航海記 ♪歌いながら行くがいい♪
私の船は、時々歌いながら旅に出る。
船の科学館と「宗谷」の思い出 5 和船の趣き(番外編)

船の思い出4 和船の趣き(下:弁財船編)の番外編で追加。(上中下でまとまらなかったとも言う…)



毎秋の廻船レースでお祭り騒ぎに盛り上がっていた天下泰平の江戸時代

ヾ(・∀・)ノワックワク♪ヽ(*>□<*)ノキャ━━ァ♪ヽ(≧∀≦)ノ v(o゚∀゚o)vワッショイo(^▽^)o
キターッ! o(≧ω≦)oイェー!Σ(゚□゚(゚□゚*ナヌッ!?(」゚ロ゚)」(」゚ロ゚)」(」゚ロ゚)」オオオオオッッッ
○『菱垣新綿番船川口出帆之図』安政期(1854~9年)の作:含粋亭芳豊の錦絵参照。

…より遡ること約300年前。時は戦国、安土・桃山時代(*注1)の頃。

*注1:織田信長と豊臣秀吉が政権を握っていた時代。1573年から1598年の間の時代。 戦国時代の末期と見なしたり、戦国時代から江戸時代への過渡期と見なす場合もある。 始まりを1568年とする場合や、終わりを1603年とする場合もある。 by Wiki





1578年(天正6年)、織田信長が琵琶湖畔で前代未聞のとんでもない大安宅船(戦船)を建造する。

これは1576年(天正4年):大阪での「第1次木津川口の戦い」(※)の敗北を受けて、鳥羽水軍を指揮する九鬼嘉隆(*注2)に信長が命じて造らせた大型の戦船だった。
※[一向宗の大阪石山本願寺攻めの際に毛利水軍(*注3)(村上水軍を含む多数の水軍)に惨敗し大阪湾の制海権を失う]

1578年(天正6年):「第2次木津川口の戦い」で、当時の日本では類を見ない重装備の巨艦(*長さ約○m?、大砲3門を備えた鉄甲船)を計6隻を用い、火攻めを得意とする毛利水軍を蹴散らして勝利する。
この海戦で勝利した後、大阪の堺に入港した信長の大安宅船を目撃し、ポルトガルの宣教師オルガンチノも驚嘆したと言う。(*船についての詳細な記述はない)

*注2:九鬼嘉隆
九鬼水軍を率いた水軍武将、九鬼氏の第8代当主。(当時の読み方は"クキ"ではなく"クカミ"だったとか!?)志摩の国衆の一員として身を起こし、1568年(永禄11年)に織田信長の家臣となる。その後織田信長、豊臣秀吉のお抱え水軍としても活躍し、志摩国を支配して3万5000石の禄を得る。こうした経歴とその勢威から、江戸時代には軍記物などで海賊大名の異称をとった。後に関ヶ原の戦いで西軍に与し、戦後家康に許されたが、紀伊で自害した。 by Wiki

*注3:毛利水軍
もとは因島など瀬戸内海沿岸の海賊だったが、戦国時代に毛利氏の一門・小早川氏の家臣となる。江戸時代に毛利氏が周防(現在の山口県の東半分)・長門(現在の山口県の西半分)の2国に領地替えになった時、毛利氏についてきた人たちを御船手組(おふなてぐみ)として、毛利水軍を編成した。 by ほうふWeb歴史館 防府市歴史用語集
★【村上水軍|戦国武将列伝Ω】も参考にどうぞ。


ちなみに和田竜の歴史小説『村上海賊の娘』は、この「第1次木津川口の戦い」で登場する村上水軍の大将村上武吉の娘をモデルに描いたものだとか。
信長の水軍を相手にコテンパンにしてやったりな「第1次木津川口の戦い」を村上水軍からの目線で描くお話であれば、さぞかし痛快なものだろうなとこちらも気になります。

★【第一次木津川口の戦い】1576年(天正4年)


★【木津川口の戦い②】1578年(天正6年)



