さぁ次は7代目藩主の廟門…といく前に、蔵のような建物の「御霊屋」を拝んでおきましょう。

これは7代不昧公の廟門から5代宣維公の廟門へ向かう途中に見える御霊屋の側面。
冬で寒々しい雰囲気だが、6月頃には石畳の両側に2~3万本あるという紫陽花がたわわに咲き誇って、さぞ瑞々しい光景に変わるのだろうなぁ。
この見事に咲き誇る紫陽花の噂で、近年この月照寺は「山陰のあじさい寺」とも称されるようになっている。
6月かぁ…。
いいなぁ、雨のしとしと降る月照寺もなんだか情緒的なイメージで良いな。
その6月には「花供養」という法要が行われるのだそうだ。
これは日頃私たちの目を楽しませてくれる花の供養を行うというもの。
ここ月照寺には四季折々に「花」を楽しむこともできる。
1月 山茶花
2月~ 椿
3月下旬~ 桜(今年は暖冬だから、もっと早くに開花するかもしれない)
4月中旬~ つつじ、睡蓮
5月~ 杜若、菖蒲、藤の花
6月中旬~ 紫陽花
7月下旬~ 百日紅(さるすべり)
11月頃~ 紅葉
境内の順路通りに行くと、次に7代藩主治郷公(不昧公)の廟門がくる。
が、この7代藩主治郷公(不昧公)の廟門は、ちょっと他の廟とは趣が違うのでラストに持っていこうと思う。
★【月照寺(境内案内図)】
(だいたいこんな並び↓になっている)
初代→→→7代→→→→5代→月照院→3代→9代
↑ ↓ ↓
↑ ↓ 2代
↑ ↓ ↓
↑ 御霊屋 6代←4代←8代
↑ ↓
↑ ↓
↑ 本 堂
唐門←←←宝物殿←←高真殿
↑
↑雷電の碑
↑
↑
↑
↑案内所
名
水
歴代藩主の廟は9代藩主斉斎公までで、1873年(明治6年)まで続いた10代藩主松平定安のものは、時代の混乱からか東京の天徳寺に埋葬されその後東京の護国神社に分葬されたまま移葬されていない。

左 : 5代藩主松平宣維公の廟。
右 : 3代藩主松平綱近公の廟。
間に、初代藩主直政公の生母「月照院」のお墓がある。
この月照院のお墓もちょっと変わった石碑なんだよ。
月を模したような丸い球形の石が乗っかっており、歴代藩主の碑もそれに倣っている。
宗派によるのかもしれないけど、見たことなかったのでなんか不思議な趣。

冬だというのに、苔の緑などが鮮やかなのが妙な気分だった。
以下、歴代藩主の廟門が続くが、カメラの調子が悪く撮り損なったものがあったり、通り過ぎた後でカメラが復活して戻って取り直したりしたので、今となってはどれが誰の廟門だったか分からなくなってしまった。
基本的には↓の順番になっていると思うが…違ってたらご容赦を。

