5年前のGW(*タイムマシン9参照)から”令和元年”の現在に無事帰還しました。( ̄^ ̄)ゞ
私のタイムマシンはガラスの雫型。
ちょうど庭で咲いていたピンクの薔薇と一緒に只今充電中。ミュイン…ミュイン…
(その昔「ねぇ、バラって書ける?うふふ」というCMがありましてね。なので大文字にw)

なんてこれはアートの島、犬島(*タイムマシン3参照)で地元の家屋を改装して雑貨など売っていたお店だったかな、そこで悩んで悩んで買ったもの。
今もたまーに、掌で転がしながら眺める。
うん、悩んだ末に買って良かった。(´ω`人)スリスリ
さて、次の旅までしばし休息しましょうか。
またね、私のTime Machine 。
(緑の船:へいせい号)
タイムマシン7のかずら橋の上流には、今思えば中々見応えのある河岸があった。

一見普通に作られた河川護岸なのかなと思いきや、これは…自然にできた岩石壁の一部なのではないか!?
ずれたブロックのような気がしていたけども、柱状節理とかなヤツ?
=節理とは=
主に火成岩に見られる現象で、露頭に見られる 規則性のある割れ目をいいます。
火成岩に節理ができるのは、熱いマグマが約700~1000℃で固まって岩石になり、その後、常温に冷える過程で体積がわずかに収縮するためです(節理の方向はその冷却面に直交する方向になりやすい)。
節理には主に柱状節理・板状節理・方状節理があります。
柱状節理・板状節理は火山岩、方状節理は深成岩である花崗岩(かこうがん)によく見られます。
★【倉敷市自然史博物館「節理」】ホーム>地学のページ>地質現象のページより
この時は橋にばかり思いを寄せていて、ここはじっくり見てなかったなぁ。
もっとよく近づいてみればよかったわ。
そんな橋の上流のちょっと行ったところには、これまた美しい滝があり、とても迫力ある岩石の塊とは対照的に実に優美な姿だった。
…
この辺の岩石形成の歴史を深めれば、きっともっと面白い場所になるような気がする (○゚ω゚)。o○ポヤーン
★【「ジオパーク」とは】日本ジオパークネットワークより
※四国では室戸が世界ジオパーク、四国伊予が日本ジオパークに認定されている。
★【50万分の1地質図幅・活構造図】13「高知」第2版(発行年:1960年)参考。
★【産業技術総合研究所(産総研)→地質図表示システム「地質図Navi」】*シームレス地質図より(早速広域図を作成してみたw)

(*図をクリックすると大きくなります)
おお!なんかすごいシステムじゃない!?
どれどれ、ほうほう…

なんかこれ、色々とってもすごーい(((o(*゚▽゚*)o)))!ナニコレ
色分けの詳細な凡例は「20万分の1日本シームレス地質図詳細版全国統一凡例」から確認できますが、分かりやすくまとめてあるサイトさんがあったのでこちらも参照〜。
北から順番に南に向かって書いてみると年代も綺麗にグラデーションになっています。
◆ 翡翠色と◆ 灰色に塗られた西予~四国カルスト~早明浦ダム~祖谷~神山・上勝あたりの四国の真ん中を東西に分断する高地の地層が最も古く、ジュラ紀の約2億年前~1億4600万年前頃の地層が分布しています。
◆ 桃
後期白亜紀(K2)の珪長質深成岩類(新期領家花崗岩類)
説明: 約1億年前~6500万年前にマグマが地下の深いところで冷えて固まった花崗岩質の深成岩(新期領家)
◆ 淡緑
後期白亜紀(K2)の海成砂岩優勢砂岩泥岩互層
説明: 約1億年前~6500万年前に海で形成された砂岩優勢層
◆ 淡青:吉野川
後期更新世-完新世(H)の海成または非海成堆積岩類
説明: 約1万8000年前~現在までに形成された最も新しい時代の地層
◆緑
三波川変成岩類苦鉄質片岩(弱変成相)
説明: 約1億2000万年前~6000万年前に地下深くのやや強い圧力で形成された玄武岩起源の三波川変成岩類
◆ 翡翠色
ジュラ紀(J1-3)の苦鉄質火山岩類(付加コンプレックス中の岩体)
説明: 約2億年前~1億4600万年前の付加体中の玄武岩岩体
◆ 灰色
前-後期ジュラ紀(J1-3)の付加コンプレックスの砂岩層
説明: 約2億年前~1億4600万年前に海溝で堆積した砂岩(付加体)
◆ 黄緑
前期白亜紀-後期(K1-2)の付加コンプレックスの泥岩優勢砂岩泥岩互層
説明: 約1億4600万~8000万年前に海溝で堆積した砂岩と泥岩が繰り返す地層(泥岩が多い)
◆ 淡青緑
後期白亜紀(K2)の付加コンプレックスの基質
説明: 約1億年前~6500万年前に海溝で複雑に変形した地層(付加体)
◆ 肌色
中期始新世-前期漸新世(PG2-PG3)の付加コンプレックスの等量砂岩泥岩互層
説明: 約5200~3200万年前に海溝で堆積した砂岩と泥岩が繰り返す地層(付加体)
◆ 赤
中-後期中新世(N2)の珪長質深成岩類
説明: 約1500万年前~700万年前にマグマが地下の深いところで冷えて固まった花崗岩質の深成岩
★【産総研が公開した地質サイトがすごい。四国の地質を見てみました。】「地質図Navi」関連ニュース(YOU魚さんのサイトより)
うーん、該当箇所の色分けは分かったけど、凡例図との照会がけっこう難しいな…。と思ってたら、「すごい!地質図Naviさん」は隙なく賢くやっぱりすごかった!

やーん何このシステム、
本当にすごーーーいΣ(゚□゚*)!!
と言うわけで、このかずら橋一帯の地質は、
変成岩で、形成された時代は中生代:前期白亜紀:アルビアン期〜新生代:古第三紀:暁新世:セランディアン期の岩石(緑泥石帯)だと判明しました。(´∀`σ)σめでたし。
=変成岩とは=
既存の岩石が後生的な温度・圧力等の条件下に長期間おかれると、新しい条件に適合して、鉱物組成や組織、場合によっては化学組成等も変化し、別の岩石に変わります。この変化過程が変成作用であり、これによって生じた岩石を変成岩といいます。
したがって、変成岩の原石としての「既存の岩石」は、堆積岩でも火成岩でも変成岩でもよい訳です。変成作用の要素としては、地殻変動(プレートの沈み込み及び浮き上がりと現位置への定置)に伴う圧縮と変形作用、マグマ等の熱源が関与する再結晶作用、そして水やガスの移動に伴う化学組成変化などがあげられます。
★【実務者のための岩石肉眼鑑定法―変成岩― 】(中国開発調査株式会社:瀬尾氏文より)

(*図をクリックすると大きくなります)
★【INTERNATIONAL CHRONOSTRATIGRAPHIC CHART (国際年代層序表)】(2016年(平成28年)12月日本地質学会作成の図表)参照。
白亜紀前期のアルビアン期〜古第三紀暁新期のセランディアン期は上のチャート図では赤点線で括ってある範囲の時代になる。
ざっくりと…5,900万年前〜1億1,300万年前くらい?(でいいのかな…)に形成された変成岩の地層ということかしらね。
いやー、もうこの長い長いチャートから見たら、白亜紀前期なんてまだまだ若い部類に入るような気がしてきたw
この「およそ1億年前」という時期は、「白亜紀(はくあき)」とよばれる時代の中頃にあたります。ではこの白亜紀とはどんな時代だったのでしょうか?
「白亜紀」とは、およそ1億4,550万年前からおよそ6,600万年前までのおよそ7,950万年間をしめす時代名です。(*人類(“ホモ・サピエンス”とよばれる種類)が地球上に登場してからは、およそ19万5,000年。さっくり20万年弱?5,000年端折ってますがw)
(中略)
白亜紀という時代を語る上でとても大切なキーワードがあります。
=3つのキーワード=
① とにかくあたたかい!!(グリーンハウス)
② 花を咲かせる植物の登場
③ 恐竜の大繁栄
=(以下略)
大昔の時代名の「白亜紀」の他にある「ジュラ紀」、「カンブリア紀」などは「地質時代」とよばれる時間の分け方で、特徴的なある生き物が生きていた時間を1つの時代として分ける方法。(おおざっぱにいうと、「○○紀は△△という生き物の時代」)
5億4,000万年前から現代に至る、生物が地球上にいる時代は「顕生代(けんせいだい)」と呼ぶ。その時代をさらに3つの区分に分けたのが以下。
(1)「古生代」
(2)「中生代」
(3)「新生代」←*現代は今も続く(3)の最後の方。
=(略終わり)
(2)中生代は古い方から
①「三畳紀」
②「ジュラ紀」
③「白亜紀」
の3つの時代に分けられています。
ここまでをまとめると、白亜紀とは、生き物の主な歴史(顕生代)の中ごろにあたる中生代の、終わりごろにあたる時代なのです。ちなみに、先ほど登場した「カンブリア紀」は、古生代をさらに6つに分けた中の最初の時代です。
★【白亜紀ってどんな時代?】「学校法人城西大学水田記念博物館大石化石ギャラリー:第1回」より
学生の頃は地質学なんて全く関心もなかったのに、今になって写真を見て気になって、こんな感じでサクサク調べられていい時代になったもんだと思うw
こんな風にどんどん新しい世界が開けて新しい物事に触れると、また新たな興味が湧いてくるんだから面白い。
ネットの海も渡り方次第ねぇ。
当時はただただこの滝の美しさに見惚れていたわけだが、こういった岩石形成の長い長い歴史を知っていたらまた違う感じで見れたのかもしれないな。
でも、改めてこの滝をみると、やっぱりただただ美しいと眺めるだけでもいいような気もするw
だって本当に優美な滝だったから。

