航海記 ♪歌いながら行くがいい♪
私の船は、時々歌いながら旅に出る。
DATE: 2007/03/05(月)   CATEGORY: 建築物
松江旅情 27 月照寺 ⑦小林如泥

門廟17



この廟門は不昧公が生前からお抱え名工の小林如泥に頼んで、この場所に作るようにと指示して製作されたといわれている。
この透かし彫りは「葡萄」で不昧公の好物だった。

もっとも如泥は不昧公よりも5年も早くに亡くなっている。
そのためこれが小林如泥の作か異論もあるというが、この仕事っぷりと親交も深かった二人の間で生前から作り始めていただろうと、この透かし彫りが如泥の作であると示していると言われている。

自分の墓所を製作していた馴染みの工匠が先に亡くなってしまって、不昧公もさぞかし残念がったことだろう。
しかし、如泥は不昧公のためにこのような素晴らしい廟門の透かし彫りを残した。
決して色鮮やかではないし金箔の装飾もないが、緑の船はこの意匠が大好きなのだ。










小林如泥とは?*生没:1753年(宝暦3年)~1813年(文化10年)
宝暦3年(1753年)、松江城下町にある大工町にひとりの男児が生まれる。(*松江大橋に近い今の灘町辺り)
名を安左右衛門といった。

★【松江市観光ガイド】参照。

小林家は、松江藩初代藩主松平直政公が信州松本から松江へ移封になった時(1636年)より代々仕えた大工職の家系だった。


初代藩主:松平直政 (生没:1601年~1666年)




安左右衛門はその大工町生まれの彫り師となるが、その素晴らしい彫り物の腕を買われて不昧公の寵愛を受け、藩お抱えの彫り師となった人物だ。

安左右衛門37才の時。
松江藩の「奥納戸御好御用係」という役となり、7代藩主不昧公から命じられる「お好み物」の制作等を行うようになる。
当時の藩主松平治郷公は、安左右衛門より2歳年上で(1751年の生まれ)年齢は近く、精神的にも近しいものがあったのかもしれないが、その藩主の「こういうものがいい」といった注文にもある種の啓発を受けたと言われている。

何しろ幼年からやんちゃで、教育係から薦められた茶道や禅学に夢中になり過ぎては戒められ、それを20歳で『贅言(むだごと)』などという哲学書を著して反論するといったエピソードを聞いただけでなんとなーく不昧公の性格が垣間見えるというもの。
きっとその好みもはっきりしていてイメージも伝わりやすかったのではないだろうか。


7代藩主:松平治郷 (生没:1751年~1818年)
不昧公
1767年~1806年 出雲松江藩7代藩主


過去記事参照:★【松江旅情 20月照寺 ⑥7代藩主治郷公(不昧公)


はっきりとした決断力のある思慮深いお殿様とは歳も近いということもあり、安左右衛門にとっては製作する上でインスピレーションも随分刺激されたのではないだろうか。

如泥という名は寛政9年(1797年)安左右衛門44歳の時に不昧公から授けられたものだ。
このことは如泥の息子である右助が『小林家勤功書』にこう記してある。

「寛政9年(1797年)不昧公から授けられた」

不昧公は46歳の頃のこと。

「如泥」という号は、お酒が大好きで暇さえあれば酒を飲んで泥のようになって(泥酔)いるからというのでつけられたという。
しかし、いくら歳が近しいとは言っても、お殿様の前で「泥酔」している姿を晒していてよくお手打ちなどにならなかったものだ。
それほど気心が知れていた…ということか。
もしかして一緒になって酔っ払ったこともあるのかもしれない。

如泥については面白い逸話がある。
この地方では有名な昔話だ。


ある時、不昧公は他の彫り師と如泥に「鼠」の置物を作らせた。
より本物に近い「鼠」の方に褒美を取らすと競争させたのだ。

もう一人の彫り師の「鼠」は実に見事な姿で、如泥の「鼠」は酔っ払って彫ったのかいまひとつ雑な作りに見えた。
これは如泥の負けだろうということになったが、

「猫が飛び掛った方こそより本物の鼠に近いということでしょう。
 猫に選ばせましょう」


と如泥は平然と言った。
そこで猫の前に二匹の彫りものの「鼠」を並べたところ、猫はすぐに如泥の「鼠」に食いついた!
ガリガリと夢中で「鼠」の彫り物に食いつく猫に驚き、