★【月照寺の案内図】
初代藩主、松平直政公の御廟*県指定文化財

直政公は、越前福井城主結城秀康(*徳川家康公の次男)の三男として生まれる。
慶長19年(1614年)、大阪冬の陣に14歳で初陣し、その見事な武者振りに敵将真田幸村も思わず軍扇を投げて賞賛したという逸話を持つ武人でもある。
寛永15年(1638年)、嗣子なく病死したため一代で終わった京極氏に代わり、同年、徳川家康の孫にあたる松平直政公(38歳)が信州松本から禄高18万6千石で松江に移封され(*)、文化の開発、国産の増殖など大いに治績をあげ、藩の基礎を築いた名君となる。
*石川康長が造営したという信州の松本城は天守、乾天守、渡櫓で、その40年後天下泰平となった1633年頃に戸田氏の後で新しい城主となった松平直政(当時33歳。時の将軍・徳川家光の従兄弟にあたる)により辰巳附櫓(たつみつきやぐら)と月見櫓(つきみやぐら)が増築され、今のバランスがとれた天守の姿になったという。
初代藩主直政公のこの廟門は桃山文化の作風が巧みに取り入れられており、木割りや彫刻の出来栄えなど地方工匠の作ではないと言われ、山内廟門中の傑作でもある。
(*境内看板より)
>地方工匠の作ではないと
ひでぇ…^_^;。
田舎だって芸術家肌の職人はいたかもしれんのに。。。
もっとも直政公は信州松本から山陰松江に移封になった時、当時のお抱え大工職人たちもつれて行ったとされている。
そう言われれば、松本城と松江城はなんとなく雰囲気が似ているかもしれない!?
はっ、徳川家康は愛知県は尾張の出身。
先日紹介した自然食れすとらん【ビーバイブ】のベジミート丼名古屋風は、案外こんなところで繋がっていたのか!?なーんて。
もっとも松江城は慶長12年(1607年)~慶長16年(1611年)に松江開府の祖、堀尾吉晴が築城したのが始まりなので、もともとあの色形だったのかもしれない。
その後松江城は堀尾家3代、京極家1代、松平家10代の居城となり、現在は山陰地方で唯一の現存する天守閣となっている。
しかし確かに、5代藩主の頃まで松江藩はかなりの財政難で、京都からの嫁さんを迎える準備がなかなか出来ず婚礼を延期したというくらいだから、それまでは匠と呼ばれるような職人もそういなかったかも…。
そういう意味では、この地方にたおやかな文化を持ち込んでくれた歴代藩主にお礼を言わなくてはならないのかもしれない。
初代藩主直政公は寛文6年(1666年)、66歳でなくなり、その後江戸生まれの息子である松平綱隆(つなたか)公が36歳で家督を譲り受ける。
そうして、月照院の墓所としてあった所に、2代目藩主となった綱隆公が遺命により境内に直政公の廟を造り、山号を歓喜山と改めてから、月照寺は歴代藩主の菩提寺となっていくのだった。

★【越前松平氏家系図:世界帝王事典】参照。
城下町の西、宍道湖にもそう遠くない山の麓に松江藩代々の藩主が眠っている墓所がある。
それが月照寺だ。
*月照寺(げっしょうじ)とは?
もと禅林のお寺で、洞雲寺(どううんじ)と称したが、今(2007年)から343年前の寛文4年(1664年)、徳川家康の孫に当たる松江藩初代藩主松平直政公(まつだいらなおまさ)(*松平直正は誤り?)が生母月照院(げっしょういん)の霊碑を安置するため、浄土宗の長誉上人を開基とし、蒙光山(むこうさん)月照寺として改称復興したのが始まりである。
更に公の没後、二代目藩主綱隆(つなたか)が父の遺命により境内に廟を造り、山号を歓喜山(かんきざん)と改めて以来、九代にわたる藩主の菩提寺ならびに念仏道場として、江戸時代の200年間松江城下寺院筆頭の格式を誇り、尊崇を受けてきた。
一万坪に及ぶ霊域には歴代九代の藩主の霊廟が整然と鎮座し、その廟門にはそれぞれの時代の特色がみられ、匠の精魂を傾けてきた技が遺憾なく示現されている。
また境内には歴代藩主と奥方の奉献により、刀剣、染織物、絵画、仏具などが展示されている宝物殿も公開されている。
(境内案内板より)

月照寺は、緑の船がここ松江でも特にお気に入りのスポットのひとつだ。
もともと墓所なので、とりたてて煌びやかで派手な意匠があるわけでもなく、にぎやかな土産物屋だの屋台などもないが(むしろないのがいい)、松江に行くなら絶対に訪れておきたい場所だ。
大好きなあまり大きな声で人々に知らしめたいような、このままいつまでもひっそりと大事に見守っておきたいような、そんな癒しスポットなのだ。(お墓なのだがね)
★【月照寺:神々のふるさと 山陰:観光ポータルサイト 大山・中海・宍道湖の旅まるわかりガイド】所在地参照。
せっかく山陰は島根県にスポットを当てているので、この話題に触れないわけにもいくまい。

