航海記 ♪歌いながら行くがいい♪
私の船は、時々歌いながら旅に出る。
お台場とガンダムと特務艦「宗谷」 4 限界の中での最善

…終わった。


夏休みが終わったよ。
今年の夏休みはそこそこいろいろあって楽しかったなぁ。




ナイトガンダム





夜間飛行




とっぷり日が暮れて、夜になってライトアップしたガンダムもオツな感じでよろしかったです。
たった2日なのに8月がもう遠い夏の日のようだ…。
思い出はやっぱりセピア色?




セピアガンダム




このカメラはもうガタガタで時々ピントも合わなかったりするんですが、ちょっとくらいは明るさを調節できるのでいろいろ試して撮ってみました。




夜ガンダム




バックの夜景の感じと前のガンダム&群衆のバランスは上↑の方がいいと思っている。
でもナイトバージョンのあの浮かれたキラキラ感☆は下↓の方が雰囲気出てるかなぁ。
ああでもいい夢見させてもらいました。





夜ガンダム2





緑の船はものすごーく「国立メディアセンター」の設立を楽しみにしてました。
メディアのくせにTVではなんでも叩けな印象に持っていって潰しにかかってましたけども。
緑の船が子供の頃、「マンガばっかり読んでいると、TV(アニメ)ばっかり見ているとバカになる」とよく言われていたものですが、まさか生きているうちに総理大臣が進んでそのマンガやアニメなどのコンテンツを展示する場を作りたいと提案する日が来ようとは思いもしなかったので、ほんと楽しみにしてました。
で、メディアセンターを作るんであれば、8月までしか展示されないというこのガンダムを是非そのメディアセンターの庭に移設してほしい!…とか個人的な妄想ですが建物のデザインやら施設のイメージやらマンガの展示の方法やらあーでもないこーでもないとひっそり練って楽しんでおりました。






…民主党にはこんな夢のある提案は望めないんでしょう。(はぁ~~~溜息大)

今まででこれほど選挙結果にがっかりしたことはなかです。
自民党の政治に飽きたという気分だった人もかなりいたんだと思いますが、目先の小金に釣られて国防とか日本という国の良さまで見失ってどーすんのよ!と。
日本のためにね、日本の社会を良くしていこうというならいいけれどさ、民主党の政策に私は日本という国への愛も誇りも感じられない。
社会システムをより良くして行くことに反対はしない。
けれど、まるで日本人はみんな貧乏でかわいそうみたいなイメージを膨らませるそのやり方が嫌いだ。
そりゃお金はみんなほしいだろうさ。
もらえるならうれしいさ。
でもさ、なんでも某C国やK国の言いなりになって地面に額をこすりつけるようなへたれ外交をするなら許しませんよ。

日本という国に対して誇りを持たない政党に日本を任すとかありえん!(怒)


家人に外国人参政権についてTVで何か言ってたことはある?と聞くと「そんなの聞いたこともないけど…」とぽかーんとしてた。
「外国人」に参政権を与えるとかことの重大さを伝えることも検証する姿勢も全く見せないマスコミ(特にTV)にはジャーナリズムなんてものは存在しないと思ってよかですか?








ああ、船の科学館へ行って「宗谷」を眺めたい。

南極観測船「宗谷」について詳しくは船の科学館資料ガイド3を参照していただきたい。
薄い冊子ながら中身は簡潔にしてぎっしりだ。

その冊子に、戦後ほんの10年で南極観測に挑んだ経緯が簡潔に書いてある。
以下その中から要約&抜粋。



 ………

戦後、1955年(昭和30年)9月に日本はブリュッセルで行われた第2回「南極会議」で南極観測への参加を表明します。
しかし各国(要は戦勝国)に

「日本にはまだ国際社会に復帰する資格などない!」

とまで野次られ反対されます。
敗戦国のくせに生意気だ!というわけです。(この時いた100人ほどの出席者は日本人以外すべて第2次世界大戦の戦勝国の白人)
しかしなじられながらも日本は食い下がって南極観測への道を得ます。
参加の合意を得ましたが「敗戦でボロボロの国にどこまでできるか見てやろうじゃないか」(冷笑)という雰囲気だったのではないかと思います。
割り当てられた観測地区はプリンス・ハラルド海岸という人跡未踏の上接岸不能と呼ばれる南極空白地帯です。ここがのちに昭和基地となる地です。