=信長の大安宅船(鉄甲船)=

○長さ:30間 (*?)
*尺貫法より:
 1尺=10寸=約303mm。
 1間=約6尺≒1.818 m、→30間 ≒ 54.54 m
 信長の時代は1間=6尺5寸?
  ≒1.879mだとすると、56.37m??
ざっくり50m 位はあった!?しかし、長さが出典により色々で20m〜30mともある。(*某TV番組では、長さ:32.4m、幅:10.8mと設定してあった)

○幅:7間 (*同じく 12.726 m 位?)
○櫓数:100挺立(片側50挺立)
○大きさ:1,500石積みの大型安宅船とされる
○建造年月:2年間で6隻を建造
○装備:木造の船の鉄板で覆い火攻めに対抗し、
    1隻@大砲3門=6隻で全18門を備えた。
 
 「敵船を間近く寄せ付け
  大将軍の舟と覚しきを
  大鉄砲を以って打ち崩し候

  是に恐れて中々寄り付かず

(6隻の大安宅船が敵船を間近に寄せ付けては、大砲で打ち崩した。これにより毛利水軍は船に中々寄り付くことができなかった)★『信長公記』より

★【信長の鉄甲船】船のお話(日本編)より参照



信長の鉄甲船については詳しい絵図や記述が少ないらしいので、動画の鉄甲船はあくまで想像図かと思いますが、音楽と躍動感溢れる映像と編集にワクワクしますw
そして、実際のところ本当にこの想像上の船の大きさ・形状で進水できたのか、実に気になります。

ishiyamahonganj_war_01b.jpg
○「石山戦争図」(和歌山市立博物館蔵)
 大阪定専坊所蔵の石山合戦配陣図を中川眠之助が写したもの
 (*北が左側で一番左の大きい川が今の淀川)

琵琶湖で建造したと言うこの大安宅船はどのルートで大阪湾に出たのか?
目立つ破格の巨艦6隻が、当時の淀川を湾まで村上水軍に見つからず木津川口まで航行することは可能なのか??建造した場所は本当に琵琶湖畔だったのか!?などなど気になることも色々。
★【船の思い出3 (中:三十石船編)】参照〜。

しかしこの戦いで、信長の九鬼水軍が当時最強と謳われた毛利の村上水軍に勝利したことは確かだ。


鉄の船といっても、むろん全体が鉄で造られていたわけではなく、実態は木造の船体に約3ミリ厚の鉄板で装甲を施したものにすぎない。
しかしその発想は当時、世界に類を見ないもので、同様の鉄甲船がヨーロッパで登場したのは、それから約300年後のクリミア戦争の頃だった。

詳しい記録が残っていないためその姿は想像するしかないが、2階建ての戦闘用矢倉の上に3層の天守閣を構え、大砲3門にさらに多数の鉄砲を備えたその偉容は、造船技術で当時圧倒的な先進国だったポルトガルの宣教師・オルガンティーノをも驚嘆させたという。

重い鉄で装甲した巨船が実戦で役に立つはずもないとたかをくくっていた毛利水軍は、木津川沖の海戦で徹底的に打ちのめされた。信長の鉄甲船に、毛利水軍得意の火攻めは通用せず、1貫目玉の巨砲の威力にまったく太刀打ちできなかったのである。


★【海運雑学ゼミナール:309「ポルトガル人を驚嘆させた織田信長の鉄甲軍船」】JSA(社団法人)日本船主協会より



お館様ーーーっ!!(*゚ロ゚)(*゚ロ゚)(*゚ロ゚)
てっきり信長の西洋かぶれによる鉄甲船だと思ったら、毛利水軍の火攻め攻撃を蹴散らすために考案したオリジナルの船だったとは。流石に維持は出来なかったのかすぐに錆びてしまったのではと思われるが、安土城といい、この鉄甲船といい、信長の突拍子もないアイデアによる建造物の記録がことごとくないのが惜しい。絵図、絵図が欲しいよぅ!なぜに残っていないのか。





そして、当時とんでもなく巨大だった鉄甲船(大安宅船)の存在は、後の
秀吉の構想した「唐入り」に、幾分か影響を与えたのではないだろうかと思うのだ。(と、長い長い導入部となったが、この信長の鉄甲船について「船の科学館」に展示等があったかは全く覚えなしwなかったかも)




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