ちょうど橋の上から西の山に沈む夕日が見えていた。
川の水面には絶妙な色彩の空が映されていた。
神様というものに感謝したくなるようなひと時。

美しい風景、というものはやっぱり人間にとってとても重要だと思う。
自分達の里や町や国といったものに自然に愛着が湧くと思うし、自分の生まれ育った場所を素直に愛せると思うし、それに自分のルーツを大切にできるってものすごく幸せなことだとも思うから。


そして、その美しい風景は先人達が汗水たらしてコツコツと作り上げたものだと理解した時、自分たちは出来上がった完成品をただ享受するだけじゃなくて本当に感謝して先人に恥ずかしくないようにがんばろうと思えるんじゃないだろうか。
それは同じように何か土木工事を施工するというわけじゃなく、ほんとコンビニで買って食べたお菓子の袋やドリンクの空き缶をポイ捨てしない、ってそれだけのことでもいいと思うのだ。

感謝するなんていうと大げさかもしれない。
キレイな風景を見てほっこりできる、そんな感じを忘れないでいきたいよなぁと思う。
落ちる水量はかなりのものだった。
水のある風景ってスキだわ~。

潤いが通じる橋…その名前の通り、この橋はその上を渡るというよりはこの中を管として水を運ぶための用途が主だ。
ここを、この足元の下を6キロ離れた水源から引き込んだ水が轟々と流れていくのですよ。
すばらすぃ!



企業者 : 矢部手永総庄屋 布田保之助惟暉
起工 : 嘉永5年(1852年)12月
竣工 : 嘉永7年(1854年)7月
工事期間 : 1年8ヶ月
工事費 : 通潤橋 官銀319貫406匁6分
夫役 5,865人
附帯用水路 官銀375貫401匁2分
夫役 21,213人
(嘉永7年の米価は一石が91匁2分)
通潤橋の長さ : 75.8m
通潤橋の幅 : 6.3m
通潤橋の高さ : 20.2m
アーチの径 : 27.9m
石管の長さ : 126.9m
落差 : 1.68m
石垣面積 : 1,860平方メートル
通水量 : 15,000立方メートル (一昼夜)
開田面積 : 約100町歩
通潤橋由来 :
架橋当初は「吹上台眼鑑橋」とと称していたが、肥後藩時代に肥後藩奉行の真野源之助により、易経の程氏伝にある
「沢在山下其気上通、潤及草木百物」
(山下に沢ありその気上を通じ、草木百物に潤いの及ぶ)?
からとって名づけられた。
看板より

この大雑把な俯瞰図がまたなんともw(しかし真面目にもっと大きくて立派な看板にすべきと思うよ!)
実はこの6キロ離れたところから引き込んだという水源に円形分水というのがあってそれも見たかったのだけど、時間的に無理で残念( ノД`)!
でも次回の石橋探訪の楽しみに取っておくからいいのだ♪
石橋は…文字通り石で出来た橋だ。
だが、この直線と曲線の美しさはどうよ!

通潤橋は灌漑用水を送るために作られた水道橋です。
建設者は矢部惣庄屋布田保之助、工事を担当したのは卯助、宇市、丈八ら「肥後の石工」と呼ばれる名工たちです。
工事は嘉永5年(1852年)12月から1年8ヶ月を要しました。
通潤橋は何のために作られたのでしょうか。
周りを深い谷に囲まれた白糸台地は水に乏しく、田んぼの水はもちろん飲み水も足りないような状態でした。
このような人々の苦しむ姿を見かねた布田保之助は6Km離れた笹原川から水を引き、連通管の原理を利用した通潤橋を完成させました。
この工事の完成により白糸台地に100ヘクタールの水田が開けました。
橋の長さ 75.6m
橋の幅 6.3m
橋の高さ 20.2m
石管の長さ 126.9m
昭和35年(1960年)2月 国の重要文化財に指定されました。
看板より

はあ~見れば見るほど惚れ惚れする美しさじゃありませんの!
人々の苦境を救うために作ったというこの石橋はただその用途を満たすだけでなく、きっとこの橋の完成を目の当たりにした村人たちをもその美しさで涙させたのではないだろうか。
その足元には約20mの高さから轟々と真っ白になった水飛沫がジェットコースターのように流れ落ちている。
水不足に悩まされていた人々にとってこの水音はどれほどの感動を与えたことだろう。
私だったら、多分泣く。
感激のあまり号泣するかもしれん。

水飛沫に打たれうっすらと感涙しつつわきの急な坂道を登りきると、通潤橋の上に出る。

「たかっ!!」
橋の高さは約20mというが、手すりのない20mはものすごく高く感じる。
はしゃいで落ちないようにくれぐれも足元にご注意を。
え?はしゃがない?
うんまあツレはアンニュイに空を見上げたりしてたけどね…。
陽もだいぶ傾いてきた夕方5時ごろやっと着いたぜ!>通潤橋!
駐車場も大きいし土産物屋もあるけどすでに店じまいの準備中。