画像提供:
★【JOKER×JOKER】管理人恭介さまより。
2月22日は、島根県が条例で「竹島の日」と制定した日ですよー!
★【フォトしまね No.161】より
★【大日本海陸全図】参照
ここも、通りを通るたびに気になっていたお店。
飲み屋やラーメン屋が連なる伊勢宮町の通りにあった「自然食れすとらん」。
緑の船は歩くのが好きなので、JR松江駅から松江城くらいならテクテク歩いて移動する。
タクシーやバスもいいが、もしそれでばかり移動していたらこの自然食レストランには気が付かなかっただろうし、入るきっかけもなかっただろう。
こういうお店って割と早くに閉まってしまうところが多いような気がするのだが、飲み屋街にあるせいかかなり遅くまでやっていたので、ある日の晩ふらっと入ってみた。
中を覗くと店内は狭く、小さなテーブルが4つほどあるくらい。
夜8時を回っていた頃で自然食レストランの名にぴったりの明るい色の木のテーブルやイスには誰もいない。
「まだいいですか?」
聞いてみると快く「2階へどうぞ」と案内された。
狭くて急な階段はこの建物が実はかなり古いものだと感じさせた。
階段を昇ってみてちょっと驚く。

1階のパステル調でカントリー風の内装と変わって、2階は階段を上がると大きなバーカウンターがあり、ジャズ♪なんかが似合うちょっとレトロ調な内装。
そうか、2階はバーになってるから夜も遅くまで開いているわけね。
2階にはテーブルに3組ほどのお客がいた。
ほー、なんかイイ感じに落ち着いている。
メニューによくわからない「ベジミート丼」というのがあったので頼んでみる。

こうしてみると、鶏のから揚げ丼に見える。
しかも味付けは名古屋風!(つまり赤味噌のソース和え)
食べてみると、やっぱり鶏肉のような食感でやや淡白な鶏肉といった感じ。
しかし、これ、看板メニューにあるように「ベジ(野菜)+ミート(肉)」で、いわゆる野菜で作った擬似肉なのだ。
原材料は「大豆」。
懐石料理や精進料理にあるような、肉を使わない「肉料理」のあれ。
ほえ~~~!
肉じゃないのにほんとにお肉みたい!
もぐもぐもぐ。
ごはんは雑穀玄米で、奥のドリンクは人参100%ジュースなのだがとってもすっきりした甘さ。
付け合せの野菜もほのかにマイクロビデオテック?いえいえ「マクロビオティック」な「体によさげ~♪」なオーラが漂っている。
狭いけど妙に居心地のいい2階なのだった。
=お店情報=
★【自然食れすとらん ビーハイブ】
「自然に育まれた素材を大切にし、その上ダイナミックで楽しいビーハイブのマクロビオティッククッキングをぜひお召し上がり下さい。 」HPより
住所 : 島根県松江市伊勢宮町535-57
ここは、心と体を癒し、そして元気になっていくマクロビオティッククッキングを提案しているお店だそうだ。
そうだ、この街にはケーキが足りない!
ケーキ!ケーキ!ケーキ!という訳で、ケーキのあるところへ飛んでいく緑の船。
着いたのはなんとJR松江駅構内。


