航海記 ♪歌いながら行くがいい♪
私の船は、時々歌いながら旅に出る。
末永く魂鎮るところ 4 麒麟はきたか

ここに来て、何故か明智光秀参上!!
♪ジャジャジャーン、ジャジャジャーン、ジャジャジャー、ジャジャジャー♬
ジョン・グラム風でw)


★【麒麟がくる メインテーマ (※エレクトーン)



いつもの如く気がついたらいつの間にか新年は明け令和ももう3年に。。。
うん、まあいつものことですからシレッと続きをば…(´∀`*;)ゞ




しかし、きっと分かる人は分かるw>なぜにここで明智十兵衛光秀の登場!?



江戸幕府開祖の初代将軍だった徳川家康が、死期を悟った頃に駿府城へ呼んだのが藤堂高虎天海僧正だったと知ったのは、数年前にフラッとあの上野にある東照宮へ行って看板を読んだ時でした。
(そこではまだ”天海僧正”って誰よ?的な薄いキャラ扱いw)
★【末永く魂鎮るところ 1 高虎の東照宮】2020(R2)/06/07(日) 記事参照〜


=以下、そんな看板の説明文から始まった妄想歴史絵巻でございます=



さて、駿府城へ引退した後も大御所様として絶大な権威を誇っていた家康が、その心の友に人生最後に望んだのが

「3人で一緒に末永く魂鎮まるところを作って欲しいのじゃよ…」(´・ω・`)

と言うものでした。
その時、藤堂高虎は当時宗派の関係上(?)家康と死後一緒に祀られることはできない立場だったそうなのだが、坊主(天海僧正)も一緒にいたのでその場で同じ宗派に改宗し(!?)
「これで死後も一緒にございますよ」と家康を安心させたとかどうとか。
高虎、優しい…やっぱそんなところが渋カッコいいと思ってしまうw



その場所が上野にあるあの地味な東照宮(造成当初は東照社)だったと知って「へー、日光の方じゃないん?」と、当時の私は素朴に思ったものでした。
(でも実はちゃんと日光東照宮の方に3人一緒におるんだっけ!?…とイマイチまだよく分かっていないが、ここはもう個人的解釈による妄想歴史絵巻として押して参りまするぞw)



家康の死後日光東照宮(※当初は日光東照社)の竣工は2代目将軍徳川秀忠で進められ、随分と後になって上野の藤堂高虎の屋敷地内に自分の寺社の子院として東照社を建立したのは、この仲良し御三方で一番長寿だったとされた天海僧正でした。当時東照社だった社名はその天海僧正も亡くなったずいぶん後に「東照宮」となっています。
(いや日光東照宮の方も天海僧正が大いに関わっていたと思いますが、なんとなく日光東照宮の方は所謂国家事業、上野の東照宮は民間事業なイメージです)


家康は1616年(元和2年)に亡くなったがこの江戸のみならず乱世の末にまとまった日本を守る神となり、死後405年経った今も日光東照宮は日本中から参詣が絶えません。(※2021年令和3年現在)

が、先にも言った様に、上野にあった藤堂高虎の屋敷地に天海僧正が子院の一つとして建造したの当初の「東照社」は、こちらは個人的な事業だったからか、それ故もっと地味な感じだったとされている。
(私の中の藤堂高虎がとっても渋い人物像なので、それもあってきっともっとシンプルで地味だったに違いないというイメージもあり)

それをあの女性っぽい中性的な(私の勝手なイメージですw)芸術家肌な3代目将軍家光が「この社は地味過ぎて気に入らぬぞ!(*`・з・´)」と(これも想像w)、日光や上野の東照宮を豪華絢爛なキンキラキンに改修したのが、今に伝わる日光東照宮や上野にあったあの彫刻の楽園のような東照宮なのです、 が 。




さて、そもそもどうして家康、高虎、天海僧正がこうも仲良し?なのか。

それこそ死後も「一緒のお墓で安らぎたいよね…(´∀`)(´д`)(´-`)・・」
などと思うほどにw

仕事上の付き合いで、雇い主と仕事を請け負う会社であるとか、会社の社長と従業員、上司と部下などと言う関係でここまで深い結びつきが得られるものなのだろうか、などと、平和な現代の日本で呑気に生きる私にはその感覚があまりに理解し難いわけです。

何が彼らをそうも得難い絆で結んだのであろうか?
そして、そこで出てくるのがまさかのあの明智光秀な訳とは!?



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