忙しい毎日にささくれた心も、すぅーーーっと癒されていく穏やかな時間。

東から昇った太陽が西の果てに静かに沈んでいくのをただ眺めているだけなのに、どうしてこう我々は魅入ってしまうのか。

もう何年も何百年も何億年も数え切れないくらい見てきた風景だからなのか夕日を見るとなんとも言えないノスタルジックな気分になる。
朝日には「懐かしい」という感覚は生まれないのに、なぜか夕日は「懐かしい」。
懐かしいと思うからリラックスするのか、リラックスするから懐かしいと思えるのか。


夕日には子供の頃の自分を思い出させてくれる不思議な力がある。
だから何かしら懐かしいと思うのかもしれない。
さて、今回はあまり知られていない浜からの夕日をご紹介しましょう。

ここは陸から降りるルートがないので(無理やり降りれなくはないがちょと危険…)下で遊ぼうと思うと船で近付くしかない所です。
*ただ、海の水はご覧のとおりものっそいキレイなんですが浜には打ち上げられ回収しようのない某国からの漂泊物が大量に…残念。

海風の強い場所だからか軒並みこのあたりの植物は背が低め。
かわゆいです。



実ものとかこの白い小花なんかブーケなんかで使えそうな感じです。
足元の草花に楽しみ、ふと空を見上げると夕日に照らされて金色に輝く飛行機雲。

9月の連休をシルバーウィークと呼ぶのを結構つい最近になって知りました。
でもなんかものすごくしっくりきますね。
誰が言い出したんだろう?
せっかくの長期休暇、有意義に過ごしたいものです。
え?どこにも出かけない?
ではそんな方にバーチャルな小旅行を楽しんでいただきましょう。
では、出発!


♪海は広いな白波の~ …あれ?なんか違うw


気持ちよく海の上を走りゆく。
波の上を滑るように船がゆく。

さあ、港に到着。
これからどうする?
ゆっくり浜辺を散策する?
ではお勧めの場所へご案内しましょう。

夕暮れ時。
聞こえるのは浜に打ち寄せる波の音。
一日の終わりに心穏やかなひと時が訪れますように。
小泉八雲ことラフカディオ・ハーンは英語教師として赴任した松江で住まいとした武家屋敷での生活を大変気に入っていた。
ハーンの読み方を誤って当時松江の人々はヘルン先生と呼んでいたが、当のハーンもこの響きが気に入ってそのままの愛称で短いながらも思い出深い日々を送っていた…という記事をだいぶ前に書いた。
特にその屋敷をぐるりと囲んだ、決して広いとは言えない、しかしこじんまりと落ち着いた庭の風情に心を奪われたそうだが、日本人の緑の船もその庭を見たときに初めてなのに懐かしいようなほっとするようななんともいえないまったりした気分になった。
それからずっとその庭をいいなぁ、いいなぁと思っていたが、灯台元暗し。
久々に実家に帰ってみたら実家の庭がなんとなく面白い風情だってことに今更気がついた。




多分この庭はなんの手入れもしていないと思う。
ほとんど自然に任せているだけの庭。
上なんて2本の木が絡み合っているのではなく、1本の木が虚を開けとうとう向こうが見えるような在様だ。
でもなんだか不思議と落ち着いた雰囲気がある。(ほんと今まで気にしたことがなかった…)
もちろんもう少し手入れをした方がいいんだろうけども。
雑誌に載っているようなオサレなナチュラルガーデンとは程遠いが、これもある意味ナチュラルガーデン?
んんー、なんかやっぱ違うかなぁ。
でも私はこっちの方が好きかも。
…終わった。
夏休みが終わったよ。
今年の夏休みはそこそこいろいろあって楽しかったなぁ。


とっぷり日が暮れて、夜になってライトアップしたガンダムもオツな感じでよろしかったです。
たった2日なのに8月がもう遠い夏の日のようだ…。
思い出はやっぱりセピア色?

このカメラはもうガタガタで時々ピントも合わなかったりするんですが、ちょっとくらいは明るさを調節できるのでいろいろ試して撮ってみました。

バックの夜景の感じと前のガンダム&群衆のバランスは上↑の方がいいと思っている。
でもナイトバージョンのあの浮かれたキラキラ感☆は下↓の方が雰囲気出てるかなぁ。
ああでもいい夢見させてもらいました。