炎にさらに火を加えて「かのざ」と読む。(なぜドイツ語的ルビなのは不明)
製鉄の里らしい出雲地域にひったりな店名じゃ。
KAnoZAは「菓の座」、そして「火の座」
「菓の座」とは、お菓子の神様の座す(います)ところ。
「火の座」とは、火の神様の座す(います)ところ。
“神様が集う国”出雲では、古来より「火」を神聖なものとして崇め、「たたら」や「陶芸」など、「火」を使った数多くの文化や伝統が生まれてきました。
そして今、この神話の国・出雲に、また1つ「火」が育んだ伝統の味が誕生。
それが寿製菓プロデュース、地元素材にこだわった“焼菓子”たち。
甘~い香り漂う出雲の新トラディショナル。
こちら洋菓子専門店「KAnoZA」よりお届け致します。
★【KAnoZA(かのざ)】HPより
JR松江駅は改札を中心に左右にショッピングセンターが広がっており、一翼は衣類や雑貨などのエリア、反対側に物産店売り場のようなシャミネ食の専門館というエリアがある。
海産物や松江銘菓のお土産などここで買える。
そのシャミネのど真ん中にあったケーキ屋。
それがこの【KAnoZA (かのざ)】だ。
基本的に商品はお持ち帰りだが、この店は一部がカウンターになっていて席はわずか5、6席ながらここで売っている紅茶やコンフィチュール、ケーキを食べることができるようになっている。
いい考え!
とってもおいしそうなのだが、けっこう単価が高いので「どうしようかなぁ」と悩んでいる人も多いかもしれないからだ。
まあまあ、一度食召し上がってござらっしゃい!というわけか。
老舗菓子屋の【風流堂】や【彩雲堂】は有名だが、この【かのざ】は今のところ菓子部門では新参者という感じがする。(と思ったら、どうも2005年頃開店したてのお店のようだ)
カラコロ工房の前を流れる川の向こう側はちょっとした観光スポットになっている。
老舗旅館の皆美館やおされなカフェがほどよく固まっている。
そこから東に移動していくと、道を一本隔てただけで、がらりと雰囲気の違う飲み屋街に突入する。
そこは、昼間は開いている店も少なくさびしそうなイメージすら漂っているが、夜になると途端ににぎやかな(といってもかなりまったりとした感じだが)街と変貌する。
まるで、昼間は寝ぼけてのほほんとしていても、夜になると化粧でパリッと艶やかになる女性のように。
そんな飲み屋街の中をうろうろしていると、昼間だというのに普通の喫茶店のようにランチの看板を出している店があった。

こんな飲み屋街に喫茶店?という感じでふらりと立ち寄ってみる。
こじんまりとしているが、とても居心地がいい。
手前のハンバーグのようなものは赤魚をすり身にしてふんわりムース?みたいに仕上げたものだ。
くどくなくしっとりした和風の味付けになっていた。
他にもランチ用のカレー等もあったがいつもこのメニューとは限らないと思われ。

お店の女性によると、こういう場所柄、お客も多くないので出せる数もそう多くは用意していないという。
そのせいもあるだろうが、ランチのメニューもちょっとしたところに手間がかかっていて丁寧な気がした。
もちろん、コーヒーもとってもおいしい♪
この店、こんな飲み屋街にあってなんとランチタイムしか営業していないのだという。(たしかPM2:30までだったような…)
パーティーなども受け付けていて、そんな時は例外だというがなんとも不思議な場所で不思議な営業時間のお店…。

店名は内緒。
もし興味があったら、このステキなステンドグラスの窓が目印になるだろう。
★【松江観光地図:トリップアドバイザーより】参考までに。
松江大橋~新大橋の間あたりで末次本町~東本町の飲み屋街です。
山陰合同銀行…略して「ごうぎん」
うーむ、改めて考えるとなかなか斬新な略語じゃあないの?w

緑の船は木造建築だけでなくこういうレトロな建物も結構好き♪
これは旧八束銀行本店で現在は山陰合同銀行松江北支店となっている建物。
建築されたのは大正15年(1926年)だ。
ちなみに1926年は大正15年(12月25日まで)でもあるが昭和元年(12月26日から)でもある。
蔵の中には何がある?