=びわの滝=
かずら橋の少し上流側にある、高さ50mの滝です。
平家の落人達が古都の生活をしのび琵琶を奏で、つれづれを慰めあったと伝えられたという美しい滝。
★【西部観光案内(祖谷のかずら橋・びわの滝)】
徳島西部観光MAPより
高さ50mと言うとかなりの落差ではあるのだが、その形状からか流水の色・形が実に繊細で優しげな姿。
平家一族が追われ逃れた山奥で、古都の思い出を懐かしみ雅を感じさせたと言う謂れも納得。
かずら橋に比べるとあまり観光客もいなかったのですが、個人的にはいつまでも眺めていたいお気に入りスポットの一つ。
心の声(・Д・)。。o○(ここで美味しいコーヒーとか飲めたらなぁ。。。)
でも、この滝の前に売店の幟とかプラスチックのテーブルとかイスがわちゃわちゃ置いてあったら、それはそれで興醒めな気もするし。。。
ここは、このひっそりした感じのままなのがいいのかな。

山の碧を写した水の色がとてもきれい。。。
私にとってはどこまでも『蟲師』のイメージを感じさせてくれたこの祖谷渓の旅。さあ、そろそろタイムマシンで”今”に戻ろうかな。
バイバイ、2014年(平成26年)のGW。
バイバイ四国、ありがとう!またいつかね〜ヽ( ´_`)丿。
みゅいーーーーーーん♪(*タイムマシン1参照)
もうどこまででも推しますw
★【アニメ『蟲師 続章』公式サイト】第17話「水碧む」(あらすじ)より
★【マンガ『蟲師』第9巻】電子書籍ストア「Book Live」より(無料試し読みあり)
★【講談社コミックプラス『蟲師』】検索結果より(*マンガ『蟲師』は通常版、愛蔵版ともに全10巻)
=『蟲師』第9巻=
残り紅(のこりべに)
風巻き立つ(しまきたつ)
壺天の星(こてんのほし)
水碧む(みずあおむ)
草の茵(くさのしとね)
タイムマシン7で念願のかずら橋を渡って満足した緑の船。
しばし散策でもして目的達成の余韻に浸ろう。





寄って引いて、寄ってはまた引いて季節の綾を愛でる。
この季節の草花は皆どれも鮮やかで瑞々しく美しい。
見えるは大いなる喜び、しかし見えすぎては禍。
光しかない世界も恐ろしい。
何もかも視えちゃいるのに
何も動かせない事と
闇の中でも自由に生きられる事…
どっちが恵まれていると思う…?
『蟲師』第5巻「眼福眼窩」より
沖つ宮(おきつみや)
眼福眼禍(がんぷくがんか)
山抱く衣(やまだくころも)
篝野行(かがりのこう)
暁の蛇(あかつきのへび)
★【『蟲師』第5巻】
コミックシーモア参考までに♪どんだけ推すのかw
『蟲師』の世界に浸った余韻とともに、どれ茶屋で一服しますか。

炭火焼きの甘味噌田楽に鮎の塩焼き…ゴクリ


今は車で気軽に来ることもできるこんな山奥も、ほんの少し前は徒歩か牛馬で行き来するくらいであればこそ、この風景もまだ残されていると言うことかも。
もしかして、こんな山の中のどこかに
”眼福”は眠って潜んでいるのかもしれませぬぞ。
目玉を喰われぬようお気をつけを…。

田楽も塩焼きもまだ焼き始めたばかりだったので(´д⊂)、お蕎麦になった…


GWの頃は山の緑もまだ幼く淡いせいか、空気さえも若さを感じさせる。
そんな山の風景を愛でながら頂く一杯は、海辺のコーヒーとはまた違う味わいなのであった。

ふー、眼福眼福。 旦+.(*´-`*)+
もうほぼ『蟲師』巡礼的な意味もあったこの時の目的地。
それは四国の深い山間、祖谷渓(いやだに・いやけい)に架かる吊り橋。
『蟲師』第4巻「一夜橋」(アニメ:第13話)に出てきた山間の村に架かる吊り橋のモデル、かずら橋を見に行くこと!

こちらは、物語に登場する20年に一度だけ蟲が架ける吊り橋、”一夜橋”。
蟲の渡る方向へなら人も同時に渡れるが、途中で引き返すと…。
山間の閉鎖的な村での悲恋とそこで生きる人々の生活を、蟲の渡りを軸に紡ぐ物語がこの「一夜橋」。


「一夜橋」…初めて”取材旅行”で徳島の祖谷まで行きました。かずら橋も渓谷もかなり衝撃でした。
作者あとがきより

=祖谷山=(いややま)
徳島県西部の祖谷川・松尾川流域の山間部地域のこと。
かつての美馬郡(後に三好郡)東祖谷山村・西祖谷山村の地域に相当し、現在の三好市の一部にあたる。
by Wiki
=かずら橋=
野生のシラクチカズラで編んだ吊り橋。
日本三奇橋の一つで3年に一度かけ替える。
約800年前に源平の戦いに敗れた平家一族が、剣山、平家の馬場での訓練に通うため架けられたと言われる。長さ45m、幅2m、川面からの高さは14mにもなる。敷綱でつながれた横木と横木の間は10cmほど離れているので、足元にのぞく川面はスリル満点!
★【4travel.JP】(>国内>四国>徳島>祖谷渓・かずら橋・大歩危 観光)より
=日本三奇橋=(さんききょう)
日本の古橋の中でとくに構造的に変わったものとしてあげられてきた岩国(山口県)の錦帯橋、甲斐(山梨県)の猿橋、黒部(富山県)の愛本橋をいう。
愛本橋の代りに木曾(長野県)の桟(かけはし)あるいは祖谷(徳島県)のかずら橋を入れる説もあるが、桟はけわしい崖に沿って板をかけ渡した橋で、構造的には上述の諸橋ほどの特色はない。(あのー、かずら橋の件は…)
錦帯橋は1673年(延宝1)に創建された木造アーチを主体とする優美な橋。
猿橋は少なくとも13世紀以前にはつくられていたに違いないはね木橋。
愛本橋(1656年(明暦2)創建とされている)も原理的には猿橋と似た構造で、より大規模な橋であった。が、1891年まったく別の形式の橋に架け替えられてしまって今はない。
★【 ジャパンナレッジ「三奇橋」】より
かずら橋は三奇橋には入ってたり入ってなかったり?
愛本橋と比べると、その”形”は今も現存しているという意味で、愛本橋よりもかずら橋の方が三奇橋にふさわしい!という意味で入っているのかもしれません。
そんな祖谷渓にあるという”かずら橋”へGo!



タイムマシン6のセレブなリゾートホテルから一転、ウネウネした険しい山道を走り、途中で山の斜面にへばりつくような急傾斜なキャンプ場でまずは一泊w
しかし一体何処のキャンプ場だったのか…。
近くに温泉があったのだけは覚えているのだが、場所も名前もすっかり飛んでしまっている。テヘ(´∀`;)ゞ
ホテルからかずら橋までそんなに遠かったっけかなぁ?
なんか、キャンプするためにキャンプ場を探して深い山の中を走り回ったような気も。。。
そう言えば四国の山は、中部や中国地方、九州の山ともまた雰囲気が違う気がするよ。
もしかして主(ぬし)の性質にもよるのかもしれぬな。

そして私は石橋も好きだが、石垣も好き♪

(これはちょっと分かりにくいけど…)
四国の山の中には心踊る石垣がまだまだ数多く残っていた印象がある。
平地の乏しい山間で田畑や家屋用の土地を少しでも多く作ろうとした努力が垣間見え、人がコツコツと築き上げてきたその時間に、車でさらっと通り過ぎているだけではあるのだが、後ろ髪をひかれるような思いで目をやったりした。
さて翌朝。
キャンプ場を出てまた山深い道を走り、いよいよ本命のかずら橋へ!
…んお!?

なんか思いがけない案内人の登場にビビるw
そして念願のかずら橋とご対面!

