散々「宗谷」!ヽ(≧∀≦)ノ「宗谷」!と言っておりながら、肝心の写真があまりないのに今更気がついた…。
かなり昔になってしまうけれど(そう、軽く10年前…w)、船の科学館も現在本館は展示も休止中(2011年:平成23年10月からずっと…!?)らしいので懐かしフィルターを通してあるけれど改めて振り返ってみようと思う。
<撮影:2009年(平成21年)7月某日>

○初代南極観測船「宗谷」と青函連絡船「羊蹄丸」を(*2011年:平成23年にすでに解体…)船の科学館の上部(多分3階のテラス?)から
*画像ソフトで「宗谷」と「羊蹄丸」の一部分を水彩画風でほんのりと主張してみた。
こんなに長く「船の科学館」が休館になるなんて知ってたら、もっと色々とこんな俯瞰アングルで「宗谷」をいっぱい撮っておけばよかったな…(´_`)。。。

○当時はまだ駅名も「船の科学館」駅だったの…(´д⊂)
ゆりかもめを降りてからの船の科学館本館を船尾方面から。
実はここへ行くまでは、「船の科学館」にそんなに期待して行ったわけではなかった緑の船。
むしろ、乗船員K(タイタニックが異様に好き)が行きたいと言いだし、当時は(船の模型?しょうがないわねぇ…マ、イッカ)とさして乗り気でもなくついて行っただけなのだった。
だが、いざ入館してみてるとどうだ。…Σ(゚□゚(゚□゚*)フォー!!
広い館内に所狭しと展示してある精巧な船の模型の数々に興味津々、私もすっかりハマってしまったのだった。
もしこれで興味を持たれた方は是非!「船の科学館」へ…と書こうとして本館が今は休館中だったと思い出し凹むわて…orz(2011年10月からかれこれ8年とは…)
でも、だからこそ!あの「船の科学館」にはこんな素晴らしい展示がいっぱいあるんだよ〜(o゚□゚)o≪≪≪!と来たる再開の時を信じてその一部をご紹介しておこうと思う。
(追記※別館は今現在、無料公開中だったわ!→★【船の科学館】)

○1906年(明治39年):客船「モレタニア」号(船首から)
*「MAURETANIA」は船の科学館の説明文では「モレタニア」だったが「モーレタニア」「モーリタニア」との表記の場合もある。
ちなみにマウレタニア(Mauretania)は、古代の北アフリカの地中海沿岸に独立したベルベル人のマウリ部族の王国。船名の詳しい謂れは知らないが、もしかしてジブラルタル海峡の先端を支配していたこの王国名に因んでこの名前をつけたのかもしれない。

=客船「モレタニア」1906年(※進水年)=
「モレタニア」は世界初の3万総トン級高速客船「ルシタニア」の姉妹船として1907年(明治40年)11月に竣工しました。主機関に蒸気タービンを本格的に採用した結果、北大西洋横断航路を平均25ノットの高速で4日間で横断することに成功し、以後22年間に渡って最高速客船の栄誉を示すブルー・リボンを保有し続けました。しかし、1929年(昭和4年)ドイツ客船「ブレーメン」の登場によりその記録は破られ、1935年(昭和10年)には解体されました。
○トン数:31,938.00 総トン
○長さ:232.00 m
○幅:27.00 m
○旅客:2,165 名
○主機関:タービン4基(78,000馬力)
○航海速力:25.00 ノット
○乗船員:812 名
建造所:スワンハンター社
所属:キュナード汽船
(*イギリスの海運会社。豪華客船「タイタニック」号が沈没した当時、一番最初に救助に向かった「カルパチア」号を擁していた。「クイーン・エリザベス」号などの豪華客船もこの会社)
進水:1906年(明治39年)9月
竣工:1907年(明治40年)11月
模型の縮尺:1/50
(説明文より)

○1906年(明治39年):客船「モレタニア」号(船尾のアップ)
*スクリュー付近に見える小さなボートは曳航船だったような。
他の船と比較すると、113年前に建造されたこの船がいかに巨大だったか実感できるでしょう。イギリスの産業革命スゲェな…。
この時代の客船はその豪奢なデザインから海外の船に注目が行きがちだが、小振りながら日本の船も中々麗しく良い雰囲気なのだ♪

