航海記 ♪歌いながら行くがいい♪
私の船は、時々歌いながら旅に出る。
船の科学館と「宗谷」の思い出 3 和船の趣き(中)

船の思い出2で豪華な屋形船、改め「川御座船」の模型の後ろの説明文で




 …イマイチよく読めないんだけれど…こんな感じ?

=伏見の(京橋?)=

(京橋)は伏見における人乗せ三十石船の発着場の一つで、上り・下りの旅人でにぎわいました




はて?「三十石船」とはなんぞや??






…と、ふと気になってたあれ。
*下↓の写真の船は「川御座船」(かわござぶね)。
 …詳細は船の思い出2(上:御座船編)をご参照ください。

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○大坂の船匠、金沢貞友の図面(宝暦3年:1753年の川御座船の図面)に基づいて復元制作された「川御座船」の模型。


その後ろのちっこい説明文の「三十石船」が気になっていたので、そのまま調査を続行してみたw

三十石船(さんじっこくぶね)=

(1) 30石積みの和船の総称。
(2) 近世初期以来、京都-大坂間の淀川の水運で主役的働きをした過書奉行支配下の川船のうち、最も小型の30石積みの川船をいう。
(3)(2)と同じ 30石積みの川船であるが、旅客専用の人乗せ三十石船の俗称。
この乗合船は、京都は伏見、大坂は八軒家をそれぞれ始発・終着駅とし、昼夜を分たずに就航していたので京坂間の旅客に愛用されて、数多い淀川水系の川船の代表的存在となっていた。

船型:天当(てんとう:伝道とも書く) と呼ばれた喫水の浅い平底のもので、長さ 15m、幅 2m、深さ 0.55m。

○定員:船頭4人、乗客 32人
*下りは流れを利用し、上りは舵取りの船頭1人を残して3人が岸から引き船をして上った。


★ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説より



てんとうぶね
    (天当船・伝道船・天舟・天道船)


(1) 淀川の三十石船に代表される船首のとがった川船。淀川では大型のものを過書船(かしょぶね)として区別するが、基本的には変わりはない。天道丸。
 ※俳諧・小町踊(1665)夏
 「あしはやき天道船かなつの月〈立圃〉」


(2)小廻し廻船や漁船として用いる二枚棚の典型的な和船。二、三十石積から百石積までの小型が多く、全国的に流布しているため、船型・構造は地方により多少異なる。
 田名部海辺諸湊御定目(1781)諸湊地他着船御役付
 「辨財船・与板船・天当船 右之類百石に付拾匁御定」
 (弁財船、与板船、天当船、右の船は100石につき10匁…。?)
  =匁(もんめ)=
   ① 尺貫法の目方の単位。貫の千分の1。一匁は3.75グラム。
    現在も真珠の目方を量る単位として使用されている。
   ② 江戸時代、銀目の名。小判一両の60分の1。
   ③ 文目とも書く、銭を数える単位。銭一枚を一文目とした。
   ★三省堂『大辞林』第三版より


(3) 仙台藩など東北地方の一部で、千石積級の大船までを含む大型廻船のこと。船首のつき出た弁財船系廻船の地方的呼称。
 ※風土記御用書出(1774)「天当船 弐艘 内一」


★精選版 日本国語大辞典より




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実は他にも和船の模型も撮ってはあったのだが、如何せん写りが悪い…orz
キャプションや背後の説明文が読めん。字が小さくて読めな〜い!ミヽ(`ω´*)ノ彡
多分、一番奥のちょっと大きめで、屋根の柱が立っていて筵を張れば日除けになる感じな船が「三十石船」なのではないか?と推察。あー、でも引き綱を張るための縦柱がないなぁ。。。



三十石船の由来

徳川の初期、世相の安定とともに淀川で結ばれていた伏見・大阪間の交通機関として旅客専用の船“三十石船”が登場します。米を三十石積めることから三十石船と呼ばれ、別名を過書船(*注1)とも云われていました。

*注1…過書船:
 もとは過書(関所の通行証)を持つ船の意だったが、江戸時代には
 淀川の貨客輸送にあたった川船を指すようになった。



○全長:56尺(約 17 m)
○幅:8尺3寸(約 2.5 m)
○乗客定員:28人~30人 
 *このサイズで30人乗りて結構な定員な気もする。
  3、4人横に座って8〜10列て感じ?