(見切れてますが 手は”かずら橋のポーズ”ですw)
…
正直に言うと、ちょっと想像と違ったw
谷にはかずら橋を眺めるための観光用の鉄橋が架かっておった。
一度その橋を渡って、向こう岸からかずら橋を渡るために受付で入場券を購入する。
こんな感じかぁ(´-ω-`)なんだかなぁ、とちょっと肩透かし。

=重要有形民俗文化財 祖谷の蔓橋(かずらばし)=
急峻な四国山地に抱かれた祖谷地域は、屋島の合戦に敗れ逃れた平国盛と安徳帝の一行が、平家再興を願い土着したと伝わる隠田集落であり、近代まで外部との交通が隔絶されていたために、中世以来の生活様式や独特の風俗が原形に近い状態で残されている。
この祖谷地域を流れる祖谷川に、国の重要有形民俗文化財に指定される祖谷のかずら橋が架かっている。厳寒な冬の山野で採取したシラクチカズラを編み連ねて作られたこの橋は、橋床の隙間から谷底が見え、長さ45mの吊り橋の揺れと相まって渡る人に適度なスリルを味わわせる。
日本三奇橋にも数えられるかずら橋の由来には諸説あり、平家の落人が追手から逃れるために切り落とせるように作ったとする説や、四国を巡行された弘法大師が困っている村人の為に作ったという説などが伝えられている。
両岸の古木に重みを託し、祖谷川の清流に影を映した悠然たるかずら橋の姿は、遠い昔の祖先の暮らしを思い出させるとともに、自然と調和した美しい景観を生み出し、その強烈な個性は多くの観光客の琴線を刺激し続けている。
長さ:45m、幅:2m、水面からの高さ(中央):14m
(現地看板より)
多分、もっとこう本気で山深い谷に掛かっているような恐怖の吊り橋を想像していたため、「あれ?意外と短いなぁ、下の川までそう高くもないよね?」とちょっぴりがっかり。
しかし、近くで見てみるとやはり日本三奇橋の一つだと言われるだけの存在感である。


おお!「一夜橋」でギンコがビビりながら渡った吊り橋と確かに同じ構造だ!
(*このかずら橋とは別にもっと秘境に二重かずら橋と言うのもあると今更知る)

先にいた家族連れがキャーキャー騒ぎながら渡っていて、面白がってわざと揺らしたりしていたので渡りきるのを待って、いざ。

お?



大した高さではないと思うが…
一歩、 一歩。
ゆら、ゆら…
(こ、これを夜に渡るのはちょっと…)
ぎゃーっ!((((;´д`))// ギョッギョエーッ!
屁っ放り腰でヨロヨロ渡る緑の船を見て「え?そんなに怖いっけ?」と涼しい顔でスタスタ行く乗船員K。
大したことない感じ〜とか言ってたくせに意外に(かなり)怖かったですw
最初の印象でちょっぴりがっかりなんて言ってしまいましたが、でもやはりこの橋の風景は中々にステキでもありました。

鑑賞用の鉄橋がなければ、この美しいかずら橋を気楽にゆったりと眺めることも中々できなかったりしたかもしれません。

今は生活の足としてではなく観光用となっているとは言え、素材が植物の蔓で寄って作ってある橋だけに今も3年に一度は架け替えるらしく、2018年(平成30年)に3年振りに架け替えたと言うニュースがあったからその前は多分2015年(平成27年)。
我々はその前年の2014年(平成26年)に渡ったから、その時は蔓の色や雰囲気もいい感じで馴染んでいたって訳です。
自然からの素材とは言え、蔓もかなりの大きさ。
昔はこの蔓を編むのも村人総出の大仕事であったに違いない。(きっと今も)
これを3年に一度掛け替えなければならないのだから里の人々は相当大変だった事だろう。
きっと、自治会の仕事なんてめんどくさ〜い、抜けたーい(´Д`lll)なんて言ってられないような切実な共同作業も多かろう。

でも、そんな人々の共同作業があってこそ、この橋は今もこの形を留めてこうしてここにあるのだろうと思います。
里の皆さんのその日々の努力に σ(`・ω・´)敬礼!

「ゼン…やっぱり、だめだよ…
こんなふうに私たちだけ、幸せになんかなれないよ」
未練はないな?
この橋、戻れば落ちるぞ。
「…進めない。この中にハナだった奴がいる。
踏みつけてなんざ… 進めない」

「一夜橋」の物語の背景には、自分だけの事を考えているだけでは生きてはいけない世界で、自分だけの事を考えていては幸せにはなれないと言う悲しくも厳しい現実も描いてあるのだと思います。
★【Mushishi & Mushishi Zoku Shou OST - All Ending Themes by Toshio Masuda | 蟲師】
「一夜橋」のテーマ曲は29:12から。
ちょっと切ない回なので音楽も暗めですが『蟲師』の曲はどの曲も好きです♪
アニメ初回の「緑の座」0:00 ("The Green Seat")から、マンガ『蟲師』の世界観を広げてくれ寄り添うような音楽に引き込まれました。
「やまねむる」24:43 ("The Sleeping Mountain")はその中でも特にお気に入りの回であり一曲でもあり。
アニメ『蟲師』の中では異色の曲であろう「日蝕む翳」1:02:49 ("The Shadow That Devours the Sun")も良いし、あーもうどれも捨てがたい!…もう「鈴の雫」2:00:49( "Bell Droplets”)までずっと聞いてほしいw
★【増田俊郎(ますだとしお) – 「蟲師」オリジナルサウンドトラック 蟲音(むしのね) 全】by DISCOGS
<おまけ>
★【アニメ『蟲師』(全26話)】dアニメストアより
★【アニメ『蟲師』特別篇「日蝕む翳」公式サイト】2014年(平成26年)4/23(水)発売(Blu-ray、DVD)
★【アニメ『蟲師 続章』公式サイト】続章(全20話)+特別編「鈴の雫」(あらすじ)
本当はこの日は美術館ではない所へ寄るつもりだったが、タイムマシン5でうっかり長時間滞在してしまった。が、この日の宿はすぐ近くだったのでそのまま宿へ向かえばいいので良かった。(いつもは大体予定が押してしまうと急げ急げ〜!と焦って走っているところ)
はて、本来行く予定だったのは何処だったっけ?
なんか石橋的な遺構的な何かだったはず…なのだが今となっては忘れたw
ともかく夕方6時頃には宿に到着。
この日の宿は海に面していて、テラスの露天風呂からはこんな景色が見えたのだ。
おお〜!しかもジャグジー付きだよーっ!!

しかもしかも、この時泊まった部屋がメゾネット式で2階建て?3階建て?な仕様。
テンション上がるw
寝室の下にも部屋があってそこが水回りとかリビング的な感じだったかな、上には先ほどの露天風呂(ジャクジー付き!)があったような。

オシャレな宿は夕食もオシャレ、そしてゴージャス♪
美味しゅうございました。

そして夕食後のお風呂は…

=秘儀の間=!(*私命名。壁は白いけどイメージです)
「あれ!?ジャグジーには入らないの?」
「テラスの露天風呂?
いやぁ、だってもう夜だし景色見えないし、結構寒いし…」(-∀-)
(*この日の夜は風も結構あったような記憶)
そして、美術館での膨大な質量の観覧で精気を吸い取られた私はバタンキューと死んだように寝てしまったのであったZzz。
翌朝、乗船員Kに聞いてよ聞いてよ!と叩き起こされる。
プンヾ(`・3・´)ノプン
何よもう。(´д⊂) ファー
「昨日、テラスの露天風呂に入ろうと思ったらお湯が入ってないんだよ!
で、お湯を入れたんだけど 湯船が 大 き す ぎ て(爆)
お湯がなかなかたまらないんだよ!
しかも、ジャグジーどうやったら動くのか分からなくてあれこれやったけど
結局動かなかったよ!寒くて風邪ひきそうだったよ!プンプン」
「…動かし方分からなかったらフロントに聞けばいいじゃない」
「聞かなきゃ分からないジャグジーなんておかしいよ!」
素直に聞けw
まあまあと、とにかく朝ごはんを食べに行こうとなだめながら食堂へ。
ぬおーーっ美味しそう!
オシャレな宿は朝食もオシャレ〜♪


ジャグジーでお冠だった乗船員Kであるが、朝食で機嫌が直るw
( ^ω^ )デリシャース! モグモグ( ^ω^ )マイウー
良かった良かった。
朝ごはんの美味しい宿は、何年経っても印象がいいのです。

★【鳴門の隠れ家リゾートホテル「モアナコースト」】HP
○所在地:徳島県鳴門市鳴門町土佐泊浦高砂186−16
Moana Coast とはハワイ語で”美しい海岸”
風光明媚なここ鳴門で
海と山に囲まれてひっそり佇むリゾートホテル
ホテルHPより
*お泊まりの際はジャグジーの使い方を現地で確認しましょうw
タイムマシン4の、「神戸ー鳴門ルート」間の鳴門北ICの近くにあったこの美術館。