「ネコをも騙すほどの腕前とは!」

と不昧公を感嘆させたのである。









しかし実は、如泥はかつおぶしの塊でねずみを彫っただけなのだった…。
チャンチャン♪



不昧公は如泥のこんな洒落っ気も気に入ったのかもしれない。
そうして彼は松江藩だけでなく広瀬藩主にも知遇を受け、数々のお好み物を制作したという。
大名茶人でも有名な松平不昧公のお抱え名工ということで、小林如泥は西の左甚五郎とも称されている人物だったのだが、こういた逸話が「大工、または彫刻の世界で日本一の名人」と謳われた左甚五郎に並べられた由縁でもあるような気がする。

★【左甚五郎:木彫りの鯉


甚五郎は1500年後半から1600年代初頭の人物。
播州明石で生まれ、飛騨山脈で鑿(のみ)の修行をしたといわれる。
日光東照宮の工事をめぐるいさかいがあり、右腕を切り落とされ、左手一本で細工をすることからこの名がある。
あくまで庶民と等身大の職人で、人情に弱く酒が好き
だが、いざ鑿(のみ)を持てば、類稀なる才能に磨きを加えた腕一本で、金持ちや武家が舌を巻く見事な仕事をやってのける。
(略)
殿様も、天下の名大工甚五郎(*ニセモノ)と庄屋の下働き大工(*ホンモノ)との彫り物勝負、これは一興と、双方の大工に鯉を彫るように命じた。
いよいよ披露の日となった。
たくさんの見物者が泉水の周りに集まった。
紫の袱紗をかけられた二つの木彫りの鯉が、三宝に上にのって出され、片方ずつ袱紗をとられていった。

ニセの甚五郎の彫った鯉は本物そっくりの出来ばえで、一同そろって歓声を上げた。
一方、本物の甚五郎が彫った鯉は、とても魚とは思えない。
これにはみんな顔を見合わせ苦笑いした。

しかし、ここで甚五郎(*ホンモノ)が双方の鯉を泉に入れることを申し出た。
殿様も笑いながら

「往生際の悪い奴。勝手にするがよい」

と言う。

かくして二匹の鯉は泉の中へ。
するとニセの甚五郎の彫った鯉はすぐに腹を見せて浮かび上がった。
しかし、もう一方の不恰好な鯉は、まるで尾をピチピチ跳ねて泳ぎださんばかりに見える。
一同思わずうなり声をあげた。

そこで甚五郎が一言。

「鯉は水の中にあってこそ鯉と言えましょう…」

この言葉で一同は全てを了解した。



しかしこの左甚五郎という人物、実は実在していたかは不明とも言われている。


江戸三代将軍家光は寛永11年(1634年)日光東照宮の全面的な建て替えにかかった。
この「寛永の大造替(だいぞうたい)」で完成したのが、現在の社殿である。
(略)
左甚五郎の名が知られ始めたのは、17世紀末の元禄期頃だったようだ。
日光東照宮が完成した「寛永の大造替」(1636年)からは半世紀が過ぎている。
江戸後期になると、名声は甚五郎を主人公にした講談や落語を生み、迫真の彫刻に魂が宿り、鷹は羽ばたき、竜は柱を抜け出す類の伝説を広めた

今では、各地を渡り歩いたという甚五郎作とされる名彫刻は全国100ヶ所以上にある。

★【左甚五郎の猫をみる:歴史のかたち:文化伝統関西発YOMIURIONLINE】より




多分、その酔っ払いながらも腕は一流とか、鰹節で作った「鼠」で猫のみならず殿様をも騙したという品を作るなど、彼にまつわる逸話が実に江戸時代後期に庶民が夢中になったといわれる左甚五郎の伝承に似ていたということだろう。

如泥は公の命を受けて数々の木彫の名品を制作しているが、日本近代彫刻の祖と称される高村光雲は、その如泥の作品をして

「その技、神の如し」

と嘆じたという。

ほう!
実は小林如泥は知らなくとも、高村光雲を知っている人は多いのではないだろうか。
というか高村光雲を知らなくても詩人の高村光太郎の父と言えば「ああ!」と思う人の方が多いかもしれない。