大阪の船着き場:4ヶ所
 (八軒家・淀屋橋・東横堀・道頓堀)

京の伏見の船着き場:4ヶ所
 (平戸橋・蓬莱橋・京橋・阿波橋)

○時刻表(大体の通例)
 上り船(大阪→京):
    主に朝早く大阪出航→当日夕方には京の伏見着
 下り船(京→大阪):
    主に夜に京の伏見出航→翌日の早朝に大阪着

○運賃(享保の頃の船賃)
 *1716年〜1736年までの期間。
 *船賃は幕末の頃にはそれぞれ数倍に値上がったとか。
  物価変動としては妥当な感じかしら?

 上り:172文(*3倍として→516文)
 下り: 72文(*  〃  →216文)
  

★【淀川三十石船今昔】狛林氏サイトより参照。




大阪城にほど近い大阪市北区の天満橋(てんま橋)の下流にある南天満公園には「淀川三十石船舟唄碑」という石碑がひっそりある。

江戸時代、淀川は京都と大阪を結ぶ水上交通路として栄え、大阪での基点となった八軒屋船着場は対岸の京橋、石町付近にあった。三十石船とは、長さが17m、巾2.5mで、コメを30石(米俵にして75俵)積み込める大きさの船という意味であり、京都大阪を往復し、多い時は1日に300隻にのぼったこともあった。この舟唄は当時の船頭たちによって歌われていたもので、京都から大阪までの沿岸の情景を歌ったものである。

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(石碑右側の説明文より)



これは江戸期に大阪ー京都間を往来していた淀川三十石船の船頭さん達がその情景を歌った舟唄の石碑だが、現在もその向こう岸には、観光船「御舟かもめ」などの舟着き場として八軒屋浜船着場と言う場所がある。








その八軒家浜船着場の辺りから京都伏見までの道のり(水上交通では淀川)は大体↓こんな距離感です。




桂川宇治川木津川が合流して淀川になるのが京都府八幡市の辺りなので、この合流地点から上流の伏見までは宇治川を使う。

太閤堤は、豊臣秀吉が伏見城築城に伴い築いた堤防で、これ によって伏見港の水位が保たれ、同時に伏見に物流が集中するようになり、宇治川の流れを ほぼ現在の位置に変えた。

伏見港は「伏見の浜」と呼ばれ、伏見城が築かれた安土桃山時代から第2次世界大戦まで、淀川舟運の拠点だった
特に、江戸時代には大坂〜京都の中継点として三十石舟(三十石船)や高瀬舟などが往来し、港町として栄えた。

江戸時代初期には角倉了以(*すみのくらりょうい:1554年~1614年、享年60歳) により高瀬川が開削され、京都の二条から伏見との間を結んだ。(1935年:昭和10年の洪水後の鴨川改修に伴い現在は分断されている) また、明治時代中期には琵琶湖疏水が建設され、濠川に合流している。


★【淀川水系宇治川圏域河川整備計画(資料2-1)】より
2012年:平成24年5月京都府資料(P4参照)



現在の宇治川派流域の荷揚げ場(港)は、当時は伏見浜と呼ばれ、伏見には伝馬所が置かれていた。

*「伝馬所」(てんましょ)とは人足100人、馬100頭が常時用意された場所伝馬の置いてある宿場)の事。
前の宿場から運ばれてきた公用の荷物を積み替え、次の宿場まで搬送するという継ぎ立ての役割を担っていた。「伝馬」が幕府の公用をこなすために宿駅で馬を乗り継ぐための馬そのもののことで、宿場ごとに人馬を交替して運ぶ制度のことを「伝馬制」という。

