航海記 ♪歌いながら行くがいい♪
私の船は、時々歌いながら旅に出る。
DATE: 2007/02/25(日)   CATEGORY: 建築物
松江旅情 23 月照寺 ③歴代藩主たちの廟門

境内の順路通りに行くと、次に7代藩主治郷公(不昧公)の廟門がくる。
が、この7代藩主治郷公(不昧公)の廟門は、ちょっと他の廟とは趣が違うのでラストに持っていこうと思う。

★【月照寺(境内案内図)
(だいたいこんな並び↓になっている)

初代→→→7代→→→→5代月照院3代9代
 ↑           ↓          ↓
 ↑           ↓         2代
 ↑           ↓          ↓
 ↑         御霊屋 6代4代8代
 ↑             ↓
 ↑             ↓
 ↑            本 堂
唐門←←←宝物殿←←高真殿
 ↑
 ↑雷電の碑
 ↑
 ↑ 
 ↑
 ↑案内所 




歴代藩主の廟は9代藩主斉斎公までで、1873年(明治6年)まで続いた10代藩主松平定安のものは、時代の混乱からか東京の天徳寺に埋葬されその後東京の護国神社に分葬されたまま移葬されていない。



墓所2


左 : 5代藩主松平宣維公の廟。
右 : 3代藩主松平綱近公の廟。
間に、初代藩主直政公の生母「月照院」のお墓がある。
この月照院のお墓もちょっと変わった石碑なんだよ。
月を模したような丸い球形の石が乗っかっており、歴代藩主の碑もそれに倣っている。
宗派によるのかもしれないけど、見たことなかったのでなんか不思議な趣。






月照寺5


冬だというのに、苔の緑などが鮮やかなのが妙な気分だった。




以下、歴代藩主の廟門が続くが、カメラの調子が悪く撮り損なったものがあったり、通り過ぎた後でカメラが復活して戻って取り直したりしたので、今となってはどれが誰の廟門だったか分からなくなってしまった。
基本的には↓の順番になっていると思うが…違ってたらご容赦を。



門廟12









5代藩主宣維(のぶずみ)公の廟


松平宣維 (1698年~1731年)
父:出雲松江藩4代藩主 松平吉透
1705年~1731年 出雲松江藩5代藩主
1712年 従四位下侍従
1712年 出羽守
1716年 権少将



あの松江鼕行列(まつえどうぎょうれつ)の元になった時代の藩主。
京都からのお嫁さん(岩姫*父親は伏見宮邦永親王)を迎えるのに財政難で婚礼を延期したというお殿様だ。

過去記事参照→★【松江旅情15 蔵


宝永2年(1705年)、父吉透の死去によりわずか8歳で家督を継ぐ。
享保2年(1717年)頃より外国船がしばしば日本海沿岸に出没し、幕府の命によりこれを撃退している。(*この頃から大変だったのだね…)
享保16年(1731年)、江戸にて34歳の若さで死去。
天徳寺(東京都)に葬られたが、後に月照寺に移葬された。





  ↓



*3代藩主綱近(つなちか)公の廟


松平綱通 (1659年~1706年)
父:出雲松江藩2代藩主 松平綱隆
1673年 従四位下甲斐守
1675年~1704年 3代藩主
1675年 侍従
1675年 出羽守



この殿様が失明した時に、憐れに思った小姓が自分の目を抉って献上したという美談があるほど、部下(?)に慕われた殿様だったようだ。


延宝3年(1675年)、2代綱隆公の突然の死去により17歳で家督を継ぐ。
この頃出雲地方では災害続きで、元禄元年(1688年)の水害時には藩主自ら船で巡視し被災者の救済にあたったという逸話も残る。
その他、長州より陶芸家倉崎権兵衛を招き、出雲焼(楽山焼)を創業する。
宝永元年(1704年)、眼疾のため弟である吉透を後継ぎとして養子に迎え、自らは46歳で退隠生活に入る。
宝永6年(1709年)51歳で死去。






門廟4



この辺りは5代藩主か3代藩主の廟だったと思う。
財政難だったせいなのか、廟門の意匠もなんとなくシンプルな感じだ。





門廟5



見えにくいかもしれないが、水仙や梅?の枝にとまる鶯の彫刻などが施されている。
春の草木が好きなお殿様だったのだろう。
なんとなく慕われていたという3代目のようなイメージ。



  ↓



9代藩主斉斎(なりよし)公の廟


松平斉斎 (1815年~1863年)
父:出雲松江藩8代藩主 松平斉恒
1822年~1853年 9代藩主
1826年 従四位下侍従
1826年 出羽守 従四位上権少将