観光地として名を馳せている石橋だけあって雰囲気が違うねー!
この頃はまだ水田の稲穂も青みがかっている。
もう今はすっかり稲刈りも済んだ頃かな。

石橋前に石碑があってこの橋の由来などが簡単に説明されている。
この石橋を建設したのは布田保之助というお役人らしい。
=布田保之助=
享和元年(1801年)11月6日役宅で出生。
文化13年(1816年)元服(15歳)惟暉と名乗り、叔父太郎右衛門と郡代役所に挨拶、帰路万台○○で、父市平次自害の真相を聞き矢部の開発を決意す。
文政6年(1823年)惣庄屋代役(21歳)、天保4年(1833年)惣庄屋(32歳)、文久元年(1861年)隠居(61歳)までの38年間道路220路、眼鏡橋14、溜池堤7、石橋35、水路30粁矢部75ヶ村有の恩恵を蒙らざる村なし。
安政元年(1854年)、通潤橋を完成(53歳)、明治6年(1873年)この功績天聴に達し、銀杯一組、絹一匹賜る。(72歳)
明治7年(1874年)4月3日73歳で死去。
熊本万日山に葬らる。
碑文より
ううーん、土木工事のスペシャリストだったのね…ステキ!>保之助
ああ、存命中に会いたかったわ~。
この碑文だけだとよくは分からないけどどうも父親がなにか政治的な責任をとって自害した?のかな。
そのことを成人して知り、自分の生まれた土地を豊かにしたいと灌漑用水の開発を心に誓った15歳ですよ…。
オトナってのはこーゆーヒトのことを指すのだな。
ちなみに現在平成20年(2008年)、207年前に保之助が生まれた享和元年(1801年)は江戸時代後期、百姓・町人に対する名字・帯刀の許可が禁止された年だそうな。
え?じゃそれまでは場合によっちゃ農民町人でも名字も帯刀も許されていたってことなのかそうなのか!?
15歳で元服(成人)した文化13年(1816年)頃は、日本にロシアやイギリスなどの外国船がバンバンやってきては日本の国土資源を虎視眈々と狙っていた時代。
ちなみにこの頃の農民の衣服はけっこう贅沢になってきて「倹約年限」が伸びたほどらすぃ。
まあ、それくらい豊かだったということ?
文政6年(1823年)の惣庄屋代役となった年は長崎にオランダ人シーボルトがやってきている。
鎖国中と言われているが日本は押し寄せる外国勢力に対して近隣諸国の情報収集している頃。
惣庄屋(32歳)になった天保4年(1833年)は歴史の授業でも習う天保の飢饉(*天保年間1830~1832)と呼ばれる全国的な飢饉があったがその中でも特に酷い飢饉があった年だったといわれている。
天候不順による不作が続く
↓
米価が高騰
↓
庶民困窮、農民離散、行き倒れ、餓死者などがいたるところで起こる
↓
幕府は数万石の穀物を給付し、救小屋を設けて救済に努める
↓
が、成果はあがらず商人が穀物を買い占めに走って飢饉はますます大きくなる
↓
江戸・大坂町民の打ち壊しなど一揆が全国的に広がる
こんな感じ。
保之助が53歳でこのすばらしい石造建造物である通潤橋を完成させた年の日本は、前年に嘉永6年(1853年)にアメリカの使節ペリーが黒船にて浦賀へ来航、徳川家定が第13代将軍となり、その翌年である安政元年(1854年)にペリー再来、日本はアメリカ・イギリス・ロシアという当時のジャイアン国家とそれぞれ日米・日英・日露和親条約を結んでいる。
通潤橋は、まさに日本がこれから多勢に無勢の外国勢力といかに飲み込まれずに付き合って行くか試行錯誤していた正念場時代の建造物でもあるのだ。(まあ、保之助は国際情勢よりも目の前の土木工事に専念していたのだろうけども)
ちょうど篤姫(島津斉彬の養女)が江戸薩摩藩邸に入った頃で、久々にヒットした大河ドラマをご覧になった方は「ああ、その時代か~!」とすんなりタイムスリップできるんではないでしょうか。
数々の土木建設工事を完成させ「あーやれやれ」と隠居した61歳の文久元年(1861年)は「明治まであと7年」のまさに日本の政治体制が近代に突き進むまで紆余曲折を余儀なくされた頃。
隠居(定年)から明治7年(1874年)4月3日73歳で死去するまでの13年間は
1868年 明治元年 鳥羽伏見の戦、五箇条の御誓文、戊辰戦争
1869年 明治 2年 版籍奉還、官制改革
1870年 明治 3年 平民に名字が許される
1871年 明治 4年 戸籍法改正、廃藩置県、鹿児島県設置
1872年 明治 5年 東京・横浜間に鉄道開通、徴兵制度公布、天皇鹿児島臨幸、士族の知行制廃止
1873年 明治 6年 征韓論、西郷ら参議を辞任、鹿児島県に大隈国を併合
1874年 明治 7年 佐賀の乱、台湾征討に鹿児島徴募兵多数出兵、私学校設立
などなど布田保之助が生まれ育った江戸時代後期とは想像もしなかったであろう怒涛の時代に突入していたのである。
この美しい水田風景と当時の日本の不安定な対外情勢とがちょっと結びつかないなぁ。
大窪橋の寂れた雰囲気にしみじみしつつ国道218号線沿いをゆるゆる走っていく。