そもそも前から各地で使われていたシステムではあるこれを、全国的にびっちりと街道沿いに整備したのが「鳴かぬなら鳴くまで待とう〜ホトトギス」とのんびり屋さんのイメージの家康さんだが、関ヶ原の戦いで勝利するやいなや色々なことに着手している。チラッとみてみるだけでも徳川家初代将軍家康はやっぱり色々とスゲェな…(゚д゚;と思うわ。

石田三成視点の映画『関ヶ原』は政治的な駆け引きや合戦の様子が迫力あって面白かったが、もっとこうその後の制度や仕組みの変化による社会の変貌ぶりやインフラのビフォー⇆アフターを描いた映画とか土木ドラマとかあっても面白いんじゃないかと思うんですが、どうでしょう!!
『武士の台所』とか『殿、利息でござる』とか『高速参勤交代』とかそんな感じで誰か作ってw(テーマが地味な割に予算がかかりそうだから難しいんだろうけど…)

徳川家康関ヶ原の戦い(1600年)に勝つと、全国の街道の整備を始めますが、その皮切りとして慶長6年(1601年)に東海道に宿駅伝馬制度を敷いています。


★【宿駅伝馬制度って、なんのこと?】国土交通省:横浜国道事務所「東海道への誘い」より(トップ>東海道Q&A>東海道について>Q5)



そうした人や物の行き交う要地としての色合いが濃かったため、伏見の町は江戸時代には幕府の直轄地として物資の流通基地の重要な役割を果たしていたと言う。(目を光らせていたとも言う。)
★【おこしやす伏見:港町・水の町・酒蔵の町】参照。




伏見の船着場は京橋を基点にして豪川上流に阿波橋、宇治川上流方面に蓬莱橋平戸橋があるので、やはりこの「伏見の京橋」はここ京でも特に船も人も行き交う、賑わっていた船着場だったであろう。

近世の水辺は物流・旅客のターミナルとして機能し、都市施設を集積させ都市的な賑わいの基盤となった。近代においは、近世以来舟運により保持されてきた都市機能やアメニティは鉄道駅周辺へと移行し、水辺の工業基盤機能が卓越するようになった結果、都市アメニティを享受する場としての水辺が散漫になった。

★【京都伏見における水辺の近代化に関する研究】(土木計画学研究・論文集Vol.19-no.2 2002年:平成14年9月掲載)田中氏、川崎氏論文より。
(*P331-P332の図3「伏見の浜」参照)


あー、こーゆーの 大 好 き .゚+.(・∀・)゚+.♪
文章がすごく分かりやすいし、図説が絶妙!土木って面白いよね!
(自分で勉強・研究するのはアレなので人様の論文を読んでその面白さを享受しておるだけですがw)


グーグル先生では川ではなく陸路を徒歩ではあるのだが、現代の大阪の「淀川三十石船舟唄碑」と京都伏見の「十石船乗り場」間はおおよそ39kmほどで、ここを徒歩で移動すると約8時間はかかるとある。(え!?もっとかかりそうだけど…)
船ならもっと早かっただろうな…と思ったのだが、現在の道路と地形や事情も違うのだろうか。上記サイトの資料では
「上りの船は十一里余(約45km)綱を引いて上った」
とされている。(あら、ほとんど引き綱って事!?まぁ川を30人乗せた船で逆上るんだからねぇ…)
時間も各船着き場(大阪4箇所、伏見4箇所)のそれぞれの発着時間も必要だろうしおおよそで12時間(上り)〜7、8時間(下り)と言う感じではないでしょうか。(*あくまで予想)

 *上り船「早朝発(4〜5時頃?)→当日の夕方着(16〜17時頃?)」
 *下り船「夜遅く発(21〜22時頃?)→翌日早朝着(4〜5時頃?)」


運賃の違いは、上りは川を引き綱で船を運んだ労力分の差額であろう。

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○『澱江風物図巻』(よどこうふうぶつずかん)より
 淀川を曳かれてのぼる人乗せ「三十石船」と「くらわんか船