別名鷹殿様と呼ばれるほど放鷹が大好きだった殿様。
他に栗ご飯風呂吹き大根が好物で、西洋かぶれでもあったというユニークな一面も。
文政5年(1822年)、父斎恒の死去によりわずか8歳で家督を継ぐ。
この頃文政7年(1824年)は、イギリス船が常陸に上陸し、イギリス捕鯨船が宝島で牧牛略奪事件を起こすなど、列強の横暴が目に余っていた頃だ。
文政8年(1825年)、腹に据えかねとうとう幕府が異国船打払令を出した時代であった。



父の遺志を継ぎ「出雲版延喜式」(*)を完成させ幕府に献上する。
(*)延喜式:「養老律令」の施行細則を集大成した古代法典。
延喜5年(905年)、藤原時平ほか11名の委員によって編纂が開始され、「式」は延長5年(927年)、藤原忠平ほか4名によって奏進された。
その後修訂が加えられ、40年後の康保4年(967年)に施行。
全50巻。
条数は約3300条で神祇官関係の式(巻1~10)、太政官八省関係の式(巻11~40)、その他の官司関係の式(巻41~49)、雑式(巻50)と、律令官制に従って配列されている。(*→「出雲版」とは、このような神事を含むこの地方の古典的法令集のことだろう)

9代斉斎公はこの時期松江藩に入り始めた西洋の砲術・医術等に興味を示す。
その他、特に時計にご執心で後に収集家(*コレクターのハシリか!?)としても有名になった。
一方相撲も大好きで、伝説の力士雷電為右衛門(らいでんためえもん)などの藩力士を抱えて優遇した。(*月照寺の唐門入り口にその雷電の碑がある)
この西洋かぶれの状況を見かねた親戚から引退を迫られ津山藩主松平斎孝の四男済三郎(=定安)を養子に迎え、娘と結婚させて代を譲った。
藩主としての評判はよくなかったらしいが、9代藩主の西洋好みは松江藩の近代化の礎となったとも言われている。
文久3年(1863年)、江戸にて49歳で死去。
天徳寺(東京都)に葬られたが、後に月照寺に移葬された。






門廟14



これはシンプルだけど、ちょっと新しい感じがするので8代斉恒公か鷹殿様9代斉斎公のものかも、と推測。



  ↓



2代藩主綱隆(つなたか)公の廟


松平綱隆 (1631~1675)
父:出雲松江藩初代藩主 松平直政
1651年 従四位下信濃守 出羽守
1666年~1675年 2代藩主




社会不安や士風の弛緩、財政悪化の兆しなどから藩内が混乱していた時代の殿様。



重臣香西隆清の追放事件や大水害による被害、これらにより藩内では混乱と財政悪化が顕著になり、綱隆は藩札を発行することでこれを切り抜けようとしたが逆に財政が悪化したという。
しかし、印象的な事件は延宝元年(1673年)に起きた人妻横恋慕事件だ。
綱隆公は、小野隆俊の美貌の妻に恋するあまり、夫に無実の罪を着せて流罪としてしまう。(*オイオイオイ!)
夫だった隆俊はその後に死亡した。
夫の怨霊を恐れ推恵社小野隆俊を祀ったが、綱隆公は延宝3年(1675年)の4月に45歳の若さで急死した。
あまりに突然の死であったため、隆俊の亡霊に殺されたと噂されているらしい。




イマイチ誉められた素行ではない殿様なようだが、恋愛に盲目になってしまった辺りがなんとなく人間ポイなとも思う。





門廟6







門廟7




  ↓



8代藩主斉恒(なりつね)公の廟


松平斉恒 (1791年~1822年)
父:出雲松江藩七代藩主 松平治郷
1804年 従四位下侍従
1804年 出雲守
1806年~1822年 8代藩主




お酒が大好き!だったので、廟門には「ひょうたん」の彫刻がしてある。



文化3年(1806年)、父治郷公(不昧公)の退隠により16歳で家督を継ぐ。
茶礼を父より受け、酒好きから瓢庵月潭の号があり、書にも通じる。
このあたりは歴代藩主の中でも名君と謳われた父親の影響がかなり大きいと思われる。
しかし、文政5年(1822年)、江戸で32歳の若さで死去。
天眞寺(東京都)に葬られたが、後に月照寺に移葬された。






門廟8



これは確か…タバコの葉?
煙草が好きな殿様って誰だったっけなぁ。







月照寺6




ああ、それにしてもなんて静かなんだろう。
お寺とはいえ、長い年月守られてきた場所というものは何かしら他の場所とは違う空気に満ちているように思える。
磨り減った石畳を歩いていると、どうしてこんなに心が癒されるんだろう。







門廟9



これは藤の花の意匠だ。
随分と洗練されている。(田舎の地方工匠とはもう呼ばせない!?)
ほんとにもう、こういう彫刻を眺めて周るだけでも楽しい!



