…
まさかの今頃、”将軍の御座船”の登場!ヽ(≧∀≦)ノアッタ!
★【船の思い出2 (上:御座船編)】参照〜。

○「天地丸」:江戸幕府が将軍の御座船として保有した関船
徳川家の家紋(葵の紋)の幟旗がある。幟旗は他に紫地に白の「む印」旗(*幕府の御船手頭、向井将監(むかいしょうげん)の旗印)、白地の「赤五丸印」旗がある。水押し先端・船尾は黒塗りに金色の装飾が施されている。
=将軍の御座船「天地丸」の要目=
○全長:34 m
○肩幅:7.6 m
○櫓数:小櫓 76挺立
○船の容量:500石積
○帆の反数:16反
○縮尺:1/13.5
*この模型は明治時代に制作されたもの。
確かに船体がほとんど朱塗りで実に豪華!!
「御座船」で検索するともうあの
櫂の数はざっと数えてみたら片側38本:両側で76本!
あれ、”櫓数”だからこれは「櫓」なのか??
豪華だけれど、朱塗りの船体に黒と金のバランスがよく装飾が実に美しいわ〜
.゚+.(´ω`人).゚+.
心の声(・Д・)。o○(どうせならこんな感じで現代の御座船を再現してくれれば…。
諸大名は安宅船に代わる関船を制限いっぱいまでの大きさで建造し、船によってはこれを鮮やかな漆塗りで仕上げ、さまざまな金具で装飾した豪華な屋形を設けて御座船とし、参勤交代などに用いて大名の権威を誇示しました。
中でも、“天地丸”は寛永7年(1630年)、3代将軍家光の時代に建造され、廃船に至る幕末までの実に230年以上の間、将軍の御座船の地位にありました。大きさは500石積、76挺立(ちょうだ)で、船体、総矢倉、屋形などの全てが朱の漆塗り、随所に金銅の金具をつけて豪華な装飾が施され、将軍の御座船にふさわしい華麗な外観をしていました。
こうして、御座船は泰平の世の中で次第に軍船的要素を失ってゆき、ペリー艦隊の来航などで訪れた幕末の海防の危機に際しては、もはやまったく用をなさない存在となってしまいました。そして文久2年(1862年)、幕府が“天地丸”以下の関船、小早などを廃船としたのを契期に、関船の永い歴史に終止符が打たれました。
★【御座船(ござぶね)“天地丸(てんちまる)”】日本財団図書館「船の科学館ものしりシート No.33/36」より
何も廃船にしなくてもいいのにぃ(;´д`)<エェェ~↓
確かに”軍船”と言う意味では黒船には敵わない(戦ったら負ける)だろうから仕方ないけれど。
しかし!しかーし!!
こんなに美しい船を何もあっさり捨てる事はないではないか!?
実戦には無用でも、日本的で美しいこのデザイン・意匠は誇るべきよ〜。観賞用に特化するとか迎賓館的な迎え船にでも使うとか道はあったのではないか?
”美”の幅は”武力”と同じくらい外交の上では”力”だと思うのよ。。。(´ェ`)
せめて、文化財として保存して欲しかった!
(まあ、幕府を倒しての明治維新なので、旧体制のシンボルチックな御船を保存する空気でもなかったのだろうなとも思われ…)
でも明治の頃の、”今までの日本のモノは古い、西洋の進んだ新しいものをどんどん取り入れよう!”的な雰囲気もなんとなーく理解できてしまうのよ…。
今でも我々は「日本は世界からこんなに遅れている!」「外国は〇〇なのに日本だけ違う!」と言う説法にコロッと転がされるところがあるように思うから
そこはもっとどっしりと構えてほしいわ。
日本には日本の、日本の風土に合った日本的な良さがあるのよ。
廃船になったとは言え、その明治にこの模型が作られててよかったと思うわ。
船の思い出4 和船の趣き(下:弁財船編)の番外編で追加。(上中下でまとまらなかったとも言う…)
毎秋の廻船レースでお祭り騒ぎに盛り上がっていた天下泰平の江戸時代
ヾ(・∀・)ノワックワク♪ヽ(*>□<*)ノキャ━━ァ♪ヽ(≧∀≦)ノ v(o゚∀゚o)vワッショイo(^▽^)o
キターッ! o(≧ω≦)oイェー!Σ(゚□゚(゚□゚*ナヌッ!?(」゚ロ゚)」(」゚ロ゚)」(」゚ロ゚)」オオオオオッッッ
○『菱垣新綿番船川口出帆之図』安政期(1854~9年)の作:含粋亭芳豊の錦絵参照。