この蔵に展示されている大太鼓は「鼕(どう)」と呼ばれるもので市内30余りの町内に古くから伝わるものだ。
この鼕(どう)の直径はおよそ150cm前後。
他にも大きなものでは200cmに及ぶものがあり、これを座台に2~3つ乗せ各町ごとに行列を組んで叩きながら市内を練り歩く「松江鼕行列」というお祭りのための大太鼓だ。
お祭りでは、座台を子供中心に約50名が引き、横笛やチャンカラ(銅拍子)に併せ、威勢のいい若者が勇壮な撥(ばち)捌きを披露するそうな。
その強烈な音は松江の空に雷鳴のように響きわたり、行列に寄れば誰でも胸が高鳴り、腹の底まで応えるような躍動感を覚えるに違いありません。
この行事は松江どう行列といい毎年11月3日に行われ、市民にもっとも親しまれた郷土行事となっています。
★【松江市】看板より
蔵に入ってみると、そう広くもなくお祭りの様子がガラス越しに見られるだけなので、「ふ~ん」という感じでその時はそう何も感動はなかった。
しかし、この旅行の随分後になってこの鼕行列がどんなお祭りなのかちょっと調べてみて「へぇ~!」とそのイメージが変わった。
鼕行列は毎年11月3日、松江神社の大祭、松江祭に繰り出されます。
この由来は松平藩5代(5代藩主宣維:のぶずみ)の奥方として享保9年(1724年)に京都伏見宮家から岩姫が降嫁したとき、城下の人々がこれを祝って大きな鼕を作り、打ち鳴らしたのが始まりと伝えられます。
行列の当日は、宮造り屋台に直径約2mの大鼕を二つ乗せて、これをハッピ姿の子ども達数十人が引き、威勢のいい若者達がバチさばきも鮮やかに鼕を叩きながら町内をまわり市中を練り歩き、山陰の秋を彩る伝統行事として親しまれています。
★【松江鼕行列:島根県の祭り・イベントに行こう!iタウンページ】参照。
そうそう、よくこの松江鼕行列由来の説明に「1734年に5代藩主宣維(のぶずみ)が奥方を迎えた際に、市民たちが大きな“どう”(太鼓)を作って祝いのために打ち鳴らしたのが…」というものをみるが、1734年は享保19年で5代藩主宣維は1731年(享保16年)に死去しているので岩姫との婚礼は1724年(享保9年)が正しいのでは…^^;。
松平宣維の生没年:
元禄11年5月18日(1698年6月25日)~ 享保16年8月27日(1731年9月27日)
松平宣維は、出雲国松江藩の第5代藩主。
父は第4代藩主松平吉透(宣維は次男)、母は松平昌勝の娘・清寿院。
正室は佐竹義処の娘・幻体院と邦永親王(伏見宮)の娘・天岳院。(*岩姫?)
官位は従四位下、出羽守、侍従。
元禄11年(1698年)5月18日生まれ、初名は直郷、宣澄という。
宝永2年(1705年)、7歳で父の死去により家督を継ぐ。
しかし治世では災害による天災から財政難に悩まされ、伏見宮の娘(*岩姫)との婚礼資金ですら窮する有様で、婚礼を延期したほど。(*宣維26歳)
このため宣維は藩政改革に取り組んだ。
税制を定免制度に改め、ハゼ栽培やロウ製造にも着手した。
また、出雲の沿岸一帯に異国船が多く出没したため、その打払いにも務めている。(*大変だったろうなぁ…)
藩札も発行したが、これが原因で後に札騒動が起こった。(*藩札の発行は財政難の改善目的でこの頃他の藩も着手しているようだ)
享保16年(1731年)8月27日に死去、享年34歳。法号は善隆院。
墓所 :
東京都港区虎ノ門の天徳寺。
島根県松江市の月照寺。
★【松平宣維(まつだいら のぶずみ):goo Wikiより】
財政難で苦しい中、市民が精一杯の歓迎の意を込めて「京都からお姫様が来るーーーっ!」(((o(*゚▽゚*)o)))(* ´ ▽ ` *)ヽ(≧∀≦)ノ と歓迎したお祭りかぁ。
よほど嬉しかったんだろうな。
それにしても、当の本人は34歳でお亡くなりになったのか。
まだお若いのに…(T T)ほろり。
この大太鼓は蔵の中のものを眺めるより、11月3日のお祭りでその音を直接体験した方が楽しいかもしれない。
朝、目覚めると、障子から光がやんわりと部屋を満たしている。
その障子を開けると、まるで計算されていたかのように床の間の花器に光が当たった。

