので何かのサインだろうとは思われるのだが。

例えば、「本数」、左右・中央など貼り付けてある「位置」、棒線の「長さ」や「縦・横」の違いetc…がどういった基準で付けられているのかが謎…。(ものしりシートにもヒントなし)

私はてっきり酒や米・塩などだったら真ん中、材木や炭などは右、その他日用品は左とか、積荷の種類や出航する港や船主の出身地、商売の拠点などを示しているんじゃないかと予想していたんだがこれと言った説明はどこにも見かけない。
あまりに分からないので、所属する問屋仲間内でだけ分かるような内緒のサインだったのかもしれないとも考えたりする。例えば(この船は積荷を横領したり横流ししない優良船だよ!)とか、(ウチの船は積荷は確実にお届けしますよ!)と言う船主の信用度とか、今で言う口コミの★印の数みたいな感じとか?

それとも単純に遠目に見て浜から自分の乗る船や商売する相手を見分けるだけの印かとも考えたが、おそらく帆を張るのは出航する時や風のある時だけし、強風の日は畳むだろうし、そもそも浜についたら帆は下ろすだろうからやっぱり謎。。。気になる…。



200907-fune-wasen-kaisen1.jpg

○廻船1:舷側は菱垣模様ではないので「樽廻船」か「北前船」か…と悩む。
    *→「北前船」(北前型弁才船)が正解!
 忘れていたが、エントランスホールにこの1/5の模型が展示されていて、
 これはそのさらに縮小版の模型。(縮尺は不明)
 

例の船の科学館ものしりシートでは「日本海域の「北前船」(北前型弁才船)は、地方的な特徴を加えた弁才船の1つで、船首尾(せんしゅび)の反りが大きく一目で他の弁才船との区別がつきました。」と説明があるのだが、この写真は全体を写してないせいで今や私には違いが分からない。。。


しかし、何と運よくこちらのサイト↓を発見!(喜)
★【和船-概要-ここでは、船の科学館の屋内展示の中でも和船コーナーを紹介します。】(幻想連邦機構中央情報局:船の科学館レポート2005)より

すっかり忘却の彼方だった船の名前や種類が再確認できました。
ありがとうございました(*´∀`人 ♪!
と言うか、私ったら何故か北前船ばっか撮ってるわねw




もう一つの模型も構造はよく似ている。

200907-fune-wasen-kaisen2.jpg

○廻船2:舷側の菱形模様からこちらは「菱垣廻船」の模型。(だと思うw)

=菱垣廻船=

木綿・油・醤油・紙・薬などの日用品を大阪から江戸へ運送した菱垣廻船問屋仕立ての商船の事。垣立下部の菱組にした格子と高い船尾(艫矢倉)が特徴。



弁財船の中でも「菱垣廻船」(ひがき廻船)と呼ばれたものは、菱垣廻船問屋が差配していた船で、舷側に木で菱垣の模様を組 んでトレードマークとしていたことに由来する。

この「廻船問屋」そのものは自前の船を所有はしている訳ではなく、船を持っている船主に積荷の運送を依頼する(差配する)ことで商売をする、所謂運送に特化した事業者のことです。
この「菱垣廻船問屋」は大阪から江戸へ物資を輸送することで栄えた廻船問屋の一つで、有名な廻船問屋なのです。

また、酒荷を専門に扱うとする問屋(*後に菱垣廻船問屋から分離し派生した樽廻船問屋)が差配し、主に兵庫県灘、西宮で作られた酒を江戸へ輸送していた弁財船のことを「樽廻船」と呼びます。船の構造そのものなのか積荷の種類のお陰なのか樽廻船は菱垣廻船よりも荷役時間が短く済む事もあって、後には酒以外の雑貨なども扱うようになり菱垣廻船問屋よりも隆盛したと言います。(商売はいつの時代も厳しいですな)


江戸時代以前の和船は追風でしか帆走できず風が前に回ると、強風であれば風待ち、微風なら多数の櫓で漕いで進んでいたが、弁財船はむしろ横風(アビーム)で一番速く進むように造られている。
 (略)
これは当時の荷積み用大型帆船の中では世界的にも突出した性能で、水夫の数を大幅に減らし、その分多く荷を積めるようになっていて、船足が抜群に速かった。
様々な風向きに対応できるので、航路をうまく選ぶことによって風待ちもずっと少なくなり、帆だけの航海を可能とした。
 (略)
1本マストに1枚帆のこの船の特徴は抜群のスピード(ヨットなみ)。
千島海域で出会ったロシアの大型帆船が追い付けなかったと言う記録もある
西洋の帆船のように多数の帆を張る必要がないので出航に時間を取らず、ヨットと同様に逆風下で搬送に優れている。
強い風が吹き荒れる外洋には向いていないが、風が緩やかな沿岸航路では、足回りの良さ、荷の積み下ろし、接岸性などその性能を最高に発揮し、江戸時代の大量輸送時代を支えた
寛政2年(1790年)の記録に、西宮から出た新酒の入った酒樽を運ぶ樽廻船が江戸までをわずか2日で走破している。