船頭が4人(船尾の舵取りに1人+川沿いの道を引き綱で曳いている3人)で、大阪→京伏見方面に向かう絵図。枚方(ひらかた)で有名な「くらわんか船」(*餅や酒、弁当など売りつける小船。客の身分に関係なく言葉がキツイ売り文句が面白いと受けたとかなんとかw)が寄っているので枚方市辺りの情景でしょうか。

枚方市は大阪⇆京伏見の中間くらいに位置していて、時間的にも丁度お昼で小腹が空いてきた頃合いではないでしょうか。上手いこと商売してる様子が見えます。

★【淀川の川船と川御座船(かわござぶね)】日本財団図書館「船の科学館ものしりシート」No.24/36(Top>社会科学>社会>成果物情報)より

またTVの某情報番組で、たまたまこの絵図がカラーで取り上げてありました。

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★【おはようコールABC/2017年8月16日(水)/エビシーとチャレンジ 第8弾 主婦のドキドキ初挑戦】関西女子アナ.comより

おお〜、やはりカラーは楽しいですね。こーゆー絵図のモブは良いです、萌えます!船頭さんが煙管をのんびりふかしています。
三十石船の定員は30人ほど、と言う事ですが、絵図では薪が大量に積んであったり、乗客が荷を広げて何か食べていたり、着物に包まって寝ていたり、向かい合っておしゃべりしていたりで、それぞれとてもくつろいでいる船旅の様子が垣間見えます。この便の乗客は15、6人と言ったところでしょうかね。
しかし、3人の人力で30人乗りの船を曳いて川を遡れるものなんですね…。馬とかは使わないのかしら?コストかかるから人力だけ?


しかし何だろう、この時刻表の雰囲気。
ものすごく馴染み深い感じな気が…と思ったら、夜行バス(長距離バス)の感じによく似ているw
夜遅くに乗って寝て翌日早朝には目的地に到着、とはまさに夜行バスのノリ!

もしかしてあれかい、大阪の商人も時間のない人の場合は「朝大阪出発→夕方京に到着→用事を済ませる→夜は宿には泊まらずその日の夜遅くに京を出発→翌朝大阪に戻る」、みたいな弾丸出張みたいなことも出来たわけかい?(できてもやりたくないけど…)

=最盛期の三十石船=

淀川三十石船は京都と大阪間(約44.8km)を繋ぐ快速船で「早上り三十石」「早舟三十石」と呼ばれた。
多いときには162隻が就航した

 ○一昼夜の上り下り:合計320便

 ○一日利用者数:最大9000人ほど
(*1便28名乗船と仮定して×320便=8,960人)


★【淀川三十石船今昔】狛林氏サイトより参照。



例えば、大阪八軒屋ー京伏見間を上の資料から片道45kmとして、時間差で次々船が出て、一日就航する162隻が渋滞しないように行き交うと仮定して…(45,000m ÷ 162隻 = 277.7…)淀川を片道約280m間隔で船が走っていた、と言うことでしょうかΣ(゚д゚)ファッ!?
その規模からも相当活気が感じられ、夜行バスどころではなく、現代の大阪ー東京間の新幹線のような位置付けだったとし、当時しては日本の最も重要な交通機関であったようです。


そう言えば淀川は京都と大阪を結ぶ水上交通場として栄え、大阪での基点となった当時の八軒屋船着場は、江戸時代は天満橋の下手ではなく対岸の京橋、石町付近にあったと舟唄碑にありましたね。

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三十石船で行き来していた船頭たちによって歌われていたと言う舟唄。
江戸時代に京都から大阪までの沿岸の情景を歌ったものなのですが、民謡を聴けば今もその雰囲気を味わうことができます。歌はそれそのものがタイムカプセルなのです。

★【淀川三十石船舟唄】 民謡成世流の甲会発表会より
こちらはハリと艶のあるお声の大阪弁(京都弁?)と船頭さんの小話を挟んで進むバージョンで、京都伏見から大阪へ向かう船の様子になんとも雰囲気がありちょっとしたタイムスリップ感が楽しめますな。




