食事を終えて夜の町をうろうろとお散歩。
夜は店もほとんど閉まってるし何もない…と思っていると…

思わぬところ(住宅とマンションの隙間)からこんな表情が飛び出す。
ほんとに何もないと思っていたから、見つけて「うっふっふっふ♪」とうっかり声に出して笑ってしまい通りすがりのヒトに変な目で見られた...orz
多分昼間にこの小道を見つけてもそうインパクトはなかったと思う。
夜だからこその風景。
あ、この風景ってあの植田正治写真美術館の建物と建物の間から大山が見える…っていう「写真的構図」に似ている。
あるいは「雪見窓から庭を見る図」みたいな。
=過去記事参照=
★【松江旅情 22小泉八雲旧居⑤】
こう、隙間から見える「絵」ってついじっと見入ってしまったりせませんか。
広々した風景も好きだけれど、狭くて小さい空間にほっとしたりっていうそういった感覚に近いのかも。
でも時々、明るい昼間よりも夜の方がイイ表情を見せてくれる建物ってあるよなぁ。

だから夜歩きは楽しいんだよなぁ。
どういう訳だか緑の船は美術館などで絵などをじっくり観るとその後はどっと疲れてヘトヘトになる。
美術館を歩き回るといったってたかが知れているし、ただ鑑賞しているだけなのにどうしてこうも疲れる!?…って思うくらい体力を消耗する。
こんな状態ではルーブル美術館なんかに行った日にゃあ遭難して行き倒れてしまうんじゃないかって心配なくらい消耗する。でも行きたいよ!>世界の美術館。
もちろん観るのは大好き!なのだ。
一般的には好きなことをしているともりもり元気になるとかリフレッシュ!する…ものだと思うのだがWhy!?
という訳でステキな植田正治写真美術館などに行くと腹が減るわけですよ。
さあ、今日は何食べよ~?

よし!今日は松江の洋食屋【レストラン西洋軒】にしよ。
この「西洋軒」という名の洋食屋(ラーメン屋とかパン屋でもあるようだがw)は日本全国どこにでもあるようだ。
でもって、この名の付く店は小さくともこだわりや自信をもってやっている店、というイメージがある。

で、いろいろな土地に出かけてその土地の「西洋軒」を見つけると試したくなる。
え? ならない?
いや試してごらんなさいって!w
↑タンシチューとクリームコロッケのセット(ライス、スープ付) 1300円
↓オムライス 800円

ほーらね当たり!
めっさうまいやん!
でもって緑の船の好きなタイプのザ・オムライスだ。
緑の船はライスの上にぺろ~んとスクランブルエッグを乗っけただけのオムライスはおいしくてもオムライスランク上ではCと格付けしてしまう。
オムライスは卵でくるりん♪と巻いてないと。
ここのオムライスは色、味、お値段、そして形(これけっこう大事!)とも特Aランクに勝手に認定しまーす㌧ ヾ(´∇`)♪
★【レストラン西洋軒:ホットペッパー島根】
幸橋近くにある洋食の老舗店。
落ち着いた雰囲気でゆっくりと料理が食べられるので、昔からの常連客も多い。
ランチメニューも豊富で、特にドミグラスソースがかかったオムライスが人気メニューの一つ。
住所 : 島根県松江市片原町111
営業時間 : 10:00~14:00、17:00~20:30
定休日 : 日曜日
場所はカラコロ工房前の遊覧船乗り場あたりをウロウロしてれば見つかると思います。
松江旅情番外編となる今回。
というのも、この植田正治写真美術館は島根県のお隣、鳥取県米子市のさらに東、大山の麓にあるのだ。
JR松江駅からは電車でJR米子駅まで40~50分くらい。(*最寄の駅は伯備線のJR岸本町駅)
そこからは乗船客員Iと駅前でレンタカーを借りていざ出発!
るん♪
せっかくだからと伯耆大山をぐるっとドライブしていく。
この時は道路に雪もなく、大山の中腹を走ったときにだけ路肩に以前に降った時の残雪が固まっているくらいだった。
スキー場を抜けて山肌の見える丘を眺めて「この時期にこんなんじゃスキー場も大変だろうなぁ」と同情しつつドライブを楽しむ。(たぶん吹雪いて道路が凍結したりしてたら真っ青になっていただろうが…)
夏はもっと楽しいだろう♪
大山を半周して現地に到着したときにはもうだいぶ陽が傾いていた。

