★【月照寺の案内図】
初代藩主、松平直政公の御廟*県指定文化財

直政公は、越前福井城主結城秀康(*徳川家康公の次男)の三男として生まれる。
慶長19年(1614年)、大阪冬の陣に14歳で初陣し、その見事な武者振りに敵将真田幸村も思わず軍扇を投げて賞賛したという逸話を持つ武人でもある。
寛永15年(1638年)、嗣子なく病死したため一代で終わった京極氏に代わり、同年、徳川家康の孫にあたる松平直政公(38歳)が信州松本から禄高18万6千石で松江に移封され(*)、文化の開発、国産の増殖など大いに治績をあげ、藩の基礎を築いた名君となる。
*石川康長が造営したという信州の松本城は天守、乾天守、渡櫓で、その40年後天下泰平となった1633年頃に戸田氏の後で新しい城主となった松平直政(当時33歳。時の将軍・徳川家光の従兄弟にあたる)により辰巳附櫓(たつみつきやぐら)と月見櫓(つきみやぐら)が増築され、今のバランスがとれた天守の姿になったという。
初代藩主直政公のこの廟門は桃山文化の作風が巧みに取り入れられており、木割りや彫刻の出来栄えなど地方工匠の作ではないと言われ、山内廟門中の傑作でもある。
(*境内看板より)
>地方工匠の作ではないと
ひでぇ…^_^;。
田舎だって芸術家肌の職人はいたかもしれんのに。。。
もっとも直政公は信州松本から山陰松江に移封になった時、当時のお抱え大工職人たちもつれて行ったとされている。
そう言われれば、松本城と松江城はなんとなく雰囲気が似ているかもしれない!?
はっ、徳川家康は愛知県は尾張の出身。
先日紹介した自然食れすとらん【ビーバイブ】のベジミート丼名古屋風は、案外こんなところで繋がっていたのか!?なーんて。
もっとも松江城は慶長12年(1607年)~慶長16年(1611年)に松江開府の祖、堀尾吉晴が築城したのが始まりなので、もともとあの色形だったのかもしれない。
その後松江城は堀尾家3代、京極家1代、松平家10代の居城となり、現在は山陰地方で唯一の現存する天守閣となっている。
しかし確かに、5代藩主の頃まで松江藩はかなりの財政難で、京都からの嫁さんを迎える準備がなかなか出来ず婚礼を延期したというくらいだから、それまでは匠と呼ばれるような職人もそういなかったかも…。
そういう意味では、この地方にたおやかな文化を持ち込んでくれた歴代藩主にお礼を言わなくてはならないのかもしれない。
初代藩主直政公は寛文6年(1666年)、66歳でなくなり、その後江戸生まれの息子である松平綱隆(つなたか)公が36歳で家督を譲り受ける。
そうして、月照院の墓所としてあった所に、2代目藩主となった綱隆公が遺命により境内に直政公の廟を造り、山号を歓喜山と改めてから、月照寺は歴代藩主の菩提寺となっていくのだった。

★【越前松平氏家系図:世界帝王事典】参照。