緑の船はものすごーく「国立メディアセンター」の設立を楽しみにしてました。
メディアのくせにTVではなんでも叩けな印象に持っていって潰しにかかってましたけども。
緑の船が子供の頃、「マンガばっかり読んでいると、TV(アニメ)ばっかり見ているとバカになる」とよく言われていたものですが、まさか生きているうちに総理大臣が進んでそのマンガやアニメなどのコンテンツを展示する場を作りたいと提案する日が来ようとは思いもしなかったので、ほんと楽しみにしてました。
で、メディアセンターを作るんであれば、8月までしか展示されないというこのガンダムを是非そのメディアセンターの庭に移設してほしい!…とか個人的な妄想ですが建物のデザインやら施設のイメージやらマンガの展示の方法やらあーでもないこーでもないとひっそり練って楽しんでおりました。
…民主党にはこんな夢のある提案は望めないんでしょう。(はぁ~~~溜息大)
今まででこれほど選挙結果にがっかりしたことはなかです。
自民党の政治に飽きたという気分だった人もかなりいたんだと思いますが、目先の小金に釣られて国防とか日本という国の良さまで見失ってどーすんのよ!と。
日本のためにね、日本の社会を良くしていこうというならいいけれどさ、民主党の政策に私は日本という国への愛も誇りも感じられない。
社会システムをより良くして行くことに反対はしない。
けれど、まるで日本人はみんな貧乏でかわいそうみたいなイメージを膨らませるそのやり方が嫌いだ。
そりゃお金はみんなほしいだろうさ。
もらえるならうれしいさ。
でもさ、なんでも某C国やK国の言いなりになって地面に額をこすりつけるようなへたれ外交をするなら許しませんよ。
日本という国に対して誇りを持たない政党に日本を任すとかありえん!(怒)
家人に外国人参政権についてTVで何か言ってたことはある?と聞くと「そんなの聞いたこともないけど…」とぽかーんとしてた。
「外国人」に参政権を与えるとかことの重大さを伝えることも検証する姿勢も全く見せないマスコミ(特にTV)にはジャーナリズムなんてものは存在しないと思ってよかですか?
ああ、船の科学館へ行って「宗谷」を眺めたい。
南極観測船「宗谷」について詳しくは船の科学館資料ガイド3を参照していただきたい。
薄い冊子ながら中身は簡潔にしてぎっしりだ。
その冊子に、戦後ほんの10年で南極観測に挑んだ経緯が簡潔に書いてある。
以下その中から要約&抜粋。
………
戦後、1955年(昭和30年)9月に日本はブリュッセルで行われた第2回「南極会議」で南極観測への参加を表明します。
しかし各国(要は戦勝国)に
「日本にはまだ国際社会に復帰する資格などない!」
とまで野次られ反対されます。
敗戦国のくせに生意気だ!というわけです。(この時いた100人ほどの出席者は日本人以外すべて第2次世界大戦の戦勝国の白人)
しかしなじられながらも日本は食い下がって南極観測への道を得ます。
参加の合意を得ましたが「敗戦でボロボロの国にどこまでできるか見てやろうじゃないか」(冷笑)という雰囲気だったのではないかと思います。
割り当てられた観測地区はプリンス・ハラルド海岸という人跡未踏の上接岸不能と呼ばれる南極空白地帯です。ここがのちに昭和基地となる地です。
さて、南極観測には巨額の費用がかかります。
この計画を進めるに当たって、当時日本学術会議の茅誠二会長が運輸省(現:国土交通省)の海上保安庁を訪問し参加協力を要請した時、長官の島居はこの困難で危険な挑戦に驚きながらも協力を全面的に受け入れます。
また、文部省(現:文部科学省)を訪問した時、当時の大臣、村松謙三氏は
「戦争に敗れ、意気消沈している時、こうしたことをやらなければだめだ!」
と積極的に賛同協力することを約束します。
しかし当時の日本には南極観測船を新造する費用も時間もありませんでした。
そこで候補に挙がったのが「宗谷」を砕氷船として改造するという案です。
改造可能だということが前提ではありますが、数ある船の中で「宗谷」が選ばれたのはその船の強運さ故でもありました。
戦前にソ連の商船用に造られてから結局日本に留まり、戦争中も徴用され仲間の船が次々沈んでいく中なぜか弾に当たらない、当たっても不発弾で助かったり、終戦後には引き上げ船として多くの人々を日本へ帰還させ、戦後は灯台を守る任務をこなし「北の守り神」とまで呼ばれていたのが「宗谷」だったのです。
その「宗谷」の改造を含め南極観測事業のために呼びかけた募金は、多くの人々が協力してお金を出し企業献金も含めその額は1億4,500万円に達します。
協力した人々の中には小中学生も多く、戦後みんながそれぞれにまだ貧しかったであろう時、日本を挙げた事業に少しでも協力したいという意思がその金額からひしひしと伝わります。
「宗谷」の改造もまた困難が山積みでした。
中古の船を少ない予算でしかも短い納期で南極まで往復する砕氷船に改造しなければなりません。
改造をまかされた海上保安庁船舶技術部の水品部長は「宗谷」の南極観測船としての性能に疑問を感じつつこう語っています。
「宗谷」の出し得る砕氷能力は1メートルが限界で、この砕氷能力で十分であるとの確たる根拠はない。
しかし、これは我が国の国力の限界として決定されたのであり、我々はこの能力で最善を尽くそうと思っている。
「宗谷」の改造工事が着工したのは日本が南極観測へと意思表明した翌年の1956年(昭和31年)3月12日。
改造工事引き渡し予定期限は10月10日。
工事期間7ヶ月!昼夜兼行の強硬作業が始まるのです。
その工事の最終段階には実際に船に乗る予定の乗船員を乗せて不具合箇所をまとめた修正箇所が提出されますが、その数は133件となってしまいます。
最終段階でこれほどの修正は無理ではないかと思われました。
しかし1週間後すべての修正箇所の工事が完了。
「宗谷」はすでに横浜の工場から東京に引き渡しされていましたが、あらゆる人々が「宗谷」の使命を理解し「宗谷」のために!と資材を毎日横浜から船で運んで作業に当たってくれたからでした。
「宗谷」にはなにかしら日本の人々の魂が込められているように思います。
船もまたその想いに応えてきたようにと思えるのです。
そうして1956年(昭和31年)10月17日、竹芝桟橋の船上にて盛大な竣工式が行われ、「宗谷」は日本の希望とともに南極観測船として新たな船出を飾ったのです。
………
「宗谷」は今もお台場船の科学館前にひっそりと停泊しています。
どうか、この船を維持するための募金にご協力お願いしますm( _ _ )m
![]() | 南極観測船ものがたり―白瀬探検隊から現在まで (2005/07) 小島 敏男 *詳細を見る |