★【大塚国際美術館:HP】
○所在地:徳島県鳴門市鳴門町 鳴門公園内
(*鳴門北ICから車で3分ほど)
○TEL:088-687-3737
○休館日:(月)※祝日の場合はその翌日
その他休館日等は開館カレンダーでご確認を。
○開館時間:9:30~17:00(入館券の販売は16:00まで)
※当日に限り再入館可。(必ず退出前に出入口にて申し出てください。)
※1月は連続休館あり、8月は無休。(*詳細はHPにてご確認を!)
○入館料:一般 3,240円
大学生 2,160円
小・中・高生 540円
いずれも消費税等込(*2019年5月現在)
※公式オンラインチケット、全国コンビニチケット、前売券取扱所のご案内
※入館券の販売は16:00まで。
※20名以上の団体は10%割引きあり。
○駐車場:無料。(入庫の際、発行される駐車券を館内設置の機器に通す。)
美術館駐車場への最終入場は15:50まで。
○アクセス:↓(大塚国際美術館HPより)

「大塚国際美術館」という名前は当時もなんとなしには知ってはいたのだけれど、あまりメジャーではなかったのか(私だけ?)、美術館は大好きなのに当日その時まで行こうという予定にすら入っていなかった緑の船。。。
開館は1998年(平成10年3月21日)、そして明石海峡大橋の開通が同じく1998年(平成10年4月5日)。
めでたく「神戸ー鳴門ルート」が開通したのでとてもいい時期に開館したのだろうと思いますが、まさかこの明石海峡大橋の開通に合わせて開館したんでしょうか!?だとしたらすごいですよね。
去年(2018年の大晦日)の紅白で徳島出身という米津玄師さん(読み方をずっと”よねつげんすい”と間違えていた…。正:よねづけんし)がこの大塚国際美術館の館内で歌ったりしてたので、今はまた一層有名になったようです。
★【米津玄師さん紅白で「Lemon」披露 地元・徳島県鳴門市の大塚国際美術館から生中継】徳島新聞より(トップ> 徳島ニュース >徳島の話題)2018/12/31

★【米津玄師 MV「Lemon」】
★【紅白の舞台・大塚国際美術館 米津玄師さん効果 “巡礼”続々】徳島新聞より(トップ> 徳島ニュース >徳島の話題)2019/1/30
美術館学芸部の富澤京子係長は「幅広い世代に美術館や徳島の魅力を知ってもらう機会になりありがたい」と話している。
しかし我々が行った開館16年後の2014年(平成26年5月)は、GW中に訪れたのだけど、そんなに混んでもいなかったような印象。
この時実はこの美術館からほど近い場所にたまたま宿をとっていて、そこへ向かう途中に
「あれ、こんな所に中々立派な美術館があるよ?行ってみる?」
程度の寄り道感覚で入ってみることにしたのでした。
しかし、いざチケットを購入する段になり「お一人様…3,240円!?」という中々なお値段に一瞬躊躇。
た、高くない!?(◎_◎;)
下調べも何もしてなかったので、果たしてこの金額を払ってまで観たいのかとしばし検討。
どうも、「陶版名画美術館」という異名から、名画をタイルに焼き付けた?所謂”良い贋作”の美術館てことなのかと推察。
”贋作”なのにこの値段…。
どうする?どうしようか?とチケット売り場で悩む悩む。
四国へは何回かツーリングで回ってはいたけれど、今までこんな所に美術館があることも意識せずスルーしてきたし、今回も同じく意識もしてなかったものの、今こうして改めてこの機会があり、美術館に寄る時間的余裕もある。…ということは行って観てきてもいいんじゃない?とまとまりました。
いざ入場。
お?
入り口から入ると、まず長い長いエスカレーターで上へ上へと昇っていくのです。
…なんかすっごくでかくない!?
外観からは館内の広さが全く分からなかったんですが、めっちゃ広いです。
そして、所謂”贋作”でしょ?とタカをくくっていた我々は度肝を抜かれたのでした。
観る時間は30分くらいしかないわー、というなら非常に勿体無いことになるでしょう。
我々はお昼の12時半頃に入場し、この後延々と閉館時間まで館内を巡ることになりましたw
(途中食事をとって軽く4〜5時間、そしてまだ見足りない感じでw)
美術館は地下3階から2階までのフロアからなる。
システィーナホールのように、古代遺跡や教会などの壁画を環境空間ごとそのまま再現した作りが特徴で、鑑賞距離にすると約4kmになる。
最初、どうせ”プリント贋作”でしょ?パネルでしょ?と舐めてかかっていたら、見事に鼻っ柱を叩かれて目が覚めたような衝撃!
ナナナなななな何ぞこれーーーーっ!?オオ━━(#゚Д゚#)━━!!
きっと写真なんかではこのスケールはお伝えできないと思うけれど、その一部をご紹介。

米津さんが紅白で歌ってたのはここでしたね。
=システィーナホール=
*ミケランジェロ:システィーナ礼拝堂天井画および壁画。
所在地:ヴァチカン
高さ16mの位置にある800㎡の天井を彩る旧約聖書の「創世記」の物語や「最後の審判」などの名画。ただし、紙やキャンバスに描かれたものではなく、陶器の大きな板に原画に忠実な色彩・大きさで作品を再現した「陶板名画」である。実物の礼拝堂を完全再現している。
★【HUFFPOST<米津玄師が紅白で歌った礼拝堂が注目を集める。大塚国際美術館てどんなところ?】より

=牛乳を注ぐ女=
*フェルメール:所蔵/ アムステルダム国立美術館(オランダ)

フェルメールはあの「真珠の耳飾りの少女」もあったけれど、はしゃぎすぎて絵と自分の写真を撮ってばかりであの絵だけのはなかった…orz
昔、美術館で本物の「真珠の耳飾りの少女」の絵を観たことはあったけれど、ものすんごい人ごみで近づくのも困難だったのを思い出す。
あの絵がこんなに間近でじっくり見られるなんてw
そう、陶版の絵だから鼻の先までの接近も写真もOKなのです!

=エル・グレコの大祭壇衝立画=(復元)
*(所在地:もし現存してたらスペイン)
かつてスペインのドーニャ・マリア・デ・アラゴン学院にはエル・グレコ(1541年〜1614年)の円熟期、 1600年前後の制作になる大祭壇衝立画がありました。残念ながらこの作品は19世紀初頭、ナポレオン戦争で破壊され散逸し、幻の祭壇画となりました。
当美術館ではスペイン美術史家、故・神吉敬三教授の説に従って、スペインのプラド美術館にあるエル・グレコの5点の作品「キリストの復活」(左上)、「キリストの磔刑」(中央上)、「受胎告知」(中央下)、「聖霊降臨」(右上)、「キリストの洗礼」(右下)にルーマニア国立美術館の1点「羊飼いの礼拝」(左下)を加えた6点で、この大祭壇衝立画を原寸大で推定復元しました。世界初の試みです。
大塚国際美術館HPより
この美術館の何がすごいのかというと、展示物が原寸大なのはもちろんですがその再現度の質がとても素晴らしいのです。
まるで、本当にイタリアで壁画を見ているかのような展示です!
すごい凄いすごーーーいっΣ(゚□゚(゚□゚*)
=秘儀の間=(写真はほんの一部)
*秘儀荘(紀元前2世紀頃に建てられたとされる)/ 所在地:ポンペイ遺跡(イタリア)
西暦79年のヴェスヴィオ山の噴火によって埋もれてしまったポンペイ市壁外に残っていた館。
この壁画の赤はポンペイ・レッドと呼ばれ、秘儀荘という名前は、この建物から「ディオニュソスの秘儀」を描いたとされる見事な壁画が見つかったことに由来するとか。詳細は現地を訪れた方のこちらを↓参照。
★【ポンペイの秘儀荘と個人住宅】*「遺跡ときどき猫」さんのサイト。2017年8月・10月訪問した時のレポ。
見事なアレキサンダー大王のモザイクやポンペイレッドが鮮やかな美しい壁画、ポンペイの秘儀荘とその他の有名な個人住宅を詳細に紹介してあります。
個人的には、この黒い翼の女神が鞭を振るっている場面がお気に入り♪

西暦79年に起きたこの大噴火は、当時から一級の保養地・避寒地であった2つの町ポンペイ(Pompei:推定人口2万人)とヘルクラネウム(Herculaneum:推定人口5000人)をおよそ一日で埋没させ、かのローマ帝国をも揺るがしたと言う。
この壁画からも、屋敷はかなり裕福で豊かな文化を享受していたであろう暮らしぶりが伺えます。
8月24日昼頃:最初の水蒸気マグマ噴火が起き、噴火に伴う激しい群発地震が発生する。噴煙によって吹き上げられた軽石が絶えず町に振りそそぐ。
↓
8月25日未明:噴火口が崩れ火砕流が発生、火口から6.5kmのヘルクラネウムの町が全滅。
↓
8月25日朝(8時頃):さらに大規模な火砕流が発生、火口から9kmの麓にあったポンペイの町を襲う。まだ町に残っていた2000人が焼死。ポンペイはこの時すでに2m以上の厚さの降下軽石に覆われていたと言う。(と言うか、もうそれ逃げられない状態よね…)
下記↓を読むと1940年前の噴火による災害が実にリアルに身に迫ってきます。日本もイタリアも火山活動が活発な土地柄ですからね。(そしてその恩恵として温泉があると言う至福も共通)
★【西暦79年にイタリアのヴェスヴィオ火山で起きたプリニー式噴火】小山真人「ヨーロッパ火山紀行」(ちくま新書)より参照。
しかし、いつか行ってみたいと思っていたポンペイ遺跡。。。
その遺跡の一部をまさか日本にいながらこんなにじっくり見られようとはw
イタリアに行くことを思えば、入場料3,240円なんてお安いですわw
=貝殻のヴィーナス=
*貝殻のヴィーナスの家 / 所在地:ポンペイ遺跡(イタリア)