ああ、なんと心惹かれる眺めであろうか。
眠りそのもののような靄を染めている、朝一番の淡く艶やかな色合いが、今、目にしている霞の中へ溶けこんでゆく。はるか湖の縁まで長く伸びている、ほんのり色づいた雲のような長い霞の帯。それはまるで、日本の古い絵巻物から抜け出てきたかのようである。この実物を見たことがなければ、あの絵巻物の風景は、画家が気まぐれで描いただけだと思うにちがいない。
(…略…)
やがて太陽が、その黄金色の縁をのぞかせる。すると、淡い紫色やオパール色などの暖かい色調の細い光線が、水面に射しこみ、木々の梢は火が灯ったように赤く染まる。川向こうの高い木造の建物の正面は、美しい霞を通して、しっとりとした黄金色に変わる。
ラフカディオ・ハーン 新編『日本の面影』(訳:池田雅之)
「神々の国の首都」より

松江滞在中、一泊だけ老舗旅館の【皆美館:みなみかん】に泊まる。
ここはアメリカの日本庭園専門雑誌『Journal of Japanese Gardening』(ジャーナル・オブ・ジャパニーズ・ガーデニング)で、3年連続「日本庭園ランキング」(Shiosai Ranking)の上位に選ばれたことで注目されている、美しく手入れされた白砂青松の庭で有名なお宿だ。
もともと明治21年(1888年)創業のこの旅館は、古くは小泉八雲、島崎藤村、田山花袋、芥川龍之介、与謝野寛、与謝野晶子、志賀直哉、武者小路実篤、昭和初期には柳宗悦や河井寛次郎、棟方志功等、著名な文化人が宿泊した歴史ある建物でもあるそうだ。(★【皆美館について口コミ】より参照)
しかし2007年1月から現在は全面改装中のため、この古き良き建物は2007年5月1日に装いも新たな建物とサービスでオープンする予定になっている。(どきどき)
古い建物がスキな緑の船としてはちょっと淋しい…。
改装してもあの佇まいをなくさないでほしいな。
★【皆美館HP】
場所:島根県松江市末次本町 TEL:0852-21-5131(代)