途中、「○○橋→」の看板がいくつかあったような気がしたが、ここは今日最大の目標である通潤橋とお宿(高千穂)までの距離を考慮してあえてスルー方針で。
でもこの「霊台橋」って知らないんだけど、看板が他のよりもずいぶん大きいんだよなぁ。
よっぽど有名なのかもしれない、と立ち寄ってみることにした。

峠をやや下ったところ、緑川ダムのすぐ下流側に登場したそれは…

…でっか!!
なにあの大窪橋とのスケール(と待遇)の違いはっ。
=重要文化財 霊台橋=
この地に橋が架けられたのは文政2年(1819年)のことで、住民の懇願により時の惣庄屋(そうじょうや)三隈丈八等が中心となって架橋を嘆願したものですが、その後、度重なる洪水によって架けかえが繰り返されたため、弘化2年、篠原善兵衛(ささわら ぜんべえ、と読むらしい)の惣庄屋就任により石造「目鑑橋」の架橋が計画されるにいたりました。
工事は翌年12月から本格的にきまり、弘化4年(1847年)2月に完成して渡初が行われました。
施工は大工棟梁の万助・伴七をはじめとする地元の大工たちや、石工棟梁として種山村の卯助(通潤橋の橋本勘五郎の兄)ほか近在の石工たちによって行われました。(*卯助、宇市、丈八は種山石工の三兄弟)
(彼らやその一族は後に明治政府に仕え、東京で二重橋をはじめとする多くの架橋に携わっています。)
橋は建設以来この地方の幹線道路として長く風雪に耐え使用されてきましたが、昭和41年(1966年)上流側に鉄橋が架けられて国道としての役割を終わり、以後は砥用町の所有となって保存されています。
霊台橋は九州を中心として数多く存在する石造りアーチ橋のうち、単アーチとしては、8年後に造られた通潤橋と並んで日本最大のもので、建設のいきさつも明らかであり、当時の民衆の力と技術が結集されて築き上げられたものであり、江戸時代の日本の石橋の代表的存在となっています。
石橋の説明文より

…すげー、すげー、すげーーーーーーっ!石工棟梁はともかく、こんなでっかい石橋建設に大工棟梁って昔大工はどんだけ器量が広かったのかと驚嘆。
もちろん現在の姿はかなり修理修復されているからこそのこの雄姿なんだけど、重機のない時代の石橋建設って想像もできないよ。
さらに驚きなのは、この橋を架けるのに1年と経たずに完成させてしまったということだ。
7~10ヶ月とかなんとか…。
できるの!?
人間だけの力だけでできるの!?

全橋長 90m、アーチスパン28m、橋幅員5.5m、高さ16m。
径間の長さは日本一!
鋼製逆ラ ンガー橋の国道 218 号線と平行して架かっている。 (車で渡った橋が逆ランガー橋というのは今知った。へー、へー、へー)


実際、保存のため隣にこの逆ランガー橋が架橋される昭和40年代ごろまで、ここを大型バスが走っていた…って(感嘆)
素晴らしい!
馬門橋を堪能して走り出す。
石橋看板は思いのほか小さく目立った駐車場などもないらしいと分かったのでナビ係りが看板を見逃さないように注意しながらしばらくドライブ~♪
「→大窪橋」
おお!!発見~。

美里町指定文化財 「大窪橋」
大窪橋は嘉永2年(1849年)惣庄屋篠原善兵衛、石工新助によって架橋された。
橋長19.30米、橋幅最大2.0米、橋幅最小2.70米
1 他橋に見られない大窪橋の特徴は円の中心は常水面下であるため、両基盤の中心角が157.40度です。
2 中央高が単一拱(町内の眼鏡橋)としては平地架橋としては限界のものであります。
平成11年(1999年) 11月 美里町

今度は田畑の開けた平地に架かっていたので看板からすぐに見つけられたものの、これまた実にこじんまりと残っている。
その石橋のすぐ隣に今現在地元住民が日常的に行き来していそうな、これまたざっくりとフツウの橋が架かっていて、このただ古いだけで「橋を渡る」という行為から切り離されたような大窪橋がなんだか寂しそうにも見える。

文化財指定の看板はあるものの、あまり手入れはされてなさげなちょっと寂しげな風情が、これまたなんだか日の傾き始めた夕暮れ前の時間帯に似合っている。
緑の船はこういった朽ち掛けた橋がなんとなくスキである。
…連れが看板見て橋見てさっさと車をUターンああ見た見たさあさあ今すぐ出発ー!という雰囲気ばりばりでも、石橋のこの朽ち加減がなんとも…と侘びさびの世界に浸っておったのでした。