壁画は屋外の噴水の前にもあったりして、これも陶版の成せる技。
陶版名画すげーーーーーっΣ(´Д`*)感激!
さて、大塚製薬の関連会社が創設したとういうこの大塚国際美術館。
なぜに普通の美術館ではなかったのか?(絵画を普通に購入・収集し、普通に展示する美術館ではなかったのか?)
なぜに陶版で名画だったのか?
それは、一握りの砂から始まった。
=以下大塚国際美術館サイトより=(*少々編集)
●大塚正士(大塚国際美術館初代館長)
1998年(平成10年)大塚製薬創立75周年事業として「大塚国際美術館」を設立。
我々が今回のような美術陶板の開発に着手したのは、今から27年前(*1971年:昭和46年)のこと、私が大塚グループ各社の社長をしておりました時に、グループ会社の一つの、大塚化学の技術部長であった私の末弟・大塚正富(現アース製薬株式会社社長)と、技術課長の板垣浩正(現大塚オーミ陶業株式会社取締役)の2名が私のところにやって来て、一握りの砂を机の上に盛り上げたことからはじまります。
「社長、実はお願いがあるのです」(`・ω・´)
「その砂はどうしたのだ?」(・Д・)
「これは鳴門海峡の砂です」(・ω・)ノ
うちの工場は紀伊水道に面していて白砂海岸がずっと海峡まで続いており、その白砂です。
「実はこの砂でこれからタイルを作ろうと思っております。
この砂はコンクリートの原料として採取し、機帆船で大阪や神戸へ陸揚げして、建築用としてトン幾らで販売しているのです。しかし、これをタイルにして1枚幾らで販売すると非常に価値のある商品になり、徳島県のためにも、また大塚のためにもなりますので、是非とも県知事に話してこの白砂を採取し、タイルを作る許可を貰ってほしいのです」(`・ω・´)(・ω・)ノ
直ちに当時の知事、武市恭信氏に話をして許可を得たのですが、彼ら2人は大塚が着手しないのなら会社を辞めるとまでの大変な意気込みでして、私も感心したのです。
ところが、会社設立の昭和48年(1973年)は、皆様もご存知の通り石油ショックが来まして、石油価格が12倍にも高騰し、ビルの建設が全面停止になるという異常事態が起こりました。我々としても、会社は設立したものの操業が出来なかったのです。
その時に役員一同頭を抱えて考えた末、
「陶板に絵を描いて美術品の方に移行しようじゃないか」(´・Д・)」(´・Д・`)ノヽ(゚ω゚)
ということになり、まずは尾形光琳の「燕小花」(*注1)を作りました。
(*注1)
★【尾形光琳:燕子花図】「文化遺産オンライン」より参照(右隻)
(左隻)
なにしろ1m×3mという大きな陶板が無傷で焼けるものですから、これを数枚並べればよいのです。
そのうち更に大型の美術陶板が制作出来るようになりましたが、より完成度の高い美術品を追求して新しく焼き、作り、且つ壊しながら日々研究努力を続けてまいりました。これから色の道に対する我々の苦労が始まったのです。
(中略)
大型美術陶板・写真陶板の製作に成功した時は、丁度大塚は創業50周年(*1973年:昭和48年)でしたし
「これで何か後世に残るもの、我々だけのものでなく、皆様と共有できるものを作ろう」o。(○゚ω゚)ノヽ(・Д・)。o
という話がありましたが、それが実現せぬまま、おやじは80歳で亡くなりました。
それから25年経ち、とにかく終戦の時はたった17名の社員であったのが現在は社員23,000人に、殊に徳島県では社員7,000人の企業に成長致しましたことですし、永年大塚が徳島県にお世話になったお礼のために、おやじの遺志でもあり私も同様に考えておりましたので、
75周年記念事業として
是非とも徳島に造らねばならない、
と現在の地、鳴門海峡に西洋の名画のみの美術館を造って、皆様に見て頂くという考えで「大塚国際美術館」を設立いたしました。
そうか、そんな経緯と歴史がこの美術館に…。
最初は、大塚国際美術館ってあの大塚製薬の関連グループ事業なのね?へー、ふーん、製薬会社って儲かってるんだね┐(´-`)┌金持ち企業の道楽事業かな。…なんてうがった見方でエスカレーターに乗っていた私です。。。
すみませんでしたーーーーーっ!m(_ ”_;)m
今はめっちゃその設立経緯に共感し感銘を受けている県外者の私。
次回は心して、こんな素晴らしい美術館を創設してくださった皆様に感謝しつつじっくり鑑賞したいと思います。
あ、あれは!!(喜)
アレキサンダー大王(アレクサンドロス大王)!!(紀元前356年~前323年。若き日はアリストテレスの講義も受けた)
=アレクサンダー・モザイク=
(大王部分のみ。全体はでっかい壁いっぱいの壁画w)
*所蔵:ナポリ国立考古学博物館(イタリア)
ポンペイの「ファウヌスの家」と呼ばれる邸宅の一室を飾っていた。

世界史は苦手な私が唯一そのルックスに惚れた横文字の偉人さんw
もうほとんど忘れていたのに、この壁画の前に立って、学生の頃世界史の資料にあったアレキサンダー(アレクサンドロス、アレクサンダー、正しい呼び方どれよw)大王のこの写真を見ながらノートに大王様のイラストを描いていたことを思い出したわ…。
そう、この横顔が好きだった(〃▽〃)。
=ヘレニズム文化=
紀元前4世紀頃にギリシャ各地のポリスが統一され、北方のマケドニアのアレキサンダー大王 によって、ギリシャは統一され支配された。さらに領土を拡大しようとし、エジプト、ペルシャなどオリエント各地にも遠征したこの頃の文化。
そして、実は現地でアレキサンダー大王の壁画以上に食いついた絵があった。
戦闘で傷ついた兵士を介抱する図とかだったような、古代ギリシャかエジプトの辺りの皿絵だったような…?(うろ覚え)
そう、これこれ!