=植田正治って誰?=
★【植田正治OFFICE】
写真家:植田正治(1913年-2000年:享年88歳)の事務所によるウェブサイト。作家資料、展覧会や出版の最新情報などを掲載してある。
★【The PHOTOGRAPHER 植田正治:FUJIFILME2000「写真を語る」】
[植田正治略歴]
植田正治 Shoji Ueda
1913年(大正2年) 鳥取県生まれ。
1932年(昭和7年:19歳) 上京し、オリエンタル写真学校に入学。
卒業後、故郷に帰り19歳で営業写真館を開業。
この頃より、写真雑誌や展覧会に次々と入選。
1949年(昭和24年:36歳)頃から地元の砂浜を題材にした作品などを精力的に発表する。
「少女四態」などの群像演出写真をはじめ、砂丘などを舞台に被写体をオブジェのように配置した作品の数々が国内外で高い評価を得る。
名作写真館 23 植田正治・緑川洋一―The Photography Pavilion 写真を楽しみ、写真を語る (23)
植田 正治、緑川 洋一 他 (2006/07)
小学館
*詳細を見る
(*この本の表紙に使われている写真が「少女四態」)
1954年(昭和29年:41歳) 第2回二科賞受賞。
1975年(昭和50年:62歳) 第25回日本写真協会賞年度賞。
1978年(昭和53年:65歳) 文化庁創設10周年記念功労者表彰。
1989年(平成元年:76歳) 第39回日本写真協会賞功労賞。
1995年(平成7年:82歳) 鳥取岸本町に植田正治写真美術館開館。
1996年(平成8年:83歳) フランスより芸術文化勲章を受章。
2000年(平成12年:享年87歳) 7月4日 死去。