その光雲の木彫り(なまず)を見たことがあるが、本当に見事だった。
見た時は高村光雲が誰かもよく知らないでいたが、「なんなんだ、これは!」とその精巧さにビックリしたのを覚えている。
いや、本物そっくりというよりも、それは確かに「彫り物」でしかないのだが、そっくりであること以上の何かを感じさせるその技術(いやこれが芸術というモノなのか)がすごいと思ったのだ。
その光雲が感嘆したというのだから素人にも如泥のスゴさが分かるというものだ。(*これを他力本願という…)


高村光雲(生没:1852年~1934年)
江戸の生まれの明治期の彫刻家。
仏師高村東雲の弟子だったが、西洋彫刻の写実主義に関心をよせ伝統技術を引き継ぎながら木彫を近代化することに貢献した。
代表作は「楠公(なんこう)像」(皇居前広場)、「老猿」(東京国立博物館蔵)、「西郷隆盛像」(上野公園) 。
詩人高村光太郎の父としても有名。




特に如泥が最も得意とした糸透かしは、今日の精巧な機械と技術をもってしても到底及ぶ所でないと絶賛されている。






如泥の作品は月照寺の廟門以外にも松江市内で様々な彫刻をみることができる。
城山稲荷神社のご神宝である木狐も如泥の作だ。(*松江城のある敷地内にある)

ちなみにこの神社にあった石狐の風情を小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)はことのほか気に入って愛したというが、その石狐の元になったのが如泥作の木狐ではないかと言われている。

文化9年(1812年)の本殿造営の際には、拝殿頭上の龍の透刻もこのとき併せて制作したとされているが、そうであればその時如泥は60歳
不昧公が亡くなるよりも5年も早く亡くなった(61歳)とあるので、これは如泥の最晩年の作ということだろう…。

その他、宍道湖のほとりにある島根県立美術館の所蔵品の中にも如泥作の「瓢箪桐紋透袋棚」という工芸品がある。




=参照=
★【八雲の愛した石狐の復元をめざす会

★【松江景観研究INDEX

★【島根県立美術館:所蔵工芸品】小林如泥「瓢箪桐紋透袋棚」より。







如泥に関しては、『小林家勤功書』以外はほとんど伝承で、昔話の真偽を確かめる術はないそうだが、「猫が飛びかかったという木彫りの鼠」、「水中を泳ぐ木彫りの亀」の話など興味深い逸話がたくさん残されている。(この辺りは左甚五郎の逸話と似ているな)




それらの逸話の中で、小林如泥が夕方になるといつも宍道湖の水辺に出て、また仕事に戻った、と紹介されている著書がある。
石川淳の『諸国畸人伝』だ。

如泥も宍道湖の夕陽を眺めていたのだろう。

諸国畸人伝 諸国畸人伝
石川 淳 (2005/09)
中央公論新社

*詳細を見る



その宍道湖の湖岸にある宍道湖岸白潟公園の前には「如泥石」といわれる波消し石が配置されている。
その土地を愛した人物の建造物が今も残されているのは素晴らしいことだと思う。

緑の船は、近代の河川等の護岸工事があまり好きではない。(土木課、河川課の方すみません…)
なんというかあまりに技術と予算に縛られすぎてデザインや意匠に「美しい」という感覚が薄いからだ。
そして、予算の都合ひとつで簡単に取り壊されてしまうからだ。
近代土木技術が市民の生活を水害から守ってくれる功績は多大だと知りつつも、景観に「郷愁」や「美しい」と感じる部分を失ってしまうことは長い目で見て地元にもマイナスになるのではないかと思う。
美しい風景があるからこそ、そこに生きる人々は自分の町を愛し守ろうと自然と思うのではないかと考えるからだ。

若者が「こんな田舎の町、いつか出て行ってやる!」と密かに思い実際に出て行ってしまう過疎に悩む地方こそ、その景観を大切にするべきだと思う。
だが逆に、町を愛する人々がいるからこそ、その無味な土木工事も変えていけるんじゃないか…とも思う。




如泥は文化10年(1813年)10月17日に享年61歳で亡くなった。
不昧公よりも5年も早くに。
墓所は松江市寺町の常教寺にある。




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