美術館のサイトには「展示作品リスト」があるのだが、古代エリアのどれか作品名だけではわからぬ!
Google先生に「ギリシャの陶器」で質問→
「『矢で負傷したパトロクロスを治療するアキレウス』(前500年頃)Wikimedia Commons」という画像を提供していただく。
これや!しかしこんなタイトルの展示リストがない…「アキレウス」いっぱいある…(°_°)
16ペンテシレイアを殺すアキレウス、17パトロクロスとアキレウス、19アキレウス、91アキレウスとトロイロス、92アキレウスとペンテシレイア、93アキレウスとトロイロス、99アキレウスとブリセイス、101アキレウスとケイロン。(多分17番?)
Wikiwand で再捜索>アキレウス
アキレウス(Ἀχιλλεύς、ラテン語: Achilles)は、ギリシア神話に登場する英雄で、ホメーロスの叙事詩『イーリアス』の主人公である。ラテン語ではアキレス。プティーアの出身で、プティーア王ペーレウスと海の女神テティスとの間に生まれた。アイアコスの孫にあたる。
ギリシャ神話に登場する結構メジャーな英雄だったのね!
あったー!
=以下一部編集=
アキレウスは、友人パトロクロス(*1)と共にトロイア戦争に参加していた。
(*1)古代ギリシャ語: Πάτροκλος, Patroklos, 英語: Patroclus(あるいはパトロクレース:Πάτροκλος, Patroklēs)は、ギリシア神話の登場人物。トロイア戦争の英雄アキレウスに仕えた武将で主人のアキレウスとは竹馬の友でもあった。
ギリシア勢がトロイア戦争を開始してから十年目、ある事情により理不尽な行為に腹を立てたアキレウスはそれ以降戦いに参加しなくなる。アキレウス退陣とともに神々の加護を失ったギリシア勢は総崩れとなり、陣地の中にまで攻め込まれる(ゼウスがギリシア勢に味方する振りをしてイーリオス勢に味方した。ゼウスひどい)。
これを見たパトロクロスは、出陣してギリシア勢を助けてくれるようアキレウスに頼んだがだめだった。せめてとアキレウスの鎧を借りてミュルミドーン人たちを率いてパトロクロスが出陣した。アキレウスの鎧を着たパトロクロスの活躍により、ギリシア勢はイーリオス勢を押し返したが、そのパクトクロスがヘクトール(イーリオスの王プリアモスの息子、事実上の総大将)に討たれ、アキレウスの鎧も奪われてしまう。
パトロクロスの死をアキレウスは深く嘆き、ヘクトールへの復讐のために出陣。復讐の戦いでイーリオスの名勇士たちを葬り去る。イーリオス勢が城内に逃げ去る中、門前に一人立ちはだかる人影が。親友の仇ヘクトールだ!
ギリシア勢とイーリオス勢が見守る中、アキレウスとヘクトールの一騎討ちが始まる。
アキレウスは復讐心からヘクトールを追いまわし、ヘクトールは逃げ回ってイーリオスの周りを三度回る。しかし、ついにヘクトールはアキレウスに冷酷な殺し文句と共に討たれたのだった。
復讐を遂げて満足したアキレウスは、さまざまな賞品を賭けてパトロクロスの霊をなぐさめるための競技会を開く。(よほどパトクロスが好きだったのね。その分ヘクトールへの仕打ちはひどかった。アキレウスは競技会が終わっても死者への酷い仕打ちを続けるが、ヘクトールの父プリアモス王に懇願されてやめ、プリアモスを労わり息子の遺体を返す)
ヘクトールの葬儀の記述をもって、アキレウスの『イーリアス』の章は終わる。
というわけで、この皿絵は「パトロクロスとアキレウス」(*ギャラリーAに展示)であろう。あースッキリしたw
現物はベルリン国立古代博物館(ドイツ)に所蔵、古代ギリシャの陶器(紀元前500年頃)で、大塚国際美術館の展示リストによる作家欄は”ソシアスの画家”となっている。名前?土地名?工房名?
特に何に惹かれたっていうと、このデザイン!
今時(近代)の少女漫画や小説の挿絵にありそうなこの線、この配色、この洗練された図象!
もちろん陶器として、美術品としての完成度もステキ!
これが紀元前500年頃のデザインだと(◎_◎;)!?(日本は弥生時代初期から中期頃、中国は春秋戦国時代辺り?)
ギリシャ神話をモチーフにした古代ギリシアの陶器だけれど、その後の文化のどこにも似ていないし、継承もされていないような絵柄に目が釘付け。
この辺のギリシャ神話をモチーフにした絵画様式がなんとも独特だけれど、その後の時代のギリシャにもないんじゃないか?あったっけ?
ローマ時代には神話の彫刻も絵もなんだか写実主義に入って、さらに実際の造形より盛ってムキムキな感じよね?骨と肉、2Dよりも3D!みたいな。
見れば見る程、同時代の他のどの絵画より洗練されていると思うんだ。エジプトの壁画ともまた雰囲気が違うし。
古代ギリシャのこの絵を描いていた文化はどこへ消えてしまったのだろう…。
皿に穴が開くかと思うほどグイグイ眺めた作品でした。
今やすっかり忘れ去っていたこの陶器をちょいと調べてみた。
この陶器が生産されたのはアッティカ地方(*アテナイ=現アテネを中心とした地域)といい、紀元前5世紀に至るまでギリシア陶器製作の中心地であり、建築、彫刻においても常に主導的位置を占めていた。パルテノーン時代にドーリス、イオーニア両様式の渾融した古典様式を完成した古代ギリシャの中でも生粋の文化の中心地だったところだ。
★【世界美術大全集 西洋編(小学館)】
★【アッティカ(古代都市):唐草図鑑】より
知りたかったことが簡潔にまとめてあり素晴らしい♪以下一部参照。
=アッティカ陶器=
アッティカ地方を中心に生産された古代ギリシアの陶器。高い完成度を示し、ギリシア美術の最も特色ある一部門を形成する。
「黒像式」と「赤像式」の二種の技法があり、前者は素地の上に描く対象を黒ワニスで塗りつぶし、その細部を掻き落としの技法で表すもの。後者は紀元前530年頃現れ、蔵の部分を素地のまま残して、周囲を黒ワニスで塗りつぶす技法である。
プロト・アッティカ様式(Proto-Attic style):紀元前7世紀
ギリシア文明の黎明期である紀元前10~前8世紀に幾何学文様式がギリシア世界を風靡する。(最初の傑作群を製作したのがアッティカの陶工たち)
紀元前7世紀、プロト・アッティカ様式の陶器は、幾何学文様式を継承しながら新しい形態を創造し、人間や動物を奔放なまでに豊かな表現力で描いている。同じ頃アッティカ陶器と並んでコリントス陶器も発展するが、その繁栄期間はより短く、紀元前6世紀中頃にはほとんど衰退し、以後アッティカ陶器が優勢となる。コリントス陶器の洗練された装飾と細部の入念な仕上げを取り入れて、多くの海外市場を独占していく。(*商売上手ですな!)
アッティカ陶器の第一期:紀元前600~前530年頃
力強いプロト・アッティカ様式の時代を過ぎ、アルカイック期の黒像式の技法がますます進展する。(*私が好きな様式は多分この辺りから!)
小型のアンフォラ(両肩に持ち手がついたほっそりした壺)においても大型のヒュドリア(腰のあたりに持ち手がついたずんぐりした壺)においても細密画風の精緻な様式へ向かう傾向が見られる。
アッティカの陶工や陶画家たちは注文の増加に伴い自作の価値を自覚し始め、その結果作品に署名する者も現れるようになる。(ブランド化の走り!?)
アキレウスと共にトロイア遠征に参加した神話上の英雄パトロクロスのための葬礼競技の場面を豊かな表現で描いたソフィロス(Sophilos)はアッティカ最初の署名画家の一人である。
本当に名前のある絵師がおったーーーっ!(◎_◎;)
紀元前500年以上前の署名ブランド画家…すごくない?
アッティカ陶器の第二期 :前530~前480年
赤像式の技法が開始される。(*画家ソシアスの陶器はこの頃)
以後この技法がアッティカ陶器の主流となる。
厳格様式期:紀元前480~前450年頃。
中期古典期:紀元前450~前400年頃。
後期古典期:紀元前400~前320年頃。
壁画や板絵などの他の絵画が様々な新しい表現の可能性を追求していたこの時代、アッティカ陶器は今までの課題を繰り返しただけの時代遅れの様式になっていた模様。紀元前4世紀末頃に生産が停止される。
この様式は他に黒絵式とか赤絵式とも呼ばれていて、紀元前600年〜紀元前400年頃のものがよく見られる。
紀元前1300年〜前1180年頃に栄えたコリントス式の陶器は有名らしく、時代的には色や図象とか似ていてその系統を受け継いでいるようななイメージだなぁと思っていたら、本当に継承されていた。(というかアッティカ陶器がコリントス陶器の様式を吸収して栄えたというべきか?)
私の好きなこの「パトロクロスとアキレウス」(画家ソシアス Sosias)は赤像式のキュリクス(古代ギリシア語: κύλιξ、kylix)で、ワイン用酒杯の一種であった。(直径32cm、高さ10cm)
ワイン用だけどもギリシャではこの形の酒杯はもうないそうで、でもこの形って日本では今もお相撲さんが優勝した時とかに飲む特大盃と似ている。もしやこんな感じでギリシャから日本まで酒杯の形で繋がっているのかもw
=キュリクス=
比較的浅く広がった形状で脚がついており、縁の両端に対称かつ水平の取っ手が出ていることが多い。 内側のほぼ平らな円形の部分をトンド(円形の絵画)と呼び、紀元前6世紀や紀元前5世紀の黒絵式陶器や赤絵式陶器では主にそこに絵を描いていた。
by Wikipedia
赤像式ってことはアッティカ陶器の第二期頃で、その中でも”ソシアスの画家”と名が残っているのね。
うんうん、ソシアスよりちょっと前の時代で黒像式の画家エクセキアス(Εξηκίας、Exekias)とかとはやっぱり絵柄がかなり違う。(横顔の目の描き方が、エクセキアスは様式美なのかエジプト絵画のように目だけは正面からの目の形だったりするけど、ソシアスは普通に今時の絵師のような繊細さw)
改めて比較して見て、やっぱり私はこの絵師ソシアスの図象が格別に好きだ!
.゚+.(・∀・)゚+.
★【3 - 1 - 2 開拓者たち】「GREEK VASES」より(ギリシア陶器とはどういうものかを簡潔に解説してくださっているサイトです♪)
この時代の最後に位置し、現存する作品はわずかではあるが、ギリシア陶器の中でも傑作のひとつに数えられる陶器を描いたのがソシアスの画家(Sosias Painter)である。
確かにこの時代の黒像式の図象も赤像式の図象も、物によっては線、絵柄、デザインがだいぶ違っていて、その中でも私がビビビッときたのがソシアスさんという画家の個性としてのデザインだったということなら、後の時代にはもう同じものがないというのも納得。
しかし、紀元前500年頃って今から2520年くらい前ってことで、そのデザインが現代の少女漫画の絵柄とそう変わらないってことに別の意味で驚愕。
・:*+.(( °ω° )).:+ 時代は巡る、地球を回ってw
ここは本当に日本ですよね?と言いたくなったこの部屋。
=スクロヴェーニ礼拝堂=
*ジョット・ディ・ボンドーネ/ フレスコ絵画の壁画
(Cappella degli Scrovegni)は、イタリアのパドヴァにある礼拝堂。
エンリコ・デッリ・スクロヴェーニが購入し、礼拝堂を建てた場所が古代ローマの競技場(アレーナ)であるアンフィテアトルム跡に隣接していることから「アレーナ礼拝堂」とも呼ばれる。
1305年に完成したジョット・ディ・ボンドーネが描いた、西洋美術史上もっとも重要な作品である一連のフレスコ絵画で知られる。礼拝堂は受胎告知と聖母マリアの慈愛に捧げられており、ジョットのフレスコ画は聖母マリアの生涯を描き、人類の救済におけるマリアが果たす役割を祝福するものになっている。
再現にもほどがあります。
そして素晴らしく美しい空間であります。
青が美しい…。