…より遡ること約300年前。時は戦国、安土・桃山時代(*注1)の頃。
*注1:織田信長と豊臣秀吉が政権を握っていた時代。1573年から1598年の間の時代。 戦国時代の末期と見なしたり、戦国時代から江戸時代への過渡期と見なす場合もある。 始まりを1568年とする場合や、終わりを1603年とする場合もある。 by Wiki
…
1578年(天正6年)、織田信長が琵琶湖畔で前代未聞のとんでもない大安宅船(戦船)を建造する。
これは1576年(天正4年):大阪での「第1次木津川口の戦い」(※)の敗北を受けて、鳥羽水軍を指揮する九鬼嘉隆(*注2)に信長が命じて造らせた大型の戦船だった。
※[一向宗の大阪石山本願寺攻めの際に毛利水軍(*注3)(村上水軍を含む多数の水軍)に惨敗し大阪湾の制海権を失う]
1578年(天正6年):「第2次木津川口の戦い」で、当時の日本では類を見ない重装備の巨艦(*長さ約○m?、大砲3門を備えた鉄甲船)を計6隻を用い、火攻めを得意とする毛利水軍を蹴散らして勝利する。
この海戦で勝利した後、大阪の堺に入港した信長の大安宅船を目撃し、ポルトガルの宣教師オルガンチノも驚嘆したと言う。(*船についての詳細な記述はない)
*注2:九鬼嘉隆
九鬼水軍を率いた水軍武将、九鬼氏の第8代当主。(当時の読み方は"クキ"ではなく"クカミ"だったとか!?)志摩の国衆の一員として身を起こし、1568年(永禄11年)に織田信長の家臣となる。その後織田信長、豊臣秀吉のお抱え水軍としても活躍し、志摩国を支配して3万5000石の禄を得る。こうした経歴とその勢威から、江戸時代には軍記物などで海賊大名の異称をとった。後に関ヶ原の戦いで西軍に与し、戦後家康に許されたが、紀伊で自害した。 by Wiki
*注3:毛利水軍
もとは因島など瀬戸内海沿岸の海賊だったが、戦国時代に毛利氏の一門・小早川氏の家臣となる。江戸時代に毛利氏が周防(現在の山口県の東半分)・長門(現在の山口県の西半分)の2国に領地替えになった時、毛利氏についてきた人たちを御船手組(おふなてぐみ)として、毛利水軍を編成した。 by ほうふWeb歴史館 防府市歴史用語集
★【村上水軍|戦国武将列伝Ω】も参考にどうぞ。
ちなみに和田竜の歴史小説『村上海賊の娘』は、この「第1次木津川口の戦い」で登場する村上水軍の大将村上武吉の娘をモデルに描いたものだとか。
信長の水軍を相手にコテンパンにしてやったりな「第1次木津川口の戦い」を村上水軍からの目線で描くお話であれば、さぞかし痛快なものだろうなとこちらも気になります。
★【第一次木津川口の戦い】1576年(天正4年)
★【木津川口の戦い②】1578年(天正6年)
=信長の大安宅船(鉄甲船)=
○長さ:30間 (*?)
*尺貫法より:
1尺=10寸=約303mm。
1間=約6尺≒1.818 m、→30間 ≒ 54.54 m 。
信長の時代は1間=6尺5寸?
≒1.879mだとすると、56.37m??
ざっくり50m 位はあった!?しかし、長さが出典により色々で20m〜30mともある。(*某TV番組では、長さ:32.4m、幅:10.8mと設定してあった)
○幅:7間 (*同じく 12.726 m 位?)
○櫓数:100挺立(片側50挺立)
○大きさ:1,500石積みの大型安宅船とされる
○建造年月:2年間で6隻を建造
○装備:木造の船の鉄板で覆い火攻めに対抗し、
1隻@大砲3門=6隻で全18門を備えた。
「敵船を間近く寄せ付け
大将軍の舟と覚しきを
大鉄砲を以って打ち崩し候
是に恐れて中々寄り付かず」
(6隻の大安宅船が敵船を間近に寄せ付けては、大砲で打ち崩した。これにより毛利水軍は船に中々寄り付くことができなかった)★『信長公記』より
★【信長の鉄甲船】船のお話(日本編)より参照
信長の鉄甲船については詳しい絵図や記述が少ないらしいので、動画の鉄甲船はあくまで想像図かと思いますが、音楽と躍動感溢れる映像と編集にワクワクしますw
そして、実際のところ本当にこの想像上の船の大きさ・形状で進水できたのか、実に気になります。

