大窪橋の寂れた雰囲気にしみじみしつつ国道218号線沿いをゆるゆる走っていく。

途中、「○○橋→」の看板がいくつかあったような気がしたが、ここは今日最大の目標である通潤橋とお宿(高千穂)までの距離を考慮してあえてスルー方針で。
でもこの「霊台橋」って知らないんだけど、看板が他のよりもずいぶん大きいんだよなぁ。
よっぽど有名なのかもしれない、と立ち寄ってみることにした。

峠をやや下ったところ、緑川ダムのすぐ下流側に登場したそれは…

…でっか!!
なにあの大窪橋とのスケール(と待遇)の違いはっ。
=重要文化財 霊台橋=
この地に橋が架けられたのは文政2年(1819年)のことで、住民の懇願により時の惣庄屋(そうじょうや)三隈丈八等が中心となって架橋を嘆願したものですが、その後、度重なる洪水によって架けかえが繰り返されたため、弘化2年、篠原善兵衛(ささわら ぜんべえ、と読むらしい)の惣庄屋就任により石造「目鑑橋」の架橋が計画されるにいたりました。
工事は翌年12月から本格的にきまり、弘化4年(1847年)2月に完成して渡初が行われました。
施工は大工棟梁の万助・伴七をはじめとする地元の大工たちや、石工棟梁として種山村の卯助(通潤橋の橋本勘五郎の兄)ほか近在の石工たちによって行われました。(*卯助、宇市、丈八は種山石工の三兄弟)
(彼らやその一族は後に明治政府に仕え、東京で二重橋をはじめとする多くの架橋に携わっています。)
橋は建設以来この地方の幹線道路として長く風雪に耐え使用されてきましたが、昭和41年(1966年)上流側に鉄橋が架けられて国道としての役割を終わり、以後は砥用町の所有となって保存されています。
霊台橋は九州を中心として数多く存在する石造りアーチ橋のうち、単アーチとしては、8年後に造られた通潤橋と並んで日本最大のもので、建設のいきさつも明らかであり、当時の民衆の力と技術が結集されて築き上げられたものであり、江戸時代の日本の石橋の代表的存在となっています。
石橋の説明文より

…すげー、すげー、すげーーーーーーっ!石工棟梁はともかく、こんなでっかい石橋建設に大工棟梁って昔大工はどんだけ器量が広かったのかと驚嘆。
もちろん現在の姿はかなり修理修復されているからこそのこの雄姿なんだけど、重機のない時代の石橋建設って想像もできないよ。
さらに驚きなのは、この橋を架けるのに1年と経たずに完成させてしまったということだ。
7~10ヶ月とかなんとか…。
できるの!?
人間だけの力だけでできるの!?

全橋長 90m、アーチスパン28m、橋幅員5.5m、高さ16m。
径間の長さは日本一!
鋼製逆ラ ンガー橋の国道 218 号線と平行して架かっている。 (車で渡った橋が逆ランガー橋というのは今知った。へー、へー、へー)


実際、保存のため隣にこの逆ランガー橋が架橋される昭和40年代ごろまで、ここを大型バスが走っていた…って(感嘆)
素晴らしい!