=受胎告知=(の左部分:天使ガブリエル)
*レオナルド・ダ・ヴィンチ / 所蔵:ウフィツィ美術館(フィレンツェ、イタリア)

写真を見返したら、「受胎告知」の絵の前で嬉々として同じポーズで写っている自分がいっぱい…。
きっと他の人も同じような写真を撮っているはず…\(//∇//)\。
=受胎告知=
*フラ・アンジェリコ / 所蔵:サン・マルコ美術館(フィレンツェ、イタリア)

ルネサンスコーナーに「受胎告知」だけで14作品あったけれどこの二つの作品が好きかなぁ。
キリスト教にはとんと疎い私ですが、このへんの宗教画でよくある頭の上に後光(リング)を描くという手法がなんとも好きです。
「絵」として、あのリングがあるのとないのとでは印象が随分違う気がします。
その描き方もこちらのように頭上のちょっと上で、後ろ倒し気味で、輪っかを全部塗りつぶすのではなくごく細い線で繊細に描いてあると、実にやんごとなき雰囲気が出るとか。
=大公の聖母=
*ラファエッロ(ラファエロ) / 所蔵:ピッティ美術館(フィレンツェ、イタリア)*1504年、ラファエロが21歳の時の作品!

=ボッティチェリ「春」(プリマベーラ)=
○原寸:315 x 205 cm
○所蔵:ウフィツィ美術館(イタリア:フィレンツェ)

これも綺麗だったなー。
陶版の境界線が見えますが、それでも原寸大を間近で眺められるのはいいです。
中央の位置にいるのが愛の女神”ヴィーナス”(アフロディーテ)。
美しくて、もう舐めまくるがごとく眺め倒しますw
右端の青白い顔の頬をふくらませて息を吹いているのが春を運ぶ神、西風のゼフュロス。
ゼフュロスが恋をして抱きつこうとしているのがニンフのクロリス。
クロリスの口元からは花が溢れ出てきているが、ゼフュロスの手が触れると彼女はフローラという花の女神に変身するらしくその途中変化の状態で、左隣に描かれている花柄の衣服を纏っているのが、女神フローラの完全変化の状態らしい。
左側の3人は「三美神」の女神たち。左の女神が「愛欲」、中央が「純潔」、右が「愛」。
「愛欲」と「純潔」は対立しているが、「愛」が2人の仲を取り持っている。「愛欲」と「純潔」の相反する性質を、「愛」で統一している図なのだとか。
頭上のキューピッド(エロス)は目隠しをしていて、矢を射ろうとしているのはよりによって「純潔」の頭上wとか、左端のイケメンは神の使いマーキュリー(ヘルメス)で人間界と神の世界を取り持っているおかげで人間界にも春が来るとか、物語の背景を知るともっと絵が面白く見られます。
★【ボッティチェリ「春(プリマベーラ)」 La Primavera 解説】参照
=バベルの塔=(の、ほんの一部分)
*ピーテル・ブリューゲル(父) / 所蔵:ウィーン美術史美術館(オーストリア)

乗船員Kはブリューゲルのこのバベルの塔(バビロンの塔)の絵をえらくお気に召してミニチュサイズの額をお買い上げしたほど。
そのブリューゲルの「バベルの塔」展は2017年(平成29年)に東京都美術館で開催しておりましたね。
当然こちらは原画でしょうが、こんなに間近であのモブシーンをじっくり見られたかどうか。
細々と描かれるモブシーン(作業員とか1400人位いるらしい)や、塔建設の工事現場をじっくりじっくり眺められるのも陶版の絵のおかげw

=ジョヴァンナ・トルナブオーニの肖像=
*ドメニコ・ギルランダイオ / 所蔵:ティッセン=ボルネミッサ美術館(マドリード、スペイン)
絵の背景に描かれた紙片には、イタリア語で『1488』と彼女の亡くなった年が記載されているとか。詳細はこちらを参照→★【Nostalgia dell'Italia:ギルランダイオ~ジョバンナ・デリ・アルビッツィの肖像画~】(* イタリアンカフェ&ショップ「ノスタルジア・デッリタリア」さんのブログより)
実物はもっと色鮮やかで美しい…写真がオレンジ色に染まってしまっていて泣ける(´д⊂)。

しかし、反射するライトの明かりでこうやって遊べるのも陶版の絵のおかげw
=洗礼者聖ヨハネ=
*レオナルド・ダ・ヴィンチ / 所蔵:ルーヴル美術館(パリ、フランス)

=バッカス=(の一部分)
*カラヴァッジョ / 所蔵:ウフィツィ美術館(フィレンツェ、イタリア)
バッカスはローマ神話の名前で、ギリシャ神話ではディオニュソスという。
ディオニュソスといえばポンペイ遺跡の秘儀の間。印象はだいぶ違う感じね。
なんだったっけ?と思ったらまた上にスクロールしてみてくださいw

=最後の晩餐<*修復前と修復後がある>=
*レオナルド・ダ・ヴィンチ / 所蔵:サンタ・マリーア・デッレ・グラーツィエ修道院の食堂(ミラノ、イタリア)

しかし、日本にいながらダ・ビンチさんの「最後の晩餐」が見られようとは…。しかもビフォアー⇄アフターでw(歪んでみえるのは私のカメラのせい…)
映画『ダ・ビンチ・コード』を見たせいもありますが、こうしてまじまじ見るとキリストの左隣の使徒ヨハネ(映画ではこれが「マグダラのマリア」と解釈されている)はやっぱり女性的に見えるわー。二人の間の意図的に直線的なV字の谷間も、なんとなく不自然で何かのメッセージに見えるわー。
もし自分が描いていたとして、引いて見てやっぱりあの直線的なV字が気になって人物配置を変えたくなるもの。
いかん、じっくり見すぎて腹が減った。目が回る〜。(o_o)
そうだ、甘いものを食べよう!

館内にはおしゃれなカフェもあって、絵を見て歩き回ってクタクタになったらお茶したり栄養補給できます。
はい、チャージ完了!
カフェの窓の外には池やお花の咲いているきれいなお庭なんかあったりして、天気もいいしちょっと外に出て気分転換しましょう。


ん!? (」゚ロ゚)」(」゚ロ゚)」…オオオオオッッッ!?

こんなところにもまさかのモネの池!?
おお、心なしか影もモネの描く淡い色のよう…

青空の下で眺めるモネの睡蓮…、こんな贅沢な絵画の展示があるでしょうか。
=モネの大睡蓮=
*クロード・モネ / 所蔵:オランジュリー美術館(パリ、フランス)


絵に注ぐ影もまるで絵画の一部。
最後まで感嘆しっぱなしの大塚国際美術館でした。
*長い長いスクロールお疲れ様でした。
大塚国際美術館の壮大さをお伝えできておりましたら幸いです。
(我々も一度で全部観るのは無理でしたが、それもまたの楽しみになりましょうw)
改めて、この素晴らしい美術館に敬意と感謝を!(*´∀`人 ♪
まだまだ続くGW(5年前の)忘備録。
今年は大した遠出もしてないけれど、こうしていると思い出が鮮やかに蘇り、なんだかつい最近行ってきたかのような錯覚が(^ ^;。

走って、走って、

こんな大きい橋を渡って、休憩もそこそこに車で食事。

その土地の名物をと、美味しい玉ねぎピザ&蛸めしおにぎり♪
さて、どこの名物でしょう?
淡路島?
そこのあなた、はい正解!