○「石山戦争図」(和歌山市立博物館蔵)
大阪定専坊所蔵の石山合戦配陣図を中川眠之助が写したもの
(*北が左側で一番左の大きい川が今の淀川)
琵琶湖で建造したと言うこの大安宅船はどのルートで大阪湾に出たのか?
目立つ破格の巨艦6隻が、当時の淀川を湾まで村上水軍に見つからず木津川口まで航行することは可能なのか??建造した場所は本当に琵琶湖畔だったのか!?などなど気になることも色々。
★【船の思い出3 (中:三十石船編)】参照〜。
しかしこの戦いで、信長の九鬼水軍が当時最強と謳われた毛利の村上水軍に勝利したことは確かだ。
鉄の船といっても、むろん全体が鉄で造られていたわけではなく、実態は木造の船体に約3ミリ厚の鉄板で装甲を施したものにすぎない。
しかしその発想は当時、世界に類を見ないもので、同様の鉄甲船がヨーロッパで登場したのは、それから約300年後のクリミア戦争の頃だった。
詳しい記録が残っていないためその姿は想像するしかないが、2階建ての戦闘用矢倉の上に3層の天守閣を構え、大砲3門にさらに多数の鉄砲を備えたその偉容は、造船技術で当時圧倒的な先進国だったポルトガルの宣教師・オルガンティーノをも驚嘆させたという。
重い鉄で装甲した巨船が実戦で役に立つはずもないとたかをくくっていた毛利水軍は、木津川沖の海戦で徹底的に打ちのめされた。信長の鉄甲船に、毛利水軍得意の火攻めは通用せず、1貫目玉の巨砲の威力にまったく太刀打ちできなかったのである。
★【海運雑学ゼミナール:309「ポルトガル人を驚嘆させた織田信長の鉄甲軍船」】JSA(社団法人)日本船主協会より
お館様ーーーっ!!(*゚ロ゚)(*゚ロ゚)(*゚ロ゚)
てっきり信長の西洋かぶれによる鉄甲船だと思ったら、毛利水軍の火攻め攻撃を蹴散らすために考案したオリジナルの船だったとは。流石に維持は出来なかったのかすぐに錆びてしまったのではと思われるが、安土城といい、この鉄甲船といい、信長の突拍子もないアイデアによる建造物の記録がことごとくないのが惜しい。絵図、絵図が欲しいよぅ!なぜに残っていないのか。
そして、当時とんでもなく巨大だった鉄甲船(大安宅船)の存在は、後の
秀吉の構想した「唐入り」に、幾分か影響を与えたのではないだろうかと思うのだ。(と、長い長い導入部となったが、この信長の鉄甲船について「船の科学館」に展示等があったかは全く覚えなしwなかったかも)
なんとなく和船シリーズだから(上)・(中)・(下)にしてみたのw
結構大きな荷船の部類になる弁財船とか廻船の模型。
先の船の思い出2:御座船編で、和船の構造を見せてくれた論文「船絵馬」の解説をよくよく読んだら、船の図面の出典元がそもそも「船の科学館」の資料だったわ。船のことなら「船の科学館」なのよ!
★【粟崎八幡神社の船絵馬】(日本船舶海洋工学会講演会論文集 第26号 / 論文番号:2018S-OS1-3)正会員 小嶋氏の論文
→P76の付録(弁才船の船体各部名称 12)の図面より。
江戸時代に大阪から江戸に米や雑貨等を輸送した代表的な和船が、「弁財船」と呼ばれる船の形式で一般的には「千石船」とも呼ばれたものです。「千石船」は文字通り積載量が1000石積める船という、江戸時代において大型の輸送船を意味しますが、ややこしいことに米の容量と船の積載量としての”石”は単位が違うのです。
<1石>
○米の場合:米1石=10斗≒約150kg程の米の量。
(*俵だと2俵半)
○船の場合:和船は容積を「石」で表する。
(*木材の積数も同じく「石」)
船一石は10立方尺。
*1尺=約30cm(立て×横×高さ)
この容積を1才として1石=10才と数える。
(1才 ≒ 0.303 m × 0.303 m × 0.303m)× 10
1石(船)≒ 0.28 ㎥
千石(船)≒ 280 ㎥
★【弁財船】より

