さあ、お茶も頂いて宝物殿も覗いたが、もう一度7代藩主の名君松平治郷(はるさと)公の廟門を拝んでおこう。(*そう、ここは何度でも見ておきたいと思わせるのだ)

この7代目の松平治郷公は出雲松江藩の歴代藩主の中でも特に有名なお殿様だ。
*7代治郷公(不昧公)
茶道不昧流の茶祖としても有名。
17歳で家督を継ぎ以来40年間、貧窮した藩の財政を建て直すため治水植林、産業、工芸等の画期的な発展を計って中興の祖を言われた名君。
特に、佐蛇川放水路の開削によって松江の水害を防いだこと、名器の散逸を防ぐために千万金を投じて収集されたこと、数多くの名工を保護育成されたことなどは特筆すべきである。
(看板より)
しかし、この17歳で7代目となった藩主は茶人大名としても有名なのだが、幼い頃から勇気盛んだったらしい。(要はやんちゃ坊主の暴れん坊…?)
それに心を痛めた周囲の教育係や家老たちが、殿が常道から外れないようにと茶道や禅学に導いたのが茶人大名治郷公の原点なのだというのは意外でおもしろい。
しかし茶道は公の好事となって、三斎流、後には石州流も修めやがてこれらの流派を融合させて石州流不昧派を起こすまでにいたったというほど熱心に勉強した。
また禅学は麻布天真寺巓和尚について修行をし生涯の支えとなった茶禅一味の境地を会得する。(*なんというか、こうと決めたら一直線!な方だったのだろうなぁ)
茶の湯に熱心になり過ぎるあまり家老らが諌めると『贅言(むだごと)』を著して反論し、
「これも治国に通じることだ」
と諭したという。(*幼年からの暴れん坊は屁理屈の減らず口でもあったのか!?)
いやいや、『贅言(むだごと)』の書き出はこうだ。
『つらつら世間の茶道を見るに、後人の作意にして、
基本を知らざる故に、事理本意に違うこと多し。』
by不昧公
基本は物の土台であり骨でもある。
基本抜きにして物は成り立たない。
ところが人間というものは、表面的なものに囚われて奥深き精神の部分を蔑ろにしてしまう。
精神が有ろうと無かろうと、表面から見れば分からないと思いがちだ。
精神を持たぬ者ほど、表面だけに固執する。
精神を持った者は、持たぬ者を見抜く。
表面だけの者は、浮き草と同じで地中に根を張ることは出来ずに流されていく。
精神を持った者はそこに根を張ることが出来、成長を続ける。
精神とは、自己修養の心とそれを目指す絶え間なき努力をいう。
…といういわゆる哲学書の類のものなのだそうだ。
この『贅言』を不昧公は若干20歳で書き記している。
まあ、家老たちに諌められるほど20歳で茶の湯に興じ過ぎたのだろうが、それを哲学書で反論というのも不昧公の若き日の性格が想像できておもしろい。
『専ら禅林の静観に本づき、白露地の本號を定む、
これ茶の湯の根本なり。
當世の茶の湯といふは、皆草庵の茶なり。
然るを、美をつくし結構を成すことに成りしは、
にがにがしき事なり。』
by不昧公
心の安定こそが、人間の幸せであろう。
心が揺れ動けば、心身ともに疲労を増す。
自分という存在を確認するために他人との比較をしようと思えば、見る角度が増え、揺れ動き、まるで船酔いのような状態になってしまう。
自分の与えられた境遇の生活こそ、もっともふさわしいはずなのについ背伸びをしてしまう。
背伸びしていたら足が疲れるのは当たり前。
自然の形、姿こそ安定できるものだ。
『休の茶湯の成り行きを、百年の前に云はれしも、
その品はかれども、其妙なる處相同じ。
誠に名人の上なれば、かくあるべきことなるべし。』
by不昧公
物事を大成した人物とは常に先を読んでいる。
それは、時代の流れではなく人間の奥深い心理を周知しているからであろう。
茶の湯が堕落するであろうと、利休は読んでいた。
いつの時代でも人の心理は同じはずである。
歴史を学ぶことは、未来を学ぶことである。
(略)
不昧公の時代も茶の湯精神の根本を忘れ、華美に成り過ぎ修養の心を忘れてしまったのだろう。
それを嘆き戒めたのが『贅言(むだごと)』である。
★【松平不昧公 生誕250年祭(2001年)、『贅言(むだこと)』著書230年記念松平不昧公の「茶染め」】より(記事は2000年春)
若輩者の著とはいえ、後年名君と謳われただけあって、現代でもなかなか含蓄のある哲学書となっているようだ。
その不昧公も、晩年は江戸別邸大崎園には茶室「独楽庵」を移築するなどして茶の湯三昧に過ごしたという。
(*やはり屁理屈というか口達者な方だったような気も…)
不昧と号したのは56歳の文化3年(1806年)に退隠して斎恒(なりつね:8代目)に代を譲り、その後剃髪してからだからかなり晩年になってからだ。
文政元年(1818年)に江戸にて68歳で死去。
天龍寺(東京都)に葬られたが、後に月照寺に移葬された。
★【出雲市・平田本陣記念館】参照。
歴代藩主の中でも、不昧公はかなり長生きした方だったのだ。
多くの藩主が30代、40代で亡くなっている時代には。
この茶道不昧流の始祖であるだけあって、このお寺では不昧公の祥命日である4月24日に近い日曜日に、使い終えた茶筅の供養を行う「茶筅供養(ちゃせんくよう)」を行うのだそうだ。
お茶の愛好家で組織する松江茶道会による茶筅供養・記念茶会というものが松江藩主松平家代々の菩提寺である月照寺にて行われる。
昭和30年(1955年)に第1回目が開催されているもので、この茶筅供養は、各茶道流派の関係者が日頃愛用した茶筅を感謝の意を込めて供養するもの。
稚児行列を先頭に隊列をくみ、本堂より祭壇までの間を行列する。
記念茶会は、月照寺書院において毎年の各担当流派、不昧流不昧会により開催され、当日800円でお抹茶(和菓子付)を一服頂くことができる。
問合せ先 : 松江茶道会事務局 松江観光協会
TEL 0852-27-6869
で、肝心の茶筅とはなんぞや…? と思っていたらこんな↓素晴らしいサイトがあった。
★【ちょっと茶道具:茶筅のこと】
ああ、あの泡だて器のことね!(爆)
それにしても、ここはお茶のことをまったく知らない素人にもとってもわかりやすい!
いいなぁ、なんかお茶習いたくなってきた♪