○1928年(昭和3年):貨客船「浅間丸」
1929年(昭和4年)9月15日、サンフランシスコ航路船として竣工した。(*横浜ーホノルルーサンフランシスコ間を航行。10月11日出発→ホノルル経由→10月24日にサンフランシスコに到着し、当時の太平洋横断の最速記録を作った。※2週間)
★【「時刻表歴史館」ホーム > 旅は国境を越えて > 日本郵船(1928)】(名船「浅間丸」誕生)参照。
貨客船とありながらも「浅間丸」はそのサービスの質の高さからも戦前は日本が世界にも誇る豪華客船でもあった。同時期に造られた龍田丸、秩父丸(後に鎌倉丸に改名)の3隻は、「浅間丸型」と呼ばれ、 船体、機関の構造、艤装面から、日本およびロイド船級協会(*注1)の最高船級の資格をもっていた。
(*注1)…イギリスの協会が定めた船の等級に関する規定。ミシュランガイドの船版みたいなもの?
蒸気船や軍艦の建造をイギリスに頼っていた日本で、ロイド船級で作られた最初の船が、明治丸。(英国グラスゴーのロバート・ネイピア&サンズによって建造されたスクリュー船。進水:1874年(明治7年)9月26日)
海の日として知られている7月20日は1876年(明治9年)に明治天皇が明治丸で横浜港に帰着されたことを記念して設立された祝日なのだ!…と今知る。(1941年:昭和16年に「海の記念日」が制定→1996年:平成8年に国民の祝日「海の日」となる。)
進水してから今年(2019年:令和元年9月)で145歳(!)になる明治丸は、現在も東京海洋大学の乾ドックに展示されている。
ゆりかもめからそのマストが眺められたような気がしていたんだが、あれは竹芝桟橋の中央広場にある日本丸のマストだけのモニュメント(レプリカ)でした…。
=明治丸への行き方=
(1)越中島駅から徒歩で2分(JR京葉線、武蔵野線)
(2)門前仲町駅から徒歩で10分(東京メトロ東西線、都営大江戸線)
(3)月島駅から徒歩で10分(東京メトロ有楽町線、都営大江戸線)
★【「明治丸」修復工事竣工後の空撮動画】TUMSAT(2015年:平成27年8/17公開)より。(|ω・`)「宗谷」もこんな風に保存してほしい…)
明治丸からわずか11年後。1885年(明治18年)に共同運輸会社と三菱商会が合併し日本郵船会社が設立されたが、その際に使用されていた船はほとんどがロイド船級のものとなった。
木造での和船を造船していたばかりの日本が明治になって数十年で、海外に進出するような造船業、海運業を展開することができたのは、明治政府の強力な後押しとこのロイド船級協会の助けがあったからこそだとある。
他国の実業家たちが長年の知識や経験を秘密にし、高額の見返りなしに手放そうとはしなかったのに対し、ロイドレジスターは2世紀以上にわたって積み重ねてきたその知識と経験、そして研究の成果を日本の造船業の発展のために日本人が自由に活用することができるよう与え、ただの一銭も求めることはなかったという。
★【日本の造船・海運とロイドレジスターの関わり】Japan-ロイド船舶協会(執筆:2006年4月、改訂:2015年4月)より参照。
あのイギリスが無銭で技術を公開…だと!?正直にわかに信じられないw
(どうしてだかわからないけれど…)ありがとう!イギリス!
とは言えやはり、日本最初の株式会社のひとつとして日本郵船株式会社が誕生した当時(1893年:明治26年12月1日)、海運会社は各方面の航路を開拓しようとしたが、米国のPM社や英国の名門船会社P&O社(*注1)との既得権益の争いで中々苦労したと言う。定期便も増やし美しい船を建造できるようになってやっと名門の船会社として認められるようになっていった。
*注1:米国のPM社(Pacific Mail Steamship)
英国の名門船会社P&O社(Penninsula & Oriental Steam Navigation)
★【先駆者たちの大地:日本郵船株式会社 創業者「岩崎弥太郎」】(1875~1885年 上海航路の勝利と日本郵船の誕生)参照。IRマガジン2001年7-8月号 Vol.50 野村インベスター・リレーションズ「man@bowまなぼう」も、この頃の海運事業の盛衰など分かりやすく記述がありおすすめです。
○1931年(昭和6年)撮影:就航時の「浅間丸」
(by 国際情報社 - 『世界畫報』昭和六年八月號より)
パブリック・ドメイン Link(by Wiki)
=貨客船「浅間丸」1928年(※進水年)=
日本郵船が太平洋航路の充実を図るため、17,000総トン、20ノット級客船を建造、就航させた3隻の豪華客船の第一船が 「浅間丸」でした。船内の設備には豪華な装飾がこらされ、イギリスの古典様式を取り入れるなど、「太平洋航路の女王」の 名にふさわしい船でした。さらに「浅間丸」は、当時わが国最大の客船であったばかりでなく、大型ディーゼル客船としても太平洋航路では最初の船でした。終戦も近い昭和19年(1944年)11月に米潜水艦の雷撃を受けて沈没しました。
○トン数:16,947総トン
○全長:178.00 m
○幅(型):21.95 m
○深さ(型):12.95 m
○主機:ディーゼル4基(16,000馬力)
○最大速力: 20.71ノット
○乗組員:329名
○旅客:1等 239名、2等 96名、3等 504名
建造所:三菱長崎造船所
所属:日本郵船株式会社
浸水:昭和3年(1928年)10月
竣工:昭和4年(1929年)9月
模型の縮尺 1/65
(説明文より)
この豪奢な貨客船「浅間丸」も第二次大戦中には海軍に徴用されたり、交換船として活躍した。交換船となった時には、あの麗しい船体も、煙突・マストなどと共に灰色に塗り替えられ、煙突の二引マーク(※ファンネルマーク=船主や運航者を識別するものとして汽船の煙突側面に描かれる塗装マーク。”日本郵船”が白地に赤ライン2本の二引マークと呼ばれた)も灰色で船体や煙突には”白十字”を描いて(攻撃対象とされない)交換船であることを遠くからでも分かるようにしていたとか。
★【紙で作る商船の模型:「浅間丸」】サイト参照。
しかし再び海軍の輸送船として徴用され、終戦間際の1944年(昭和19年)10月、レイテ島の戦い用の増援部隊である第1師団をマニラまで送り届けた帰路の11月1日、高雄へ向けて護衛艦とともにバシー海峡(注1※)を北上中にアメリカの潜水艦アトゥル (USS Atule, SS/AGSS-403) の雷撃(発射6本中3、4本が命中)を受け撃沈されたと言う悲しい歴史を持つ船でもあった。
(注1※…バシー海峡)

台湾とフィリピンの間に位置する海峡。この海峡は大東亜戦争末期、南方に向かって航海中の船舶が米軍潜水艦の魚雷により撃沈され“魔の海峡”、“輸送船の墓場”と恐れられました。少なくとも10万、最大で26万とも言われる多くの犠牲者が眠っています。
★【バシー海峡戦没者慰霊祭:2019年11月17日「本慰霊祭開催の背景」】潮音寺サイトより
ここは、現在も日本の海運業および国防にとって重要な要所の一つだ。