正面玄関付近。
コンクリート打ちっ放しの外観は平成12年(2000年)の鳥取県西部地震の影響でかなりヒビが目立っていた。
★【平成12年鳥取県西部地震資料公開HP】
植田正治という写真家は福山雅治のファンの方の方がよく知っているかもしれない。
福山雅治とは1994年(平成6年)に「HELLO」というCDジャケットの撮影で出会い、1999年(平成11年)の「HEAVEN」も撮影を行った経緯から、福山雅治が写真を撮ることに興味を持ち始めたのもこれがきっかけだとどっかにあったような。
そういった経緯で、この2000年(平成12年)の地震で受けた建物の被害を修復するために福山雅治がこの写真美術館での企画展に何度か参加していたらしい。
![]() | HEAVEN/Squall 福山雅治 (1999/11/17) BMG JAPAN *詳細を見る |
★【福山雅治写真展】
1994年(平成6年)12月「HELLO」ジャケット撮影での出会いから1999年(平成11年)「HEAVEN」までの撮影現場の記録と、福山雅治が語った言葉など(VTR映像等)を振り返りその経緯を辿るという企画。
開催期間 : 2002年(平成14年)7月5日(金)~9月29日(日)
明治23年(1890年)の8月に中学校の教師として来松したヘルン先生(40歳)は、なんと4ヶ月後の12月には武家娘の小泉セツ(22歳?)と結婚した。
というか、その時代によくその小泉家が外国人との結婚を許したなぁとちょっとびっくり。
=小泉八雲:ラフカディオ・ハーン=略年譜
1850年(嘉永3年) :(6月27日)
ギリシアのイオニア諸島レフカダ島リュカディアの町で、アイルランド人の父とギリシア人の母の間にパトリック・ラフカディオ・ハーン(Patrick Lafcadio Hearn)が生まれる。
1852年(嘉永5年) :2歳
父の生家ダブリンへ母子共に移り住む。
1857年(安政4年) :7歳
父母が離婚する。
1866年(慶応2年) :16歳
ジャイアント・スライドという遊戯中に左眼を強打し失明。
父がインド熱にかかりスエズで死亡。
1867年(慶応3年) :17歳
大叔母が破産したため学校(英国北東部ダラム市郊外のカトリック系学校ウショー・カレッジ)を中退。
1869年(明治2年) :19歳
リバプールから単身移民船に乗りニューヨークへ渡り、職を転々とする。
1874年(明治7年) :24歳
新聞『シンシナティ・インクワイヤラー』紙の記者になる。
1875年(明治8年) :25歳
黒人混血の女性マルシア・フォリーとの同棲生活が原因で会社を解雇される。
1877年(明治10年) :27歳
シンシナティを去りニューオリンズへ。
1882年(明治14年) :31歳
『タイムズ・デモクラット』紙の文芸部長に迎えられる。
1884年(明治17年) :34歳
処女再話集『異聞学遣聞』出版。
1887年(明治20年) :37歳
第2再話集『中国怪異集』出版。
1890年(明治23年) :40歳
4月、通信記者としてニューヨークからバンクーバー経由で横浜到着。
7月、松江尋常中学校、師範学校の英語教師に任命される。
8月、松江に到着。島根県尋常中学校・師範学校(現島根大学)の英語教師に従事する。
12月、教頭西田千太郎の媒酌で小泉セツ(22歳?)と結婚。
1891年(明治24年) :41歳
11月、熊本の第五高等中学校へ転任のため小泉セツと共に松江を去る。
1892年(明治25年) :42歳
アトランティック・マンスリーに『見知らぬ日本の面影』を連載。
1893年(明治26年) :43歳
11月、長男一雄誕生。
1894年(明治27年) :44歳
日本に関する最初の著書『Glimpses of Unfamiliar Japan』(*)全2巻を出版。
*「知られざる日本の面影」や「知られぬ日本の面影」「日本瞥見記」など和訳は色々ある。
11月、神戸クロニクル社に転職のため熊本から神戸へ転居。
1895年(明治28年) :45歳
2月、眼病のためクロニクル社を退社。
9月、『東の国から』出版。
1896年(明治29年) :46歳
2月、帰化が認められ「小泉八雲」と改名する。(*正式な結婚はこの年のようだ)
3月、『心』出版。
8月、神戸から夫人と上京する。
9月、東京帝国大学の英文科講師となる。
1897年(明治30年) :47歳
2月、次男巌誕生。
3月、松江時代以来の友人西田千太郎死去。
9月、『仏の畑の落穂』出版。
1898年(明治31年) :48歳
12月、『異国情緒と回顧』出版。
1899年(明治32年) :49歳
9月『霊の日本』出版。
1900年(明治33年) :50歳
12月、『影』出版。
12月、三男清誕生。
1901年(明治34年) :51歳
10月、『日本雑録』出版。
1902年(明治35年) :52歳
3月、『日本お伽噺』出版。
10月、『骨董』出版。
1903年(明治36年) :53歳
1月、東京帝国大学文科学長井上哲次郎の名で解雇通知を受け、突然の仕打ちにハーンは激怒する。学生たちによる留任運動が起きる。
9月、長女寿々子誕生。
1904年(明治37年) :54歳 (*日露戦争始まる)
3月、早稲田大学文学部に出講。
4月、『怪談』出版。
9月26日、狭心症のため死去。
1924年(大正13年) :
富山大学、ラフカディオ・ハーンの旧蔵書2,435冊から成る「ヘルン文庫」を開設。
1932年(昭和7年)
2月18日、小泉セツ夫人死去。
角川ソフィア文庫『新編 日本の面影』参照
小泉八雲という名はセツ夫人がヘルン先生の好きな『古事記』の
「八雲立つ 出雲八重垣 つまごみに 八重垣つくる その八重垣を」
のあの歌から付けたのだが、いかにも日本マニアな外国人らしい、しかししっくりとくるよい名を選んだものだと思う。
玄関を出て、前庭を改めて眺めてみる。
この扉の向こうにヘルン先生が美しい言葉で綴ってくれた庭があるのだ。
あ、これが例の「手柏」の木かぁ!
昔、わが家にもあったよこの木。
でも「八手」(ヤツデ)って呼んでたなぁ。
ほとんどの武家屋敷にも表門を入ると、たいてい玄関の近くに、大きな独特の葉を持つ丈の低い木が見受けられる。出雲では、その木を「手柏」(てがしわ)と呼び、わが家の玄関の脇にもある。
(…略…)
ところで、昔、家臣が藩主の慣例である江戸への参勤交代にお供をして、家を離れなければならなかったとき、出立の直前に焼いた鯛を手柏の葉に載せて、その家臣に供したと言われている。そして、壮行の宴が終わると、鯛を載せていた手柏の葉は、旅立つ藩士が無事に帰ってくるようにとの祈りを込めて、戸口の上にお守りとして吊るされた。