*『Journal of Japanese Gardening』ってどんな雑誌?
1998年(平成10年)に創刊されたアメリカの庭園専門誌『Roth Teiens JOURNAL OF JAPANESE GARDENING』。(*だいたい『Journal of Japanese Gardening』と紹介されている)
日本の庭と日本建築について扱う隔月雑誌(英語)で、日本建築・園芸・芸術・哲学等の記事を掲載している。(毎回44ページ)
内容は昔ながらのデザインの原則や建築・建設の方法、メンテナンス技術まで様々。
このサイトは雑誌を通して日本庭園などについて読者にイメージを喚起してもらうことを目的とし、教育的な資料としても役立ち読者が手軽に自分の家で日本庭園を造れるようにと、写真入りの詳細な情報と記事を提供している。
隔月雑誌だけでなく日本の庭造り小冊子なども出している。
毎年、実際の技術(木の刈り込み、石の配置・設置、塀の作り方など)を学ぶために、参加者を募集し特別講座を開催する予定もあり、そのために京都(日本)で一年間日本建築と日本庭園について学ぶ旅行の後援も行うとのこと。
★公式サイト【Journal of Japanese Gardening】より
If you would like to learn more about Japanese gardens,
this web site is a good place to start.
Thank you for visiting with us,
and good luck with your Sukiya Living dreams.
*「スキヤLiving」っていうのは(数奇屋造り)のことだと思われ。
★【2006年からのバックナンバー】
2003年(平成15年)にその雑誌で第1回日本庭園ランキング(*Shiosai Ranking)を発表しており、知名度だけではなく外国人の目から改めて選んだ日本庭園ながら、隠れた美しい名園を教えてくれるなかなか渋い選択が伺える。
その中でも島根県から【足立美術館】(島根県安来市)や【康国寺】(島根県松江市)と共に【皆美館】(島根県松江市)が上位に選ばれたことはとても素晴らしいことだと思う。
そんなに有名ではなくとも素晴らしい庭が、日本にはまだまだあると再認識させてくれるうれしい企画だ。
古き良き日本を愛してくれたラフカディオ・ハーンも草葉の陰で喜んでくれるだろう。
ちなみに横山大観の所蔵作品でも有名な【足立美術館】は2003年(平成15年)の第1回目から2004年(平成16年)、2005年(平成17年)、2006年(平成18年)と4年連続で1位に選ばれている。
この松江からはJR安来駅まで行き、そこから美術館を往復する無料のシャトルバスがあるので時間があったら是非行ってみることをオススメする。
その他のお宿情報はこちら↓も参考にどうぞ♪
★【山陰の宿】
★【松江市ガイド】
ところで、我々が滞在したのは2006年の12月。しかもクリスマスの頃
改装前ということもあって普段よりぐっとリーズナブルなお値段でこの老舗旅館に泊まることができた。ラッキー。
それなのにあの時期だったからなのか、それとも改装準備の関係で小さな部屋が用意できなかったせいなのか、3人分の宿泊にこのサイズのお部屋を案内され、一同どびっくり☆☆だった。何畳あるのやら…。

しかし、乗船客全員めったにない広さに「わーーーーーい♪」と大受けしてしまった。
浴衣は、種類はそう多くないが色浴衣と就寝用の浴衣とちゃんと用意してあった。さすが老舗旅館。
チェックイン後、まずは温泉に入ってお好きな色浴衣で寛ぐがよろしいかと。
温泉はそう広くないが、これがまたいい湯なんだ。

ウェルカムのお茶菓子は松江銘菓の「朝汐」のちょと小振りで柚子を模した「上用朝汐」。
【風流堂】のお菓子だった…け?あいや【彩雲堂】のだったかも(汗)。
ままともかく、おいしゅうございましたってことで♪
さて、順光の北庭もいいよなぁとホクホクしながら屋敷の東面に移動。
風水的に北に玄武(山)、東に青龍(川、水)はよく聞く配置だと思ったが、なんだかその考えも取り入れてあるのかな?とこの井戸を見て思う。
そう言えば偶然かもしれないが、この武家屋敷は玄関からも南に朱雀(海や池、水)という様にその前には松江城のお堀がある。
屋敷の西庭にはどちらかというと背の高い樹木が旺盛に植樹されており、そこには飛び石がぐるりと配置されていて西に白虎(道)の様を呈しているとも見えなくもない。

冬の花木は、特に周囲が木枯れて侘しい時だからこそヒトの心を和ませるのだろう。
今回はたまたま暖かい晴れた日ではあったが、雪を被った風景の中での姿こそ余計にそこで暮らす人々には共感を得るのかもしれない。
仕事の邪魔をしないよう、今も昔を偲ぶ庭を迂回して屋敷の北側へ飛び石を踏みながら移動する。

北側とはいえ、開け放たれた部屋は清々しい明るさがある。
改修されながら、今から274年ほど昔(*)の家を皆が大事に使ってきたのが分かる。
(*18世紀始めの江戸時代初期)
このあたりの屋敷は1733年(享保18年)の大火で焼失し後に再建されたものだが、この頃は長崎で狂犬病が流行ったり、江戸では米価が高騰して打ち壊しが多発したりした年でもある。
ここは禄高600石程度の中級藩士たちが入れ替わり移り住んできた。
この家はその生活を静かに見守り続けてきたのだろう。