それにしてもこの廟門の装飾がすばらしい!
この透かし彫りは不昧公が好きだったという「葡萄」を模したもので、お抱え工匠の小林如泥の作と言われている。
初代廟門の時にはあまりの「いい仕事」に「地方工匠のものではない…」と言われたが、この7代目の頃にはここ松江でもそういった中央(京都や江戸!?)に負けないような「芸術的工匠」が育っていたということだ。
もっとも、このようにすばらしい工芸の技術を育てるように藩政で育成したのも不昧公の功績のひとつなのだ。
不昧公にその育成を助けられ開花した小林如泥は、藩主がまだ生きているうちにこの場所にこのような装飾の廟門を…とその設計に共に携わったのだという。(小林如泥はその藩主より5年も先に亡くなってしまったのだが)
その仕事っぷりは、歴代藩主の廟門の中でも群を抜いている。

門扉はむしろすっきりしている。

門を潜ると、その先にこのような霊廟があり、この形は歴代藩主はだいたい同じ構成になっている。
ここは「月照寺」。
そして、「御霊屋」(みたまや)には位牌が安置されてある。
お盆には「送り火」の法要が行われる。
が、霊廟前には「鳥居」が構えられている…。
寺(仏教)と神社(神道)が混然と、しかししっくり一体化している。神仏混合ってこんな感じ?
墓石も私がお墓で見る形とは随分違う。
これは…庭にある「灯篭」にむしろ似ている。
それも、なんというか、丸っこくて、地震でも起きようものならあっさり転がってしまいそうな形だ。
つくづくこれらの設計の基本概念はおもしろい。
外国の建造物で、「壊れた」時のことを想像して作るという考え方はあるのだろうか?
普通は「壊れないように」と頑丈に作ろうとするんじゃないだろうか?
そう言えば、広島の宮島にある厳島神社も海のすぐそばにあって台風などの水害によく会う土地柄なのだが、むしろその造りは水に流されればあっさり壊れるような骨組みにしてあるという。
水害に遭ってバラバラになったらまた集めて再建すればいいと、壊れやすい設計にもともとなっているらしい。
ううーむ、すごい…。
緑の船は、日本の気候とそれらとの付き合い方に関する昔のその考え方にものすごーく感銘を受けた。