さて、南極観測には巨額の費用がかかります。
この計画を進めるに当たって、当時日本学術会議の茅誠二会長が運輸省(現:国土交通省)の海上保安庁を訪問し参加協力を要請した時、長官の島居はこの困難で危険な挑戦に驚きながらも協力を全面的に受け入れます。
また、文部省(現:文部科学省)を訪問した時、当時の大臣、村松謙三氏は

「戦争に敗れ、意気消沈している時、こうしたことをやらなければだめだ!」

と積極的に賛同協力することを約束します。

しかし当時の日本には南極観測船を新造する費用も時間もありませんでした。
そこで候補に挙がったのが「宗谷」を砕氷船として改造するという案です。
改造可能だということが前提ではありますが、数ある船の中で「宗谷」が選ばれたのはその船の強運さ故でもありました。
戦前にソ連の商船用に造られてから結局日本に留まり、戦争中も徴用され仲間の船が次々沈んでいく中なぜか弾に当たらない、当たっても不発弾で助かったり、終戦後には引き上げ船として多くの人々を日本へ帰還させ、戦後は灯台を守る任務をこなし「北の守り神」とまで呼ばれていたのが「宗谷」だったのです。

その「宗谷」の改造を含め南極観測事業のために呼びかけた募金は、多くの人々が協力してお金を出し企業献金も含めその額は1億4,500万円に達します。
協力した人々の中には小中学生も多く、戦後みんながそれぞれにまだ貧しかったであろう時、日本を挙げた事業に少しでも協力したいという意思がその金額からひしひしと伝わります。

「宗谷」の改造もまた困難が山積みでした。
中古の船を少ない予算でしかも短い納期で南極まで往復する砕氷船に改造しなければなりません。
改造をまかされた海上保安庁船舶技術部の水品部長は「宗谷」の南極観測船としての性能に疑問を感じつつこう語っています。

「宗谷」の出し得る砕氷能力は1メートルが限界で、この砕氷能力で十分であるとの確たる根拠はない。
しかし、これは我が国の国力の限界として決定されたのであり、我々はこの能力で最善を尽くそうと思っている。


「宗谷」の改造工事が着工したのは日本が南極観測へと意思表明した翌年の1956年(昭和31年)3月12日。
改造工事引き渡し予定期限は10月10日。
工事期間7ヶ月!昼夜兼行の強硬作業が始まるのです。

その工事の最終段階には実際に船に乗る予定の乗船員を乗せて不具合箇所をまとめた修正箇所が提出されますが、その数は133件となってしまいます。
最終段階でこれほどの修正は無理ではないかと思われました。

しかし1週間後すべての修正箇所の工事が完了。
「宗谷」はすでに横浜の工場から東京に引き渡しされていましたが、あらゆる人々が「宗谷」の使命を理解し「宗谷」のために!と資材を毎日横浜から船で運んで作業に当たってくれたからでした。

「宗谷」にはなにかしら日本の人々の魂が込められているように思います。
船もまたその想いに応えてきたようにと思えるのです。

そうして1956年(昭和31年)10月17日、竹芝桟橋の船上にて盛大な竣工式が行われ、「宗谷」は日本の希望とともに南極観測船として新たな船出を飾ったのです。



………



「宗谷」は今もお台場船の科学館前にひっそりと停泊しています。
どうか、この船を維持するための募金にご協力お願いしますm( _ _ )m



南極観測船ものがたり―白瀬探検隊から現在まで南極観測船ものがたり―白瀬探検隊から現在まで
(2005/07)
小島 敏男

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