  ↓



4代藩主吉透(よしとお)公の廟


松平吉透 (1664年~1705年)
父:出雲松江藩2代藩主 松平綱隆
1701年~1704年 分家
1701年 従五位下民部少輔
1704年~1705年 4代藩主
従四位下侍従

宝永元年(1704年)、兄である3代綱近公の養子となり家督を継いだが、翌年38歳の若さで江戸で死去してしまう。
天徳寺に葬られたが、後に月照寺に移葬された。




藩主としての期間が短すぎ、印象が薄いようだ。





門廟10



シンプルな感じの門扉。
…2代綱隆公のような気もするけど、…もしかして2代綱隆公の家から3代目綱通公の養子になるために分家してきた4代吉透公のもののような…。
いや、なんとなく控えめで地味~な気がするから。



  ↓



門廟11



イメージは日本海の荒波って感じだが、真ん中のあの塊ってなんだっけ?
鯨? 大蛸?





6代藩主宗行(むねのぶ:ノブは行にサンズイが入る*衍)公の廟
8代将軍徳川吉宗より一字とる。


松平宗衍 (1729~1782)
父:出雲松江藩5代藩主 松平宣維
1731年~1767年 6代藩主
1742年 従四位下侍従
1742年 出羽守 権少将

享保16年(1731年)、父宣維の死去によりわずか3歳で家督を継ぐ。
この翌年に前代未聞の大飢饉(享保の大飢饉)が起き、その後も災害が続き藩財政が窮迫する。
延享4年(1747年)家老政治を廃止し藩主親政に変わる。
中老小田切備中尚足(ひさたり)を補佐役として財政を建て直そうとするが失敗。
その後幕府からの比叡山山門普請の助成命令が藩財政に決定的な打撃を与えた。
(*田舎の国をいじめないでほしいのぉ)
家老朝日丹波仕置役として財政を建て直し、改革を進めるも明和4年(1767年)にあまりの財政窮乏の責任をとり39歳で早々と退隠する。(*まあ3歳から政治的に働いてきたのだから、「もう休みたい!」という気分だったのかもしれない)
息子の治郷に代を譲り、その後は南海と号した。
天明2年(1782年)54歳で死去。
天徳寺に葬られたが、後に月照寺に移葬された。





大亀の寿蔵碑(じゅぞうひ)はここにある。


大亀


*寿蔵碑
小泉八雲の随筆に出てくる「月照寺の大亀」の石像だ。
夜になると動きだして宍道湖に通じる堀川まで泳ぎに行くとかで、その上に大きな石碑(5mほど!?)を置かれた…ってお話があったような。
頭をなでると長生きするらしい。

首にある跡は、切り落とされた亀の頭を繋いだ時のものだ。





門廟13



門扉に不動明王はえーと、大亀のある6代藩主宗行公のところだったような。
(ほんとうろ覚え;汗)







=オマケ=

*10代藩主松平定安(さだやす)公


生没年 : 天保6年(1835年)明治15年(1882年)
父 :美作津山藩主 松平斉孝
義父:出雲松江藩9代藩主 松平斉斎

1853年~1872年 出雲松江藩最後の藩主
1853年 従四位上権少将

津山藩松平斎孝の四男として誕生。
9代藩主斉斎の養子となり直利と名乗るが、後に13代将軍徳川家定の一字を貰い定安と改める。
1854年19歳で藩主となる。
藩政では外国製軍艦を購入するなど軍事面をはじめ、西洋化を進めた。
その一方で日本古来の文化を保存することも怠らなかった。(*うう、なんかここに気骨を感じる)
慶応2年(1866年)、第2次長州戦争石見地方が戦場となり、松江藩も幕末の動乱に巻き込まれる。
明治4年(1871年)廃藩置県により松平氏の治世が終わり、県庁が置かれることとなった。



その際、「松江県」でなく「島根県」となったという訳だね。

明治15年(1882年)、北豊島郡にて48歳で死去。
月照寺に安置されていないのは、天徳寺(東京都)に葬られてから、東京護国神社に分骨されたため?のようだが、養子として藩主となったにしては、かなり頑張られた方だったのじゃないだろうか。

月照寺には安置されていないが、この10代藩主である定安も忘れないでいてほしいなぁ…。




それにしても、結構短命な藩主が多い。
ほんとうに60歳まで生きられたら、「長生きだ!」とされる時代だったのだ。

それを思うと、今では「そんな年寄り扱いしないでくれ!」とも思われがちな「還暦のお祝い」が、当時はほんとうに珍しく喜ばしい意味合いを持っていたのだとしみじみ思う。

歴代藩主さまに合掌。(-人-)

 


★【出雲市・平田本陣記念館】参照。




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