ヘルン先生は毎日学校の勤めから帰ってくると、教師用の制服から「ずっと着心地のよい」と綴っていた和装に着替え、庭に面した縁側の日陰にしゃがみこみ、授業を終えた一日の疲れを癒したそうだ。
壊れかけた笠石の下に厚く苔蒸した古い土塀は、町の喧騒さえも遮断してくれるようだ。聞こえてくるものといえば、鳥たちの声、かん高い蝉の声、あるいは長くゆるやかな間をあけながら池に飛び込む蛙の水しぶきだけである。
いや、あの塀は往来と私とを隔てているだけではない。塀の向こう側では、電信、新聞、汽船といった変わりゆく日本が、唸り声をあげている。しかし、この内側には、すべてに安らぎを与える自然の静けさと16世紀の夢の数々が、息づいている。大気そのものに古風な趣が漂っており、辺りには目に見えないなにか心地よいものが、ほのかに感じられる。
新編 日本の面影 / ラフカディオ ハーン…「日本の庭にて」第14章より

同じくヘルン先生の机のある北部屋。
その西側の隅に「雪見窓」のコーナーがあります。

雪見窓とは言っても、この向こうにも縁側がありますし、実際は北側の障子をスパッと引けばいくらでも雪景色が見られたことでしょう。
なので、これはまだ蛍光灯のない時代、しかも冬には部屋を襖などで仕切ってしまうと推察され、であれば昼間でも暗くなりがちな北部屋の一角に設けられた「明かり採り」用の小窓だったと思われます。
でも、こんなデザインの採光用小窓、がばちょっ!と北側全面を障子にするよりも粋じゃないですか。
床材の艶やかさが、水面を思わせて、とするとこの半円の小窓は沈む太陽、もしくは昇る月を模しているのでは?などと想像させてくれます。
このコーナーにもかつては花瓶を置いてお花を飾っていたと床のキズが物語っております。
もちろん小窓上部に竹器の生け花がございますよ。
北の部屋にはヘルン先生が使っていたという机(*レプリカ)が置いてある。
机の上に見えるのは法螺貝で、これを使って用がある時にヘルン先生は別室にいるセツ夫人や女中を呼んだらしい。…というか法螺貝ってw。


太陽の光を背に風景を眺めるため、逆光にならず色が鮮やかに映るからだ。
もし北庭があっても昼間も日陰で薄暗いという場合は、屋根など家屋の高さによるのかもしれない。
平屋なら北庭にも昼間にいくらか光が当たるだろうが、二階建て、もしくはマンションなど階数が高ければ高いほど、いくら北側に土地があっても光は届かないだろう。

ちょっと近づくと机の高さとイスの高さのバランスがチグハクなことに気がつく。
これはヘルン先生は片目はほとんど見えず、もう片目も近視だったため、机に噛り付くような姿勢で読み書きしていたためだ。
きっとそんな姿勢で本を読んでいたらますます目が悪くなりますよ、と忠告したくなるかもしれないが、おそらく書物に疲れたヘルン先生はふと顔を上げて、傍らの北庭を眺めてほっと一息付いたのだろう。
北側にある第二の庭は、私のお気に入りである。大ぶりの草木が茂っているわけではない。そこには青い砂利が敷いてあり、その真ん中に小さな池がある。珍しい植物に縁取られたそのミニチュアの池には小さな島も浮かんでいる。その島には小山もいくつかあり、小人の国に生っているような桃、松、つつじの木が生えている。
(…略…)
池の縁のあちこちにほとんど水面と変わらない高さで、大きめの平たい石が置かれている。その上に立ったりしゃがんだりすれば、池に棲む生き物を観察したり、水草の世話をしたり出来る。美しい睡蓮(学名:ヌファール・ジャポニカ)が、その鮮やかな緑の水盤状の葉を油を浮かべたように水面に浮かべている。たくさん浮かんでいる蓮には二種類あって、ひとつは薄紅色の花を、もうひとつは真っ白な花をそれぞれつけている。水際では、菖蒲が目にも鮮やかな紫色の花を咲かせている。他にも観賞植物やシダや苔も生えている。
『新編 日本の面影』ラフカディオ・ハーン…「日本の庭にて」第7章より
南の縁側からは北へ向かって三つの部屋が襖で繋がっている。

