陽もだいぶ傾いてきた夕方5時ごろやっと着いたぜ!>通潤橋!
駐車場も大きいし土産物屋もあるけどすでに店じまいの準備中。

観光地として名を馳せている石橋だけあって雰囲気が違うねー!
この頃はまだ水田の稲穂も青みがかっている。
もう今はすっかり稲刈りも済んだ頃かな。

石橋前に石碑があってこの橋の由来などが簡単に説明されている。
この石橋を建設したのは布田保之助というお役人らしい。
=布田保之助=
享和元年(1801年)11月6日役宅で出生。
文化13年(1816年)元服(15歳)惟暉と名乗り、叔父太郎右衛門と郡代役所に挨拶、帰路万台○○で、父市平次自害の真相を聞き矢部の開発を決意す。
文政6年(1823年)惣庄屋代役(21歳)、天保4年(1833年)惣庄屋(32歳)、文久元年(1861年)隠居(61歳)までの38年間道路220路、眼鏡橋14、溜池堤7、石橋35、水路30粁矢部75ヶ村有の恩恵を蒙らざる村なし。
安政元年(1854年)、通潤橋を完成(53歳)、明治6年(1873年)この功績天聴に達し、銀杯一組、絹一匹賜る。(72歳)
明治7年(1874年)4月3日73歳で死去。
熊本万日山に葬らる。
碑文より
ううーん、土木工事のスペシャリストだったのね…ステキ!>保之助
ああ、存命中に会いたかったわ~。
この碑文だけだとよくは分からないけどどうも父親がなにか政治的な責任をとって自害した?のかな。
そのことを成人して知り、自分の生まれた土地を豊かにしたいと灌漑用水の開発を心に誓った15歳ですよ…。
オトナってのはこーゆーヒトのことを指すのだな。
ちなみに現在平成20年(2008年)、207年前に保之助が生まれた享和元年(1801年)は江戸時代後期、百姓・町人に対する名字・帯刀の許可が禁止された年だそうな。
え?じゃそれまでは場合によっちゃ農民町人でも名字も帯刀も許されていたってことなのかそうなのか!?
15歳で元服(成人)した文化13年(1816年)頃は、日本にロシアやイギリスなどの外国船がバンバンやってきては日本の国土資源を虎視眈々と狙っていた時代。
ちなみにこの頃の農民の衣服はけっこう贅沢になってきて「倹約年限」が伸びたほどらすぃ。
まあ、それくらい豊かだったということ?
文政6年(1823年)の惣庄屋代役となった年は長崎にオランダ人シーボルトがやってきている。
鎖国中と言われているが日本は押し寄せる外国勢力に対して近隣諸国の情報収集している頃。
惣庄屋(32歳)になった天保4年(1833年)は歴史の授業でも習う天保の飢饉(*天保年間1830~1832)と呼ばれる全国的な飢饉があったがその中でも特に酷い飢饉があった年だったといわれている。
天候不順による不作が続く
↓
米価が高騰
↓
庶民困窮、農民離散、行き倒れ、餓死者などがいたるところで起こる
↓
幕府は数万石の穀物を給付し、救小屋を設けて救済に努める
↓
が、成果はあがらず商人が穀物を買い占めに走って飢饉はますます大きくなる
↓
江戸・大坂町民の打ち壊しなど一揆が全国的に広がる
こんな感じ。
保之助が53歳でこのすばらしい石造建造物である通潤橋を完成させた年の日本は、前年に嘉永6年(1853年)にアメリカの使節ペリーが黒船にて浦賀へ来航、徳川家定が第13代将軍となり、その翌年である安政元年(1854年)にペリー再来、日本はアメリカ・イギリス・ロシアという当時のジャイアン国家とそれぞれ日米・日英・日露和親条約を結んでいる。
通潤橋は、まさに日本がこれから多勢に無勢の外国勢力といかに飲み込まれずに付き合って行くか試行錯誤していた正念場時代の建造物でもあるのだ。(まあ、保之助は国際情勢よりも目の前の土木工事に専念していたのだろうけども)
ちょうど篤姫(島津斉彬の養女)が江戸薩摩藩邸に入った頃で、久々にヒットした大河ドラマをご覧になった方は「ああ、その時代か~!」とすんなりタイムスリップできるんではないでしょうか。
数々の土木建設工事を完成させ「あーやれやれ」と隠居した61歳の文久元年(1861年)は「明治まであと7年」のまさに日本の政治体制が近代に突き進むまで紆余曲折を余儀なくされた頃。
隠居(定年)から明治7年(1874年)4月3日73歳で死去するまでの13年間は
1868年 明治元年 鳥羽伏見の戦、五箇条の御誓文、戊辰戦争
1869年 明治 2年 版籍奉還、官制改革
1870年 明治 3年 平民に名字が許される
1871年 明治 4年 戸籍法改正、廃藩置県、鹿児島県設置
1872年 明治 5年 東京・横浜間に鉄道開通、徴兵制度公布、天皇鹿児島臨幸、士族の知行制廃止
1873年 明治 6年 征韓論、西郷ら参議を辞任、鹿児島県に大隈国を併合
1874年 明治 7年 佐賀の乱、台湾征討に鹿児島徴募兵多数出兵、私学校設立
などなど布田保之助が生まれ育った江戸時代後期とは想像もしなかったであろう怒涛の時代に突入していたのである。
この美しい水田風景と当時の日本の不安定な対外情勢とがちょっと結びつかないなぁ。