♪イヤレサー 伏見下ればイナ
   淀とはいやじゃェ
 ヤレー いやな小橋をェ ともさげにェ
             ヤレサ ヲイヨーイヨ
 
 イヤレサー ここはどこじゃとイナ
   船頭衆に問えばェ
 ヤレー ここは牧方(ひらかた)ェ 鍵屋浦ェ 
             ヤレサ ヲイヨーイヨ

 イヤレサー 眠たかろうけどイナ
   眠た目を覚ませェ
 ヤレー ここは大阪ェ 八軒家ェ 
             ヤレサ ヲイヨーイヨ♪



淀川三十石船舟唄碑」より。

○石碑発起人:日本民謡会
(*1984年:昭和59年12/8建立)




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○「京都名所之内淀川歌川広重 天保5年(1834年)頃の作

舟唄碑に彫られてれている絵図はこの広重の浮世絵が元絵となっています。


空が明るい満月の夜なので、京伏見を夜遅くに出発して大阪を目指す便でしょうか。夜の下り便も「くらわんか船」が寄っているので、ここも枚方市辺りの情景なんでしょう。

手酌で酒を飲みつつお喋りに興じている者、酔って大騒ぎしている者、座ったままうつらうつらしている者、荷物にもたれて眠っている者、乳飲み子をあやしながら夜中に授乳している母親、舟屋根の開いている部分から夜空を眺めている若い女性、飲み食いしながら世間話に花が咲く旅人たち、褌一丁で棹差しながらも風流に満月を眺める「三十石船」の船頭たちなど、実に多様な顔ぶれが描かれています。

そして、おそらく船が到着する頃には真夜中だろうに酒に鍋にと夜食を用意して「三十石船」に寄せて商売する「くらわんか船」の面々。丁稚坊主は注文を受けて椀に汁物をよそい、…ちょっ旦那!丁稚が働いているのに何ボケーッとしてんすかwしかも満月はそっちじゃないですよ!

広重のこの浮世絵はたまらんですw
と言うか、”淀川の船旅”は「くらわんか船」とワンセットで有名、と言うことなのかもしれません。



= 江戸時代、京都と大坂を結ぶ交通の要 =

江戸時代の「東海道」の起終点は、京都の「三条大橋」であったが、その先の大坂に至るルートとしては、陸路の「京街道」とともに、「淀川」を水路として利用した。「淀川」を上り下りし、伏見の京橋などと大坂の八軒家などを結んでいたのが、「三十石船」と呼ばれる客船である。

三十石の米が積めることから名が付いたが、船頭4、5人と、約30人の客を乗せることができた。

伏見を出る下り船は川の流れを利用したが、上り船は船頭の棹とともに男たちが綱を引いて「淀川」を遡った。この船の旅の様子は、十返舎一九(じっぺんしゃいっく)の滑稽本東海道中膝栗毛』や上方落語『三十石』の中でも描かれている。

この絵図は、「淀川」を進む「三十石船」を描いたもので、京都の名所を描いた『京都名所之内』に収録されている。

★【京都府 桂・伏見(写真でひもとく街のなりたち)】より




  

江戸期に賑わい繁栄していた淀川三十石船の時代も、明治になり蒸気外輪船の導入や鉄道の開通によって陸上交通(鉄道)の時代に取って代わっていく。(* 先の論文参照)

★【京都伏見における水辺の近代化に関する研究】(土木計画学研究・論文集Vol.19-no.2 2002年:平成15年9月掲載)田中氏、川崎氏論文より
(P335 - P337「4.舟運と鉄道」)参照。

明治中頃にはこの「三十石船」も時代の流れには逆らえず、ついに淀川から姿を消し水運そのものが衰退してしまったのでした。。。








明治中期には水運が衰退したと言われてから、おおよそ130年後…令和元年(2019年)現在。

近年になって京都や大阪では、この「三十石船」を蘇らせよう!と言う働きがあり、今ではそれぞれの船着場から往時の雰囲気を感じられる船旅ができるようになっていました。

京都府の伏見では「十石舟」と「三十石船」が期間限定の観光船として運航されています。

★【NPO法人伏見観光協会|十石舟と三十石船】HPより

 ○十石舟:2019年3/21(木・祝)〜12/8(日)、
   8/1〜16(*月曜運休)
 ○三十石船:2019年3/30・31、
       4/6・7・27・28・29・30、
       5/1・2・3・4・5・6、
       (*今年の春便は終了)
       (*秋便の詳細はHPにて)
       10/5(土)・6(日)・7(月)、
       11/2(土)・3(日)・4(月)