開け放たれた部屋からそれぞれに南の庭、西の庭、北の庭、が望めるようになっている。
この庭こそが、ヘルン先生こと小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)を魅了した庭だ。
この屋敷に来る以前は、ヘルン先生は川のそばの「可愛らしい鳥籠のような」2階建て住居に住んでいて、日々宍道湖の夕景や大橋川の眺め、山に雲の棚引く霞みがかった幻想的な風景に飽きることがないと綴っていた。
そこからこの松江城北堀の屋敷に移り住んだのは、本格的に暑い夏の季節を目前にセツ夫人と結婚してそれまでの家が手狭になったことと、かねてから「庭のある武家屋敷に住んでみたい~!」という願望があり、それをこの土地で世話になり友人となった西田千太郎氏(*)に伝えたところ、たまたま空家になっていたこの屋敷を借りられるよう持ち主であった根岸干夫氏に取り継いでもらえたからだった。
*西田氏はへるん先生が赴任してきた中学校で英語を受け持っていた先生。
西田は実に親切にしてくれる。西田はとにかく親切な人だ。自分にできることはどんなこともしてくれ、それでいていつも、もっとお手伝いできることがあればいいのですがと残念がっている。
『新編 日本の面影』ラフカディオ・ハーン…「英語教師の日記から」第2章より
明治24年(1891年)6月22日、ヘルン先生はセツ夫人、女中、子猫とともにわずかの家具を携えて、大橋川そばの鳥籠のような家からこの屋敷に引っ越してくる。
玄関から奥の南側の部屋へ移動してハッとする。

たまたまかもしれないが、1月だというのに風もなく燦燦と陽の光が注ぐこの日は、窓を開け放していても寒々しさを全く感じない。
*小泉八雲旧居(ヘルン旧居)
怪談『雪女』『耳なし芳一』でなじみの深い、明治の文豪小泉八雲。(アイルランド名:ラフカディオ・ハーン)
英語教師として松江に赴任してきた八雲は、セツ夫人と結婚した後、かねてから念願であった「武家屋敷」を求めて借りて暮らしました。
当時この屋敷は旧松江藩士根岸家の持ち家で、あるじ干夫は簸川郡(*ひかわ郡:現在の出雲市)の郡長に任命され、任地におり、たまたま空家であったのです。
部屋をぐるりと取り囲む庭は、根岸干夫の先代根岸小石の手によるもの。
自然の山水を絡めたこの庭は、八雲の名著『知られざる日本の面影』のなかでもあますことなく、その魅力が描かれています。
さあ、どうかみなさまも松江時代のヘルン先生の世界をお偲びください。
旧居門前の看板より
ヘルン先生というのはハーンの綴り「Lafcadio Hearn」を誤読した松江の人々がそう呼んだことから付いた名前だが、当のハーンもこの「ヘルン先生」という呼び方をたいそう気に入った♪ため、そのまま定着してしまった愛称である。
松江の風景や人々に魅了され、また松江の人々からも愛されたヘルン先生だが、この町に滞在したのはわずか1年と3ヶ月だった。
それはあの山陰地方の厳しい冬の寒さに、肺を患っていたヘルン先生の体が耐えられなかったためのことだったらしい。
…というか、現代人の我々でもこの屋敷でエアコンも電気コタツも石油ファンヒーターもなく、火鉢と猫コタツだけで冬を過ごせと言われたら間違いなく風邪引いて寝込むと思う!(*当時の日本人てありえないほど寒さに強すぎ!?)
その後、ヘルン先生は気候の温暖な九州は熊本の学校への赴任が決まるのだ。
今回の松江訪問も新たな発見がいくつかあり、今はそのことを書きたい気分でもあるのだが、そんなことをしていたらますます前回の記憶が薄れてしまう。
今回はばたばたしてお気に入りの月照寺にも行けなかったし。残念。

ここ!
ここもまた行きたかったなぁ、松江城北堀の通りにある武家屋敷の一帯。
それにしてもなんという青空!
そうだった、今回は天候の目まぐるしい変化もあってぶらぶら歩き回る時間も限られていたのだった。
さすがは「弁当忘れても傘忘れるな」と言われるほど雨の多い土地だと実感した今回の訪問。
前回での訪問がいかに運のいい好天候だったことか。
ということで、しばし当船は時間を遡ってご案内するとしましょう。
まだ前回の写真もアップしきれていないのに…
また、行ってしまいました~(〃▽〃)。

「八雲立つ 出雲八重垣 つまごみに 八重垣つくる その八重垣を」
前回はまだ「去年」だったのに、もう「今年」の3月。
えー!もう今年も3ヶ月経っちゃったんですね。
やばいです。さすがにひと季節がずれまくっちゃ。

でも、今回青空見えてますが、3月ですが、雪降ってましたから~!
今年一番の冷え込んだ空気をまさか3月に感じるとは思わず…。
ずっとぐずついた天気だったわけではなく、しかしとにかく目まぐるしく天気が刻一刻と変化していきます。
吹雪いたと思えば、ふと窓から目を離したら今は晴れている、でもまた気がついたら空が曇っていて…といった風情。
いったいどこからそんな雲が湧いてくるのやら。
ん?