○北前船(北前型弁才船)の「両徳丸」
(*現代に作られた模型ではなく、本物の船が活躍していた江戸時代当時に作られたもの!)
実は写真の舷側の模様を見て「菱垣廻船」の模型なのかなと思ってたんだけど、こちらは「北前船」の模型。
わざわざエイジングした凝った作りの模型だなと思ってたら、そもそもが江戸時代に制作された模型だったと今更知ってびっくりだよ。モデラーはいつの時代も凝り性なのね。。。
18世紀後半以降になると、帆に張ってある布目の数が25反帆あれば千石積みの船だろうと、帆の反数を見れば大体の船の大きさが分かるようになっていて、上の船も数えたら25反帆あった。
*中心から半分が(12反+端っこが半反)×2=25反帆
*帆布一反(幅)…幅は3尺(90cm)前後
→1反(90cm)× 25 = 2,250 cm
弁財船(千石船)の帆の幅は約19〜20mくらいあったようだ。つなぎ合わせるからその位になるのかな。例えば、8反帆だとおおよそで100石積み程度の船だな、と分かるような感じ。
下の模型も多分25反帆で、千石積みの大きめな弁財船だということだろう。
帆には一部黒布(たまに赤布)で棒のような印が入っているが、これを「帆印」と言い、船の所有者を識別するためのもの、らしい。
船の名前や所属は大抵船尾に幟旗があったりするらしいので、帆の黒布の存在意義が今やイマイチよく分からないらしい。装飾と言うには素っ気ない気もするので何かのサインだろうとは思われるのだが。
例えば、「本数」、左右・中央など貼り付けてある「位置」、棒線の「長さ」や「縦・横」の違いetc…がどういった基準で付けられているのかが謎…。(ものしりシートにもヒントなし)
私はてっきり酒や米・塩などだったら真ん中、材木や炭などは右、その他日用品は左とか、積荷の種類や出航する港や船主の出身地、商売の拠点などを示しているんじゃないかと予想していたんだがこれと言った説明はどこにも見かけない。
あまりに分からないので、所属する問屋仲間内でだけ分かるような内緒のサインだったのかもしれないとも考えたりする。例えば(この船は積荷を横領したり横流ししない優良船だよ!)とか、(ウチの船は積荷は確実にお届けしますよ!)と言う船主の信用度とか、今で言う口コミの★印の数みたいな感じとか?
それとも単純に遠目に見て浜から自分の乗る船や商売する相手を見分けるだけの印かとも考えたが、おそらく帆を張るのは出航する時や風のある時だけし、強風の日は畳むだろうし、そもそも浜についたら帆は下ろすだろうからやっぱり謎。。。気になる…。

○廻船1:舷側は菱垣模様ではないので「樽廻船」か「北前船」か…と悩む。
*→「北前船」(北前型弁才船)が正解!
忘れていたが、エントランスホールにこの1/5の模型が展示されていて、
これはそのさらに縮小版の模型。(縮尺は不明)
例の船の科学館ものしりシートでは「日本海域の「北前船」(北前型弁才船)は、地方的な特徴を加えた弁才船の1つで、船首尾(せんしゅび)の反りが大きく一目で他の弁才船との区別がつきました。」と説明があるのだが、この写真は全体を写してないせいで今や私には違いが分からない。。。
しかし、何と運よくこちらのサイト↓を発見!(喜)
★【和船-概要-ここでは、船の科学館の屋内展示の中でも和船コーナーを紹介します。】(幻想連邦機構中央情報局:船の科学館レポート2005)より
すっかり忘却の彼方だった船の名前や種類が再確認できました。
ありがとうございました(*´∀`人 ♪!
と言うか、私ったら何故か北前船ばっか撮ってるわねw
もう一つの模型も構造はよく似ている。