★【弁財船4:「帆走」】(弁財船の特徴)より



200907-fune-wasen-kaisen4.jpg

○弁財船の内部構造



家康が天下を取った後、各地の反乱軍が水軍を持つことを恐れて徳川幕府は船の建造については構造的にも色々と制約をしていたらしいが、限られた制約の中で工夫していくことについて日本人はなんと言うかより燃える性質と言うか何なのかと可笑しい気持ちになる時があります。

ちなみに、この時の展示にあったか記憶にはないんだけども、この大阪から江戸に向けて出航する菱垣廻船は本当にレースを行なっていたらしい。
そして樽廻船も菱垣廻船も大阪→江戸を概ね2日で走破しておる!?

いやいや、どうして中々に和船もすごいよ。。。

新綿番船(しんめんばんせん)とは=

大坂周辺で秋にとれた新しい木綿を積み込んだ菱垣廻船によるスピード・レースのこと
江戸十組問屋成立の元禄7年(1694年)から明治時代初期まで行われました。(*明治元年は1868年)

大坂を出帆し、ゴールの浦賀への到着の順番を競ったことから当時は番船を「ばんぶね」と呼んでいました。新綿番船はその順位が賭けの対象となるほど人気を集めた華々しい年中行事でしたが、単なる競走にとどまらず、その年の新しい木綿の値段を決めるという重要な役割もあわせ持っていました。

船頭達は少しでも早くゴールしようと航海や帆装に工夫をこらしたので、幕末の安政6年(1859年)には1着の番船の所要時間が50時間(平均速力7ノット/時速13キロメートル)との大記録も達成されました。

★【菱垣新綿番船川口出帆之図】日本財団図書館(船の科学館ものしりシートNo.27/36)より
(ひがきしんめんばんぶね かわぐちしゅっぱんのず)



higaki-shinmenbansen-kawaguchi-zu.png

○『菱垣新綿番船川口出帆之図』安政期(1854~9年)の作:含粋亭芳豊(がんすいていよしとよ)の三枚続きの錦絵 ★大阪府立図書館:おおさかeコレクションより

この錦絵の解説も同じくものしりシートにあり、錦絵の構図から安治川をはさんで現在の大阪市西区、福島区、此花区に相当する場所が描かれているとあります。何と言うお祭り感でしょうw
安治川ロを出帆し江戸をめざす7隻の新綿番船が描かれている絵図もありますが、こちらは大きな画像で見つからないのよね。でも、横長のこの構図は中々に迫力がある感じなので是非現物サイズでじっくり眺めてみたいなぁ。





200907-fune-wasen-kaisen3.jpg

○弁才船(薩摩型)

一番上の写真"北前船(北前型弁才船)の「両徳丸」"が江戸時代に作られた模型とありましたが、この模型もそんな感じが漂っていますね。今や詳細は分かりませんが古い模型な気がします。



200907-fune-dougu1.jpg

○右上から1本目(キョウメノコ)、2本目(アナビキノコ)、3・4本目(タチビキノコ?)
○左のオオノコは名称がよく分からず。



200907-fune-dougu2.jpg


○和釘:右から大(カシラクギ)、中(?)、小(?)



200907-fune-dougu3.jpg

○右上から1番目(サシガネ)、2番目(サシガネ)、3番目(ジユウガネ:自由曲?「*頭が自由に曲がり、角度を写し取るのに使う定規です」)、4番目(スミサシ:墨差し)
○左中、(スミツボ:墨壺)大・中・小
○左奥、多分(各種ミノ?)



数々の船を造ってきた道具たち。

墨壺とか懐かしーーーーっ!!
昔これで遊んだよw

ああ、だから私は船が気になるのかな。




★【平成21年度 資料ガイド10「菱垣廻船/樽廻船」[2010年06月26日(Sat)]】船の科学館から見たお台場定点観測 ~ ぶらり台場ん家 ~より。→事業成果物のダウンロードで「平成21年度 資料ガイド10「菱垣廻船/樽廻船」全P37 が確認できます。

おお〜、オールカラーの資料!2010年(平成22年)の頃はなんか色々豪勢な感じです。やはりこういった資料はカラーの方が良いですね!今はなき船の姿を浮かび上がらせるのに、色の情報ってかなり大事だと思います。(ものしりシートも、写真や絵図の資料はできればカラーに差し替えてくださいw!)


船の科学館」でこの展示を見た当時(2009年:平成21年)は「へー、意外と迫力ある感じ〜」くらいの感想しか出てこなかったのだけど、今だったらもっと面白く見て楽しめるように思います。

だから、
「船の科学館」の本館展示がまたいつか再開しますように…(´ω`人)




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