玄関から奥の南側の部屋へ移動してハッとする。

たまたまかもしれないが、1月だというのに風もなく燦燦と陽の光が注ぐこの日は、窓を開け放していても寒々しさを全く感じない。
*小泉八雲旧居(ヘルン旧居)
怪談『雪女』『耳なし芳一』でなじみの深い、明治の文豪小泉八雲。(アイルランド名:ラフカディオ・ハーン)
英語教師として松江に赴任してきた八雲は、セツ夫人と結婚した後、かねてから念願であった「武家屋敷」を求めて借りて暮らしました。
当時この屋敷は旧松江藩士根岸家の持ち家で、あるじ干夫は簸川郡(*ひかわ郡:現在の出雲市)の郡長に任命され、任地におり、たまたま空家であったのです。
部屋をぐるりと取り囲む庭は、根岸干夫の先代根岸小石の手によるもの。
自然の山水を絡めたこの庭は、八雲の名著『知られざる日本の面影』のなかでもあますことなく、その魅力が描かれています。
さあ、どうかみなさまも松江時代のヘルン先生の世界をお偲びください。
旧居門前の看板より
ヘルン先生というのはハーンの綴り「Lafcadio Hearn」を誤読した松江の人々がそう呼んだことから付いた名前だが、当のハーンもこの「ヘルン先生」という呼び方をたいそう気に入った♪ため、そのまま定着してしまった愛称である。
松江の風景や人々に魅了され、また松江の人々からも愛されたヘルン先生だが、この町に滞在したのはわずか1年と3ヶ月だった。
それはあの山陰地方の厳しい冬の寒さに、肺を患っていたヘルン先生の体が耐えられなかったためのことだったらしい。
…というか、現代人の我々でもこの屋敷でエアコンも電気コタツも石油ファンヒーターもなく、火鉢と猫コタツだけで冬を過ごせと言われたら間違いなく風邪引いて寝込むと思う!(*当時の日本人てありえないほど寒さに強すぎ!?)
その後、ヘルン先生は気候の温暖な九州は熊本の学校への赴任が決まるのだ。
松江に滞在した明治23年(1890年)8月から明治24年(1891年)11月までの1年3ヶ月のうち、この根岸家の武家屋敷に居住したのは明治24年(1891年)5月から松江を去る11月のたった6ヶ月の間だった。
しかし、ここでの出来事はヘルン先生にとってよほど思い出深かったと見えて、名著(*)『知られざる日本の面影』(*訳によっては『知られぬ日本の面影』、『日本瞥見記』)でもとても美しいことばでこの町、この屋敷で過ごした時間を綴っている。
*原作『Glimpses of Unfamiliar Japan』(1894年出版)
ホートン・ミフリン版 ハーン全集(全16巻) 1922年出版
上・下2巻本(700Pを超える)
収録作:「序文」を含めて27編。

日本の庭は、実際にはありえないような風景を、あるいは完全無欠な理想の風景を造り出そうとしたりはしない。庭が芸術として目指すのは、現実の風景の魅力を忠実に模倣し、本物の風景が伝えるのと同じ印象を同じように伝えることにある。それゆえ日本の庭園は、庭であると同時に一幅の絵であり、一篇の詩であるとも言える。おそらく絵より詩の要素が強いと言えるかもしれない。
『新編 日本の面影』ラフカディオ・ハーン…「日本の庭にて」第3章より
*新編は原作全27編中から11編に絞って編集されたアンソロジー。
外国人であるヘルン先生が日本の庭園の異国情緒に打たれただけだとしても、この部屋から眺める庭に心を奪われた気持ちが、初めてここを訪れた人々にも伝わるといいなぁ…と思う。

このように縁側のある風景は、緑の船に強い郷愁に似た憧れを湧き上がらせる。
どうして、こんなにも懐かし~いそれでいてウキウキした気分になるのだろう。
ふと振り返る。

南側の部屋から玄関が見える。
向こうの部屋にも紅白の水引のある生け花があったが、襖(障子)を隔てたこちらの部屋の隅にも対のように椿が生けてあった。

贅沢だ、いやまったく。
こんな粋な計らいができるのも、「市」などの行政ではなく、所有者である根岸家の方々が管理されてらっしゃるお陰かもしれない。