主の私室は北側でも、使用人たちの立ち働く台所や勘定場は日の注ぐ東面、とりわけ台所のお勝手口の窓は日の光が豊かな南側に接していた。

現代住居の間取りで「台所」や「水回り」は大体北側だったり南北に長い住居でも真中や西側になっていたりする場合が多い。
一般的には、一日中できるだけ明るく日が差す部屋で住人は過ごしたいというのが現代人というものだ。
その現代と昔の生活で大きく違うのは、明かりだろう。

電灯がなければ現代人も仕事は日中にできるだけやっておこうと考えるだろう。
悲しい哉、日没後も働くのが当たり前の現代だが、それは昼間と全く同じ状態で作業できる明かりが当然のように存在するからだ。
もっとも、当時も夜は囲炉裏や行灯の元でも作業はしていたのだろうが。
日のあるうちにできるだけ働こう(勉強しよう)と思えば朝早起きするライフスタイルも当然かもしれない。
いくら行灯やロウソクがあっても、朝一番に働く場所である台所が暗いと作業がしにくいのは必至。
だから台所が東向き、南向きなのは理にかなっている。
当然、水道などないから水仕事には井戸のそばがいい。

湯を沸かす、たったそれだけでもまず薪から火を起こし、井戸から水を汲み(水甕にあればラッキー?)と毎日がキャンプ料理みたいなもの。
例えば炭の置火があったとしても、それを景気良く燃やすのは結構な苦労だ。
キャンプや野外バーベキューなどやったことがある人はよくわかるのではないだろうか。
真っ黒な炭を着火剤も強火力のバーナーもない状態から赤く炎を噴出す状態にするのに汗だくになって団扇を扇いだ経験のある人も多いだろう。
「朝コーヒーが飲みたいだけなのに、お湯を沸かすのにこんなに労働しなければならないのか…」と妄想でもヘトヘトになっている自分が見えるw
キャンプの時だって携帯ガスコンロでガァアアーッと火を起こして「外で飲むコーヒーは最高だな♪」なんて悦にいっているヘタレの自分にはもう昔生活は無理だろうな。
しかも、これが毎日毎朝昼夜と休みなく続くのだ。エンドレスにだ。
…
ありがとう! 水道、
ありがとう! 下水道、
あろがとう! ガスコンロ。(-人-)思わず合掌。

しかしそんな生活が当然の昔の人たちはビックリするくらい「茶飲み」だったようだ。
上↑の大きな甕は「大茶甕」と書いてあるが小柄な人の背丈ほどもあるほど大きい。
この甕に入るほどのお茶葉を日々消費していたということだろう。
「こんな大きな甕に入れてたら、底の方のお茶葉が湿気ってしまわないかしら?」
その疑問、ご尤も。
そのお茶が緑茶だったのか番茶だったのか定かではないものの、毎日毎日のお茶の時間が欠かせない習慣だったとこの大きな茶甕が語っている。
台所のお勝手口の上には神棚がある。
人々は毎日朝日が昇ると東の頭上に手を合わせていたのだろう。

やがて、わが家の庭が接する川岸から、柏手を打つ音が聞こえてくる。パン、パン、パン、パンと四回ほど鳴ったが、それが誰の柏手であるかは低木の植え込みに遮られて見えない。
…(略)…
それから、彼らは顔を太陽の方へ向け、柏手を四度打ってから拝んでいる。長くて高い白い橋からも、同じように柏手を打つ音が聞こえてくる。また、新月のように反り上がった、軽やかな美しい船からも、あちこちから木霊のように柏手の音が響きあっている。その風変わりな船の上では、手足をむき出しにした漁師が立ったまま、黄金色の東の空に向かって頭を垂れている。
柏手の音はどんどん増えていき、しまいには一斉に鳴り響く鋭い音が、ほとんどひっきりなしに続いて聞こえる。町人はみな、お日様、つまり光の女神であられる天照大御神を拝んでいるのである。
…(略)…
柏手が鳴り止むと、いよいよ一日の仕事が始まる。下駄のかましい音が、橋の上で段々大きくなっていく。その大橋川の下駄の音は、一度聞いたら忘れることができない。大舞踏会のようで、テンポの速い陽気な音楽に聞こえる。
ラフカディオ・ハーン 新編『日本の面影』(訳:池田雅之)
「神々の国の首都」より
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それほど大きな都市ではないものの松江の人々が、朝日が昇り起きて仕事に取り掛かる前に一斉にそこかしこで柏手を打つ光景が想像できるだろうか?
姿は見えずとも、明確な言葉はなくとも、そこここに人々の自然や神々への感謝の心を感じたと明治の来日外国人、ラフカディオ・ハーン(*後に帰化し小泉八雲と名乗る)が感嘆したという朝の風景がたしかにそこにあったのだ。
現代に生きる我々日本人でも、想像するとわくわくするような光景じゃないか。
松江にやってきたハーンは、当初宍道湖に近い川のほとりに居を構えていたが、後にこの松江城北側に並ぶ武家屋敷のような家に住みたいと熱望していたという。
その希望はそう遅くもなく叶うこととなった。
そして、その明治の頃にすでにハーンは、この愛すべき日本の素朴で美しい光景も近代化によっていずれ消えていってしまうのだろうが…と淋しい想いを綴っている。
その淋しい予感は多くのところで当たってしまった。
しかし別の側面では、ハーンが来日した1890年から約120年後の日本は、社会制度も生活様式も人々の求めるものも世界観もガラリと変わってしまったようでいて、でもどこかでちゃんと連綿と繋がっている。
1904年に亡くなったハーンがもし今の日本の姿を見たら、何もかも変わってしまったとガッカリしながら、同時にそれでも変わらないである部分にホッとするかもしれない。
なぜなら、ハーンが愛し、いずれこの屋敷も何十年後には消えてしまうだろうと心配していた武家屋敷の界隈は、保存活動の結果もあり今でも現存しているからだ。
それは、ハーンが「無くさないでほしい…」と切に願ってくれたお陰かもしれない。
そんなセンチメンタルな気分に浸っていたら、ここの中庭の奥にもお茶屋の【八雲庵】があった。

せっかくだから、もう一服していこうかな?