○廻船2:舷側の菱形模様からこちらは「菱垣廻船」の模型。(だと思うw)
=菱垣廻船=
木綿・油・醤油・紙・薬などの日用品を大阪から江戸へ運送した菱垣廻船問屋仕立ての商船の事。垣立下部の菱組にした格子と高い船尾(艫矢倉)が特徴。
弁財船の中でも「菱垣廻船」(ひがき廻船)と呼ばれたものは、菱垣廻船問屋が差配していた船で、舷側に木で菱垣の模様を組 んでトレードマークとしていたことに由来する。
この「廻船問屋」そのものは自前の船を所有はしている訳ではなく、船を持っている船主に積荷の運送を依頼する(差配する)ことで商売をする、所謂運送に特化した事業者のことです。
この「菱垣廻船問屋」は大阪から江戸へ物資を輸送することで栄えた廻船問屋の一つで、有名な廻船問屋なのです。
また、酒荷を専門に扱うとする問屋(*後に菱垣廻船問屋から分離し派生した樽廻船問屋)が差配し、主に兵庫県灘、西宮で作られた酒を江戸へ輸送していた弁財船のことを「樽廻船」と呼びます。船の構造そのものなのか積荷の種類のお陰なのか樽廻船は菱垣廻船よりも荷役時間が短く済む事もあって、後には酒以外の雑貨なども扱うようになり菱垣廻船問屋よりも隆盛したと言います。(商売はいつの時代も厳しいですな)
江戸時代以前の和船は追風でしか帆走できず風が前に回ると、強風であれば風待ち、微風なら多数の櫓で漕いで進んでいたが、弁財船はむしろ横風(アビーム)で一番速く進むように造られている。
(略)
これは当時の荷積み用大型帆船の中では世界的にも突出した性能で、水夫の数を大幅に減らし、その分多く荷を積めるようになっていて、船足が抜群に速かった。
様々な風向きに対応できるので、航路をうまく選ぶことによって風待ちもずっと少なくなり、帆だけの航海を可能とした。
(略)
1本マストに1枚帆のこの船の特徴は抜群のスピード(ヨットなみ)。
千島海域で出会ったロシアの大型帆船が追い付けなかったと言う記録もある。
西洋の帆船のように多数の帆を張る必要がないので出航に時間を取らず、ヨットと同様に逆風下で搬送に優れている。
強い風が吹き荒れる外洋には向いていないが、風が緩やかな沿岸航路では、足回りの良さ、荷の積み下ろし、接岸性などその性能を最高に発揮し、江戸時代の大量輸送時代を支えた。
寛政2年(1790年)の記録に、西宮から出た新酒の入った酒樽を運ぶ樽廻船が江戸までをわずか2日で走破している。
★【弁財船4:「帆走」】(弁財船の特徴)より

○弁財船の内部構造
家康が天下を取った後、各地の反乱軍が水軍を持つことを恐れて徳川幕府は船の建造については構造的にも色々と制約をしていたらしいが、限られた制約の中で工夫していくことについて日本人はなんと言うかより燃える性質と言うか何なのかと可笑しい気持ちになる時があります。
ちなみに、この時の展示にあったか記憶にはないんだけども、この大阪から江戸に向けて出航する菱垣廻船は本当にレースを行なっていたらしい。
そして樽廻船も菱垣廻船も大阪→江戸を概ね2日で走破しておる!?
いやいや、どうして中々に和船もすごいよ。。。
=新綿番船(しんめんばんせん)とは=
大坂周辺で秋にとれた新しい木綿を積み込んだ菱垣廻船によるスピード・レースのこと。
江戸十組問屋成立の元禄7年(1694年)から明治時代初期まで行われました。(*明治元年は1868年)
大坂を出帆し、ゴールの浦賀への到着の順番を競ったことから当時は番船を「ばんぶね」と呼んでいました。新綿番船はその順位が賭けの対象となるほど人気を集めた華々しい年中行事でしたが、単なる競走にとどまらず、その年の新しい木綿の値段を決めるという重要な役割もあわせ持っていました。
船頭達は少しでも早くゴールしようと航海や帆装に工夫をこらしたので、幕末の安政6年(1859年)には1着の番船の所要時間が50時間(平均速力7ノット/時速13キロメートル)との大記録も達成されました。
★【菱垣新綿番船川口出帆之図】日本財団図書館(船の科学館ものしりシートNo.27/36)より
(ひがきしんめんばんぶね かわぐちしゅっぱんのず)