などとしているうちにまた大きな橋を渡る。

この日はとても暑かった〜。
展望台の前にあった売店で土地名物の鳴門金時アイスを食す。

めっちゃうまい!この皮もうまいw
展望台(有料)までは結構な距離(高低差)があるだけあって、眺めも素晴らしい。

おお〜、海が青いよ!
あの橋を渡ってきたんだなぁ。
大きな渦潮は時間的に見られなかったけれど、この場所の潮の流れがすごいのは分かる。
こんな所に橋を架けるのは、相当大変だったと推測。
近代の橋にはあまり興味がなく石橋にばかり萌える緑の船だが、やはり難工事が想像されるこんな橋には敬意を表する気持ちになる。
明石海峡大橋と大鳴門橋に、難工事の作業にあたった全ての人々に
敬礼 (`・ω・´)>!
あなた方の仕事のおかげで、我々はお気楽に海を渡ってGWを満喫することができているのです。
=明石海峡大橋=(あかしかいきょうおおはし)
兵庫県神戸市垂水区東舞子町と淡路市岩屋とを結ぶ明石海峡を横断して架けられた吊り橋。1998年(平成10年4月5日)開通。工期10年、建設費用約5000億円。これにより「神戸ー鳴門ルート」(*神戸西ICー鳴門IC間89.4km、走行時間約1:35、高速料金:一般/5,610円、ETC/平日3,280円、休日2,620円)が全線開通した。
全長:3,911m
中央支間:1,991m →(*主塔間(塔と塔の距離)の長さ1,991mは世界最長!)
主塔の高さ:298.3m
国内では東京スカイツリー(634.0m)、東京タワー(332.6m)、あべのハルカス(300.0m)に次ぐ高さの構造物。
=大鳴門橋=(おおなるときょう)
兵庫県の南あわじ市福良丙 (淡路島門崎)と徳島県の鳴門市鳴門町土佐泊浦(大毛島孫崎)間の鳴門海峡の最狭部を結ぶ吊り橋。1985年(昭和60年6月8日)開通。
全長:1,629m
中央径間:876m
幅:25m
主塔の高さ:144.3m
鳴門海峡の渦潮に影響を及ぼさないようにするため、多柱基礎工法とよばれる特殊な工法が採用されている。
*神戸淡路鳴門自動車道…景勝・舞子の浜から明石海峡を渡り、 淡路島を南下し、奇勝・うず潮で名高い鳴門海峡を渡る、全長89.0kmのルート。
by Wiki他より

当時のお天気のおかげだけれど、空の青と海の碧と橋の色がとても調和したお気に入りの一枚となりました。
海はいい。
その海を船で行くのがいい。
さあ、歌いながら行きましょうか♪

島の港に到着すると黒い焼杉板のオシャレな小屋がお出迎え。
これが島のセンターハウスで、ここで乗船時間や島の案内など確認。我々はここからキャンプ道具をどうやって運んだんだっけ?ここに最初から猫車が置いてあったのか、一旦キャンプ場まで歩いて猫車を借りに行ったんだっけか?ちょっとうろ覚え(汗



港からキャンプ場までの間には民家がありちょっと変わったオブジェがあったりして、これも↑”犬島「家プロジェクト」”の作品の一つだったと思う。
犬島には家そのものが現代アートの作品となっていたり、住んでいるであろう家の一部にもこんな感じで「これもアート?」「それもアート!」な展示がそこかしこにあったりで、地図を片手に島を巡るのも楽しかった〜。
「こんなところにアート!」犬島だけにw

「これもアート?」

これは…アートじゃなくてちゃんと祀られている恵比寿さまだったような…。
「これは…もはやアート!」異議なしっ(ノ゚ω゚)ノ!

「これも多分アートw」それは…どうだろうねw


キャンプ場から見えたこれもオブジェの一つ。(*タイムマシン1参照〜♪)
ここに座って飲むコーヒーは、なんだか一味違いまするぞw

というか、”海を眺めながらコーヒーを飲む”というロケーションがもう最高なのだな。
ただのインスタントコーヒーも、ここで飲めばスペシャリティ♪

波止場でさえどうだ、龍神を模したアートそのものではないか。
そんなアートにあふれた島をまた船で去る。

「ありがとう〜!犬島!」ヽ(≧∀≦)ノヾ(・∀・)ノ
♪〜♪「また来てね〜!」♪〜♪

アートに溢れた楽隊のお見送りも、犬島の素敵な思い出の一つ。
記録を兼ね、
そう、この5年前のGWは車にキャンプ道具を積んで四国をちょろっと巡ってその復路にこの犬島でキャンプとなったのだけど、なぜこの不便な島にしたのか。(確かこの時は、四国側からは渡るには色々めんどくさい状況でわざわざ瀬戸大橋を渡って岡山市側の宝伝港から乗り込んだのだ…)
それは、この島にこんな物が残っていたからです!!

なんだあれはーーー!?(喜)

★犬島精錬所跡
1909年(明治42年)に地元資産によって建設された犬島製錬所は、煙害対策や原料輸送の利便性から、島に建設されたものの、銅価格の大暴落によってわずか10年で操業を終えました。
現在の犬島には銅の製錬過程で発生する鉱滓からなるカラミ煉瓦造りの工場跡や煙突など、かつての大規模な製錬所を彷彿とさせる多くの遺構が良好な形で残されており、日本の産業発展の過程に置いて革新的な役割を果たした遺構として、平成19年度(2007年)経済産業省による「近代化産業遺産群 33」のうちの「story30」に認定されました。

いい!こーゆーの大好きヾ(・∀・)ノ
軍艦島といい、この犬島精錬所跡といい、近代化産業の遺構ってなぜか萌えるわ〜。
大事に(意図してたかどうかはともかくw)残してくれて地元の人、ありがとう!
そして、この遺構はただの廃墟なだけでなく、その歴史を含めて画期的な美術館に生まれ変わっております。
★【犬島精錬所美術館】「ベネッセアートサイト直島」より
犬島精錬所美術館は、犬島に残る銅製錬所の遺構を保存・再生した美術館です。「在るものを活かし、無いものを創る」というコンセプトのもと作られた美術館は既存の煙突やカラミ煉瓦、太陽や地熱などの自然エネルギーを利用した環境に負荷を与えない三分一博志の建築と、日本の近代化に警鐘をならした三島由紀夫をモチーフにした柳幸典の作品、また植物の力を利用した高度な水質浄化システムを導入しています。「遺産、建築、アート、環境」による循環型社会を意識したプロジェクトといえます。
○開館時間: 10:00 〜 16:30(最終入館16:00)
○チケットセンター: 10:00 〜 17:00
○電話番号: 086-947-1112
○鑑賞料金: 2,060円
(知らずに行ったら結構なお値段でびっくりですよ…(^-^;)
※犬島「家プロジェクト」(*これも面白かった!)、犬島くらしの植物園と共通、※15歳以下無料
○休館日: 火曜日(3/1〜11/30)
○火曜日から木曜日(12/1〜2月末日)
※ただし祝日の場合は開館、翌日休館
※ただし月曜日が祝日の場合は、火曜日開館、翌水曜日休館
(ベネッセサイトの開館カレンダーを要参照)
※10名以上(団体)鑑賞の予約はベネッセサイトの団体予約フォームから
実はこの時は、ベネッセの”瀬戸内の島々をアートの島に!”と言うプロジェクトがとっても面白そうで直島や豊島、小豆島辺りでアート巡りをしながら宿泊したかったのだけど、GWで小さな島の宿はどこも撃沈ーno!Σ(´Д`lll)
しかし探しに探して、この犬島のキャンプ場を見つけたのでした。私偉い♪
ちょっとめんどくさいのが幸いしてか予約でき、しかもワクワクするような近代化産業遺構があると言う嬉しいおまけつき。なんでですかね、朽ちた煉瓦作りの建物に萌えるってのはw
近づいてみると遺構なのにいい感じなオシャレスポットになっており、中にはオシャレなカフェスペースもありました。(入場料もメニューも高かったけどw地元へ還元されているのならokと思う!)
この時はお弁当をチョイス。地元のおかん達が作った地域飯の蒸し寿司だったような。
おいしかったです、ごちそうさまでした。

そしてなんとここはトイレもオサレなのですよ!(そしてすごく開放的w落ち着かないw)


外にはもっと大きな今にも壊れそうな煙突があったりしてたけど、次に行った時はもしかして崩れてしまったり倒れたりしてるかもしれないんだなぁ。

カラミ煉瓦の燻んだ赤と瀬戸内の明るい海の色のコントラスト。
天候にも恵まれ、いつまでも眺めていたい、穏やかでとってもとっても美しい風景だったなぁ。

多い人では4/27(土)から5/6(月:振替休日)までの10連休と超大型連休だった今年(2019)のGW。
平成晩年から令和元年と言う今までにないお祝いムードでどこも賑わってたようで、よきかな🎌よきかな🎌。
しかし、私個人はGWを外した平成の終わりに立て続けにキャンプしたくらいで、ほとんど外出せず友人家族とゴハンしたり映画を観に行ったくらいであれよあれよとGWも最終日に。なぜだw
でも、新天皇のご即位と元号が新たに変わったお祝いをそこかしこで寿ぐ様子や、久々の長い休日に嬉しそうな顔でお出かけしている老若男女の姿をTVで眺めているだけで、ほんわか幸せな気分を味わえたのでこれはこれで楽しかったな㊗️。
そういえば、5年前のGW、我が家は何してたっけ?
ちょっとタイムマシンで覗いてみよう。

みゅーーーーーーん♪

やっぱりキャンプしてたわw

このキャンプ場は瀬戸内の小さな小さな島にあり、小型フェリー(片道大人:300円)でしか渡れないため車やバイクの乗り入れができない。船には自分たちでキャンプ道具を運ばなければならない。地味に重労働w
そして港からは持ち込んだ道具を借りた猫車で、えっちらおっちらとキャンプ場まで運ばないといけないので中々に不便。
不便だけど、その景色は本当に素晴らしかった。



早朝、コーヒー片手にすぐ近くの海を眺めに行く。
ああ、いいキャンプ場だったなぁ。