もくもく

もくもくもくもく

もくもくもくも
くもくもくもく
もくもくも…
ここからかっ!?
★【豊の秋】
★【日本名門酒会公式サイト:蔵元:豊の秋】
米田酒造株式会社
〒690-0842 島根県松江市東本町3-59
創業 : 明治29年(1896年)10月1日
まさか蔵元が雲の発生源とは!(笑)
最近オサレなカフェにランチを食べに行った。
海には程遠い山の真ん中…というほど山の中でもないか、けっこう平野部。
そんな土地にあって、店内のイメージはなんとなく「海辺」とか「マリン」。
手作り風の木の壁、自分たちで塗ったと思しき白いペンキの内装、ちょっとレトロちっくなテーブルとイス。
でもランチのデリはけっこうがっつり盛ってある。(ちょいとお値段も盛り上がってる?)
「本物のカフェを目指している」(*ので、お客にもその意識を持ってほしい)、というオサレなカフェにはちょっと意外な感じの骨太メモが各テーブルに置いてあったりした。
そのカフェでランチがくるまでの間に『カメラ日和』という雑誌をぱらぱらめくっていた。
おされな写真、こだわりのカメラ、注目の写真家たち(グラフィックデザイナー?)などが掲載されていた。
「写真家」と「グラフィックデザイナー」ではなんとなくイメージが違うのかな。
「グラフィックデザイナー」だともっと活動が幅広いイメージがする。
その中で、ぱっと気になった写真があった。
それが岡崎直哉氏の写真だった。
★【カメラ日和:毎日をカメラと一緒に:01】参照。
カメラの雑誌だけにどれもこれもステキな写真ばっかりなのだが、なんとなくこの人の写真が好きだなぁと思った。
特集の記事に、
「日本の観光地用のPR写真を、もっとはっと目を惹くようなステキなものにしたい」
という感じのコメントがあった。
「観光地のPR用の写真てなんかつまらないものが多いからもったいない」
とか
「日本にはいい所もいっぱいあるから、写真でその魅力がちゃんと伝えられたら地方の観光にだってもっと好影響が与えられると思う」
こんなことを述べてあったと思う。(うろ覚えだけど)
読みながら一人で「うん!うん!」と密かに同意してたです。
というわけで、ちょっと注目してみた。
★【カメラピープル:ギャラリー061】より岡崎直哉氏参照。
*よく撮る被写体
昭和を感じるもの、建造物、空
ははは、なんだ。
なんとなくだけど、好みが似てるかもしれない。
月照寺は小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の大好きな寺でもあったようだ。
もっとも、寺だけではなくかのアイルランド人は日本の「お墓」のあの雰囲気が大好きだったとかで、夜でも気味悪がる夫人を連れて「墓場を散歩する」のを好んだという逸話もあるほどだ。
そんな彼だからこそ「怪談」を書くことができたのだろう。
八雲はよくこの静かな境内に佇んでいたと思われ、夫人のセツ氏によれば
「一番好きな場所です。私もここに埋めてほしい」
と語ったという。

茶の湯に使用する名水は、月照寺の入り口案内所のすぐそばに湧いている。
その受付は…

猫である。
嘘ですw
それにしても境内の雰囲気は最高なのに、この受付の雑さときたら…。
ガムテープでベタベタポスターや看板を張るのはやめようよ~(´д⊂)。
まるで、ほんとうに受け付けのようにこのカウンターにちんまりと座っていたこの猫たち、別にお寺で飼っているわけでもなく勝手に番台を買って出ているらしい。(*受け付けの方は「全くもうっ!」とイヤがっていたがw)
でも猫の受け付けなんて、なんとなくお寺の雰囲気にあっていて微笑ましい。