○『菱垣新綿番船川口出帆之図』安政期(1854~9年)の作:含粋亭芳豊(がんすいていよしとよ)の三枚続きの錦絵 ★大阪府立図書館:おおさかeコレクションより
この錦絵の解説も同じくものしりシートにあり、錦絵の構図から安治川をはさんで現在の大阪市西区、福島区、此花区に相当する場所が描かれているとあります。何と言うお祭り感でしょうw
安治川ロを出帆し江戸をめざす7隻の新綿番船が描かれている絵図もありますが、こちらは大きな画像で見つからないのよね。でも、横長のこの構図は中々に迫力がある感じなので是非現物サイズでじっくり眺めてみたいなぁ。

○弁才船(薩摩型)
一番上の写真"北前船(北前型弁才船)の「両徳丸」"が江戸時代に作られた模型とありましたが、この模型もそんな感じが漂っていますね。今や詳細は分かりませんが古い模型な気がします。

○右上から1本目(キョウメノコ)、2本目(アナビキノコ)、3・4本目(タチビキノコ?)
○左のオオノコは名称がよく分からず。

○和釘:右から大(カシラクギ)、中(?)、小(?)

○右上から1番目(サシガネ)、2番目(サシガネ)、3番目(ジユウガネ:自由曲?「*頭が自由に曲がり、角度を写し取るのに使う定規です」)、4番目(スミサシ:墨差し)
○左中、(スミツボ:墨壺)大・中・小
○左奥、多分(各種ミノ?)
数々の船を造ってきた道具たち。
墨壺とか懐かしーーーーっ!!
昔これで遊んだよw
ああ、だから私は船が気になるのかな。
★【平成21年度 資料ガイド10「菱垣廻船/樽廻船」[2010年06月26日(Sat)]】船の科学館から見たお台場定点観測 ~ ぶらり台場ん家 ~より。→事業成果物のダウンロードで「平成21年度 資料ガイド10「菱垣廻船/樽廻船」全P37 が確認できます。
おお〜、オールカラーの資料!2010年(平成22年)の頃はなんか色々豪勢な感じです。やはりこういった資料はカラーの方が良いですね!今はなき船の姿を浮かび上がらせるのに、色の情報ってかなり大事だと思います。(ものしりシートも、写真や絵図の資料はできればカラーに差し替えてくださいw!)
「船の科学館」でこの展示を見た当時(2009年:平成21年)は「へー、意外と迫力ある感じ〜」くらいの感想しか出てこなかったのだけど、今だったらもっと面白く見て楽しめるように思います。
だから、
「船の科学館」の本館展示がまたいつか再開しますように…(´ω`人)
船の思い出2で豪華な屋形船、改め「川御座船」の模型の後ろの説明文で
…イマイチよく読めないんだけれど…こんな感じ?
=伏見の(京橋?)=
(京橋)は伏見における人乗せ三十石船の発着場の一つで、上り・下りの旅人でにぎわいました
はて?「三十石船」とはなんぞや??
…と、ふと気になってたあれ。
*下↓の写真の船は「川御座船」(かわござぶね)。
…詳細は船の思い出2(上:御座船編)をご参照ください。