「くらわんか船」で有名な大阪府の枚方市でも淀川舟運の再生が求められるようになり、天満橋八軒家浜船着場枚方船着場間で観光船の運航が始まっていました。(*2017年:平成29年9月から毎月1回以上の定期運航を開始。)

江戸時代、枚方は京街道(東海道)の宿場町として栄え、また、淀川を往来する「三十石船」の中継港として大いににぎわっていました。往時の「三十石船唄」を聞き、また特製のお弁当なども楽しめる舟運イベントを紹介します。

<春コース>…*終了
<秋コース>…*予定決定!
○2019年(令和元年)
9/21(土)、22(日)、25(水)、28(土)、29(日)
10/3(木)、5(土)~7(月)、9(水)、11(金)、12(土)

各便定員:45名

★【令和元年度の淀川舟運イベントを紹介します|枚方市HP】[2019年6月11日]>イベント紹介より


※ご予約等詳細は各運営団体HPにてご確認ください。




かと思えば、
同じ舟唄かと驚く現代バージョンの「淀川三十石舟唄」もあったり。

★【千原英喜/淀川三十石舟唄 CHIHARA Hideki: FUNAUTA (Barcarolle) "Yodogawa-Sanjukkoku-Bune"
《演奏》
 指揮:当間修一
 合唱:大阪ハインリッヒ・シュッツ室内合唱団
    大阪コレギウム・ムジクム合唱団
(*コレギウム・ムジクムとは?=ドイツ語: Collegium Musicum :16世紀から18世紀にかけてのドイツ語圏で見られた民間の音楽愛好団体の事。 多くの場合、市民または学生から成り立っていたが、時折プロの音楽家が参加することもあった。 by Wiki )

《収録》2011年(平成23年)6/26「第21回現代音楽シリーズ」
いずみホールにて【大阪文化祭賞グランプリ受賞公演】のアンコール演奏より





あの舟唄が、不思議と心地良くも瑞々しくも聞こえるのは現代の新しい風が吹き込まれたからか。



輸送手段が水運の船から陸路の鉄道・自動車等に取って変わり、水運が衰退したと言われて久しい近代、その大阪の八軒屋浜船着場からはこんな新しいクルーズもできるようになっています。


先にチラッと出てきた御船かもめと言う船。

ひたすらラグジュアリーで大きな豪華客船とも、交通量の多い時代に行き交う人々を乗せてバンバン出航していた三十石船とも違う、今だからこそ新しいとも言えるタイプのゆったりした小さな船が瑞々しい感覚で出航していたのだ。


○「御船かもめギャラリー」より
201907-ofunecamome-g1.png


  御船かもめは
  川に浮かぶ
  小さなおうち。

水面の風、空の広さが一番のごちそうだから、
        船は木でしつらえてシンプルに。
いつもの街の意外な素顔に出会ってほしいから、
          クルーズメニューはこだわって。
大阪の川で気持ちよく過ごすためにデザインした、
            小さな旅をご用意しています。


(船の紹介)
熊本・天草の海で真珠の養殖作業に使用されていた小舟を、都市河川クルーズむけにコンバージョンしました。大きなクッションで床座するのが基本スタイルです。

★【御船かもめ|公式サイト
(*奇しくも、2009年:平成21年に脱サラした御舟かもめ代表・オーナー兼船長が出航しております!)



そして他3名の船長さんは、みな素敵な女性ではないですか!
…でありながら、なんとなくツワモノ揃いw




なんだか素敵… ヽ(≧∀≦)ノ! これは乗ってみた〜い!



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