ちなみにこの門の中の装飾は月照寺の入り口にあたる「唐門」のものだ。
月照院にちなんで、雲間の満月が模されている。

そして、これは7代不昧公の廟門の装飾。
同じ月でも両側に荒々しい龍神を配してあり、「神社」の狛犬のごとく「阿」「吽」の表情が見て取れる。
松江は水害にも悩まされていた土地柄でもあり、不昧公は水神様も信仰していたんじゃないだろうか。
これ以上町が水害に遭いませんように…と願いを込めたのかもしれない。
江戸時代までの日本の治水技術は、激しい洪水を完全に技術の力でコントロールすることができないという前提に立ち、いかに洪水とうまく付き合うか、あるいは洪水という自然の猛威とどのように付き合うか、どのようになだめすかして付き合うかを基本としていたという。
洪水など自然の驚異は完全に人間の技術でコントロールできないもの、という圧倒的なものであるからこそ、江戸時代には治水事業には徹底的な重点主義が採られてきた。
(例1)
現在の東海地方にある尾張藩は徳川御三家なので、治水上どうしても守らなければならない。
↓
なので木曽川の堤防は、尾張藩対岸を3尺以上低く設定して築く。
↓
洪水の時は低い堤防の方に水が溢れる。(尾張藩側は被害が少なく済む)
*俗に「尾張三尺」と呼ばれる治水法。
(対岸には住みたくないなぁ…)
(例2)
武田信玄の治水事業
甲府の町を守ることを大前提として信玄堤を築き、その対岸はほとんど無視するというもの。
これらは全ての土地を同じように洪水の被害から守ることはできないならば、どこかに優先順位をつけて重点的に守る、という徹底した重点主義の政策だった。
洪水をいかに上手くなだめすかすかということを考えたり、治水は川だけでは対応できないので、氾濫しそうな場所をどう利用するか。
また、いわゆる洪水によく遭う地域には住まない、あるいは、水に浸かっても抵抗できるような作物を植えるなど、さまざまな方法で多面的に治水に対応してきたことが、江戸時代末期までの日本の治水です。
★【ミツカン水の文化ファーラム2003年:コメンテーター高橋裕】より
*高橋裕(たかはしゆたか)
1927年(昭和2年)、静岡県生まれ。
東京大学第2工学部土木工学科卒業。
松江に来た乗船客員のひとりは、ここの土地が「水」のすぐそばにあることに驚いていたっけ。
どういうことかというと、湾内の海にしても宍道湖にしても道路のそばを流れる水路にしても、水面から人々の生活する土地の高さにあまり差高がない、というのが驚きなのだそうだ。
同じように水害の驚異に悩まされる彼らの土地には、大きな川があっても人家と隔てるために大きくて長い長い堤防があって当然だからだ。
台風や大雨が来たら、こんなに「川」や「水路」が道路のすぐそばにあったら水没してしまうんじゃないか!?と思うらしい。
多分、人口の違い等もあると思うがその土地によって水害をどう対処するかという考え方も変わっているのかもしれない。
緑の船としては、もしここ松江が水路や川、宍道湖に「高潮がきたら困るし」と高い高い堤防を張り巡らせてしまったら、………多分この街の魅力が半減してしまうような気がするんだなぁ。
よそ者の勝手な感想だけど。
もちろん市街から離れた大きな川には堤防もあったが、この街は概ね足元にすぐ「水」が流れている、そんな印象を与え、その印象が緑の船を捕らえるのかもしれない。
門を潜り、7代藩主の霊廟である鳥居の前で手を合わせる。(鳥居があるが柏手は…打たない方がいいような気がした)
財政難で大変だったんでしょうな。
でも、それぞれの藩主が頑張ってこのような美しい町を作り上げてきたのだ。
(藩主さま、この松江がいつまでも静かで美しい町でありますように、どうか町をお守りください…)
合掌(-人-)。
お祈りして、くるりと振り返ると足元に「↑」矢印があった。
が、なんというか、こう実に素人っぽい作りの「案内板」…?
その位置に立って、指示通りに視線を上げてみると…

山の緑の間と廟門の庇の向こうに、計算されたように松江城が見えるのだった!
(写真は光がまぶしくて白飛びしてしまってまったくお城が映ってないが…)
その松江城は明治8年(1875年)には一度取り壊されている。
そして天守閣だけはと有志が資金(米俵100俵分)を募って保存され、その後5年間かけて現在の城を再建したのだという。
不昧公は毎日この町を見守っているのだ。
階段を下りて行くと下から境内を清掃しているおじいさんとすれ違った。
会釈して一度すれ違ってから、おじいさんが振り返った。
「看板、わかりましたか?」
「?」
「上に調度お城が見えるいい場所があるんですよ」
「ああ、はい!
あそこに立ってお城を拝ませていただきました!」
そう答えるとおじいさんは「そうかそうか」(´∀`*)と満足そうにニコニコと笑った。
もしかして、あの「看板」、このおじいさんが自作したのかもしれないなぁw
★【しまねバーチャルミュージアム:不昧の茶道ネットワーク】参照。