○大坂の船匠、金沢貞友の図面(宝暦3年:1753年の川御座船の図面)に基づいて復元制作された「川御座船」の模型。
その後ろのちっこい説明文の「三十石船」が気になっていたので、そのまま調査を続行してみたw
=三十石船(さんじっこくぶね)=
(1) 30石積みの和船の総称。
(2) 近世初期以来、京都-大坂間の淀川の水運で主役的働きをした過書奉行支配下の川船のうち、最も小型の30石積みの川船をいう。
(3)(2)と同じ 30石積みの川船であるが、旅客専用の人乗せ三十石船の俗称。
この乗合船は、京都は伏見、大坂は八軒家をそれぞれ始発・終着駅とし、昼夜を分たずに就航していたので京坂間の旅客に愛用されて、数多い淀川水系の川船の代表的存在となっていた。
○船型:天当(てんとう:伝道とも書く) と呼ばれた喫水の浅い平底のもので、長さ 15m、幅 2m、深さ 0.55m。
○定員:船頭4人、乗客 32人
*下りは流れを利用し、上りは舵取りの船頭1人を残して3人が岸から引き船をして上った。
★ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説より
=てんとうぶね
(天当船・伝道船・天舟・天道船)=
(1) 淀川の三十石船に代表される船首のとがった川船。淀川では大型のものを過書船(かしょぶね)として区別するが、基本的には変わりはない。天道丸。
※俳諧・小町踊(1665)夏
「あしはやき天道船かなつの月〈立圃〉」
(2)小廻し廻船や漁船として用いる二枚棚の典型的な和船。二、三十石積から百石積までの小型が多く、全国的に流布しているため、船型・構造は地方により多少異なる。
※田名部海辺諸湊御定目(1781)諸湊地他着船御役付
「辨財船・与板船・天当船 右之類百石に付拾匁御定」
(弁財船、与板船、天当船、右の船は100石につき10匁…。?)
=匁(もんめ)=
① 尺貫法の目方の単位。貫の千分の1。一匁は3.75グラム。
現在も真珠の目方を量る単位として使用されている。
② 江戸時代、銀目の名。小判一両の60分の1。
③ 文目とも書く、銭を数える単位。銭一枚を一文目とした。
★三省堂『大辞林』第三版より
(3) 仙台藩など東北地方の一部で、千石積級の大船までを含む大型廻船のこと。船首のつき出た弁財船系廻船の地方的呼称。
※風土記御用書出(1774)「天当船 弐艘 内一」
★精選版 日本国語大辞典より

実は他にも和船の模型も撮ってはあったのだが、如何せん写りが悪い…orz
キャプションや背後の説明文が読めん。字が小さくて読めな〜い!ミヽ(`ω´*)ノ彡
多分、一番奥のちょっと大きめで、屋根の柱が立っていて筵を張れば日除けになる感じな船が「三十石船」なのではないか?と推察。あー、でも引き綱を張るための縦柱がないなぁ。。。
=三十石船の由来=
徳川の初期、世相の安定とともに淀川で結ばれていた伏見・大阪間の交通機関として旅客専用の船“三十石船”が登場します。米を三十石積めることから三十石船と呼ばれ、別名を過書船(*注1)とも云われていました。
*注1…過書船:
もとは過書(関所の通行証)を持つ船の意だったが、江戸時代には
淀川の貨客輸送にあたった川船を指すようになった。
○全長:56尺(約 17 m)
○幅:8尺3寸(約 2.5 m)
○乗客定員:28人~30人
*このサイズで30人乗りて結構な定員な気もする。
3、4人横に座って8〜10列て感じ?
○大阪の船着き場:4ヶ所
(八軒家・淀屋橋・東横堀・道頓堀)
○京の伏見の船着き場:4ヶ所
(平戸橋・蓬莱橋・京橋・阿波橋)
○時刻表(大体の通例)
上り船(大阪→京):
主に朝早く大阪出航→当日夕方には京の伏見着
下り船(京→大阪):
主に夜に京の伏見出航→翌日の早朝に大阪着
○運賃(享保の頃の船賃)
*1716年〜1736年までの期間。
*船賃は幕末の頃にはそれぞれ数倍に値上がったとか。
物価変動としては妥当な感じかしら?
上り:172文(*3倍として→516文)
下り: 72文(* 〃 →216文)
★【淀川三十石船今昔】狛林氏サイトより参照。
大阪城にほど近い大阪市北区の天満橋(てんま橋)の下流にある南天満公園には「淀川三十石船舟唄碑」という石碑がひっそりある。
江戸時代、淀川は京都と大阪を結ぶ水上交通路として栄え、大阪での基点となった八軒屋船着場は対岸の京橋、石町付近にあった。三十石船とは、長さが17m、巾2.5mで、コメを30石(米俵にして75俵)積み込める大きさの船という意味であり、京都大阪を往復し、多い時は1日に300隻にのぼったこともあった。この舟唄は当時の船頭たちによって歌われていたもので、京都から大阪までの沿岸の情景を歌ったものである。
(石碑右側の説明文より)
これは江戸期に大阪ー京都間を往来していた淀川三十石船の船頭さん達がその情景を歌った舟唄の石碑だが、現在もその向こう岸には、観光船「御舟かもめ」などの舟着き場として八軒屋浜船着場と言う場所がある。
船の思い出1で「和船ばかり造船していた日本では…」的な感じで、造船技術がちょっと”遅れていた”みたいな書き方をしてしまったが、その和船も精巧な模型をよくよく見てみると…