もしかして、君たちは如泥の「鼠」に噛り付いたあの猫の子孫かもしれないね。
過去記事参照:★【松江旅情 27月照寺 ⑦小林如泥】「猫が飛びかかった木彫りの鼠」の話
他にも出雲霊場として不昧公ゆかりの地を訪ねてみたい。
★【しまねバーチャルミュージアム:不昧の訪れた出雲路】参照。

この廟門は不昧公が生前からお抱え名工の小林如泥に頼んで、この場所に作るようにと指示して製作されたといわれている。
この透かし彫りは「葡萄」で不昧公の好物だった。
もっとも如泥は不昧公よりも5年も早くに亡くなっている。
そのためこれが小林如泥の作か異論もあるというが、この仕事っぷりと親交も深かった二人の間で生前から作り始めていただろうと、この透かし彫りが如泥の作であると示していると言われている。
自分の墓所を製作していた馴染みの工匠が先に亡くなってしまって、不昧公もさぞかし残念がったことだろう。
しかし、如泥は不昧公のためにこのような素晴らしい廟門の透かし彫りを残した。
決して色鮮やかではないし金箔の装飾もないが、緑の船はこの意匠が大好きなのだ。
さあ、お茶も頂いて宝物殿も覗いたが、もう一度7代藩主の名君松平治郷(はるさと)公の廟門を拝んでおこう。(*そう、ここは何度でも見ておきたいと思わせるのだ)

この7代目の松平治郷公は出雲松江藩の歴代藩主の中でも特に有名なお殿様だ。
*7代治郷公(不昧公)
茶道不昧流の茶祖としても有名。
17歳で家督を継ぎ以来40年間、貧窮した藩の財政を建て直すため治水植林、産業、工芸等の画期的な発展を計って中興の祖を言われた名君。
特に、佐蛇川放水路の開削によって松江の水害を防いだこと、名器の散逸を防ぐために千万金を投じて収集されたこと、数多くの名工を保護育成されたことなどは特筆すべきである。
(看板より)
しかし、この17歳で7代目となった藩主は茶人大名としても有名なのだが、幼い頃から勇気盛んだったらしい。(要はやんちゃ坊主の暴れん坊…?)
それに心を痛めた周囲の教育係や家老たちが、殿が常道から外れないようにと茶道や禅学に導いたのが茶人大名治郷公の原点なのだというのは意外でおもしろい。
さあ、次こそ7代不昧公の廟門へ!…といく前に書院「高真殿」では、その不昧公も使っていたという名水でお茶が頂けるので一服していきましょうよ。(*入場する時に茶券を買っておく)


ここは唐門を潜らずに案内所のある入り口から左に曲がっていっても入ることもできる。

この時、訪れる人はほとんどいなかったが、決して閑散とした雰囲気はない。
殺伐とした静けさではなくて、むしろ心地よい静寂を楽しめる所なのだと思う。

上り框から北庭を望む広間。
冬でも開け放されていたので、この暖冬はむしろありがたかった。
玄関には誰もいないが、声をかけると控え室からお茶をいれてくれる方が出てきて案内してくれる。(といっても勝手に好きなところに座って待っていればいい)
中の人たちは普段はきっとこたつにでも入ってマターリとしているのじゃないかな(笑)。

不昧公も好んだという名水でお抹茶を点てて頂き、緑の茶菓子と共に提供してもらう。
赤い敷物との色合いがよいよ~。ああ、落ち着く…。
お茶を頂いている間、控え室からのおしゃべりが聴こえてくるがそう気にはならない。
むしろ、あの広ーい席でひとりで庭を眺めているとその音が聴こえることでより一層目の前の静けさを感じられる…、という不思議な効果。
そうそう!「古池や~蛙飛び込む水の音~♪」(*)のあの感覚に似ているかも!
(*貞享3年(1686年)、松尾芭蕉が詠んだ俳句)
お茶菓子は確か【風流堂】の「路芝(みちしば)」。
そっけない見てくれだが、これがうまい!んだなw
思わず、甘いもの好きな乗船客員N氏に食わせてやりたくなって一つだけ包んで持って帰った。
こういう和菓子って、お茶請けにひとつふたつ食べるだけでも満足できる。
なんというか、ガツガツ腹いっぱいになるまで食べないと気が済まん!という気分にはならないのがいい。
実際これはかなり気に入ってもらえたようで、後日例のJR松江駅の物産店でこの「路芝」を改めてお買い上げしたほどだ。
ふーう、それにしてもこの静寂はなんとも贅沢であった。
ご馳走様でした。(-人-)