○屋形船(2階建、装飾有り)
*「御座船」?
何コレ!?すごないΣ(・□・;)ビックリ!?
だってこんな豪華な屋形船なんて、時代劇でも見たことない気がする。

○屋形船(平家建、装飾なし)
*これくらいなら見た事ある!
この辺りで展示してあったであろうもう一つの屋形船↑は上に比べれば簡素な感じだけど、それでも畳が9枚(*もしかして×2の18枚?)敷き詰めてあり、しかも障子で各3畳(*6畳?)くらいの”個室にも対応可”な作りになっている。
一番上の屋形船は2階建だし装飾だって中々に凝ってるし、よくよく見たら屋根の形状とかもう色々とすごいw
後ろの説明文がイマイチよく読めないんだけれど…こんな感じ?
=伏見の(京橋?)=
(京橋)は伏見における人乗せ三十石船の発着場の一つで、上り・下りの旅人でにぎわいました
はて?「三十石船」とはなんぞや??
持っている写真のでもっとよく分かる説明文や当時の資料が出てこないのでネットで検索(ギィ〜コ、ギィ〜コ…*ネットの海を航海中)。あった、あった!
しかしこの屋形船とは違う形状の船のような…>三十石船
うーん。
多分、後ろにある説明文の船(三十石船)と撮ったこの豪華な屋形船は明らかに違うなぁ。。。
…とやっと思ったのだが、それもそのはずで、これは屋形船…と言うべきかその豪華版の「御座船(ござぶね)」と言う船のようだ。
=御座船とは=
天皇・公家・将軍・大名などの貴人が乗るための豪華な船のこと。川用の「川御座船」と海用の「海御座船」とある。
その中でも特に最上位の”天皇の御座船”や時の権力者である"将軍の御座船"だったりすれば、TVの時代劇くらいではそうそう出てくる船でもないようなのだ。(出てきたら面白いのに…)
=天皇の御座船=
茅萱葺きで、千木・鰹木を上せる。
=将軍の御座船=
檜皮葺きで鯱を上せる。
そのほかのものは栃葺きで箱棟鬼板(はこむねおにいた)があり、唐破風、てり破風、むくり破風、あるいは入母屋造(いりもやづくり)、横棟造で、上屋形があり、また左右の高欄胴舟梁(*注1)まであるのが普通であった。
「御座船」by Wiki
(*注1)…高欄は手摺りのこと。船梁(舟梁)は船体を横に支え伸びる梁でそれぞれ別部位のことかと。
★【粟崎八幡神社の船絵馬】(日本船舶海洋工学会講演会論文集 第26号 / 論文番号:2018S-OS1-3)正会員 小嶋氏の論文
→P76の付録(弁才船の船体各部名称 12)の図面より参照。
*船絵馬のは↑とても面白い論文で、これを読むと絵馬から当時の船の姿や人々の姿も立ち上がって見えてくるような気がします。
散々「宗谷」!ヽ(≧∀≦)ノ「宗谷」!と言っておりながら、肝心の写真があまりないのに今更気がついた…。
かなり昔になってしまうけれど(そう、軽く10年前…w)、船の科学館も現在本館は展示も休止中(2011年:平成23年10月からずっと…!?)らしいので懐かしフィルターを通してあるけれど改めて振り返ってみようと思う。
<撮影:2009年(平成21年)7月某日>

○初代南極観測船「宗谷」と青函連絡船「羊蹄丸」を(*2011年:平成23年にすでに解体…)船の科学館の上部(多分3階のテラス?)から
*画像ソフトで「宗谷」と「羊蹄丸」の一部分を水彩画風でほんのりと主張してみた。
こんなに長く「船の科学館」が休館になるなんて知ってたら、もっと色々とこんな俯瞰アングルで「宗谷」をいっぱい撮っておけばよかったな…(´_`)。。。