航海記 ♪歌いながら行くがいい♪
私の船は、時々歌いながら旅に出る。
大人の覚悟 〜桜歌から13年後の結実〜


ちょっと聴いたら他の歌も聴きたくなるミヤジの沼。多い、そして深いw
★【アラフィフの野獣と麗しきアラフォーの猛獣使い、そして新しき夜明けへ】2021(R3)/02/27(土) 記事参照〜



★【エレファントカシマシ - 「桜の花、舞い上がる道を」

2008年(平成20年)3月5日 発売 (※発売時はミヤジ41歳)
エレファントカシマシ:36枚目シングル「桜の花、舞い上がる道を
Music Video(監督:番場秀一)


 桜が咲く季節になると、街には桜の歌が溢れみんな輝いて見えた。
 やってらんねぇとわざと背を向けて遠回りして歩いていた。
 でも、明日輝きたいなら、自分で咲かせるしかないんじゃねぇのか?
 自分が輝きたいなら、息も切らさず毎日を走り抜けようじゃねぇか。
 お前が笑うから、遠い上り下りの道も信じて転がって行くさ。
 全てが始まっている、明日は来ると今確かに感じるんだ。
 昨日の自分を超えて行こう。
 胸を張って、桜の花が舞い上がるこの道を一緒に歩いて行こうぜ。



彼女や仲間にとも、自分そのものにも向かって歌っている、そんな感じ?
不惑の四十を過ぎ、何か思うところがあって桜の歌を歌おうと思ったとか?(他にもあるかもだけど)桜のシーズンになると毎年出てくる桜歌。これまでにもたくさんあってどれもそれぞれ好きなんだけれど、今の私はこのエレカシの桜歌がとりわけ好きだなぁ(*´v`)ええ歌声だ♪
13年前のこの歌をついさっき知った訳だが、これは間違いなく今年のマイ桜ソングです!
多分この3月、4月はこの「桜の花、舞い上がる道を」ばかり聴いていると思うw




2008-0305-sakuranohana-collage.jpg<嗚呼、大いなる花よ。俺の胸の内に燻る想いなんて笑い飛ばせよ>




大抵は桜の花”舞い散る”とするところを、”舞い上がる”とした歌詞にミヤジのこだわりがあるのかしらと思ったり。四十を過ぎた人間の人生を遠くから眺め、あえてそう例えている様にも聞こえる。
桜の歌は卒業シーズンや年度切り替わりのタイミングで「別れ」や「出発」をイメージするものが多い気がするけど、この歌は、昔は斜に構えてそっぽ向いていたけど一周回って素直になって?(いや、それとも世の中には桜の悲しげな歌が多いから逆に前向きな歌にしてやるぜ!な逆張り的な発想でやはり斜に構えているのか!?)「これから一緒に胸を張って、この道で生きて行こうぜ」と言う前向きで明るい意思表示のものになっている。なのに、メロディーはちょっとニュアンスが違っている様にも私は感じてて、なんと言いますか、夢に対する重い”大人の覚悟”を感じる歌になっている様にも聴こえます。





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アラフィフの野獣と麗しきアラフォーの猛獣使い、そして新しき夜明けへ


時に、私は宮本浩次の歌声が好きだ。
(でもファンと言うほどでもなく。故に_φ(・_・ …ふと徐に自分用にメモ)



2019-1215-musicroom.jpeg
<小さな部屋で聴く音楽と至福の時間>
ある年の冬に泊まったとある宿の小さな音楽コーナー。
このコンパクトな空間がお気に入り♪ 落ち着く。もうすぐ春だけどまた冬に行きたい…





★【今宵の月のように/エレファントカシマシ

1997年(平成9年)7月30日リリース。
エレファントカシマシ通算15作目のシングル。
フジテレビ系ドラマ『月の輝く夜だから』の主題歌として宮本浩次が作詞作曲。
(放送:1997年(平成9年) 7月1日から9月16日まで)


24年前の宮本浩次君、当たり前だけど若いw
この曲はもともとドラマのプロデューサーが同ドラマをイメージしたものをエレカシに依頼してできた曲だったとか(by wiki)
この頃彼は何歳だっけ?えーと1966年(昭和41年)6月生まれだから、30歳か31歳?当時ドラマは見ていなかったのだけれど、この曲はどこで聞いたのか、でもずっと好きだったなぁ。改めて聴くとやっぱりいい声(*´ω`惚)
リリース時の1997年(平成9年)からずっと聴いていたわけじゃないのに、ふとした瞬間に聴きたくなったり、久しぶりに聴いて、つい最近まで側にいたかのように耳に馴染む不思議な声。そしてこの頃から変わらない髪グシャグシャw
ちなみに今更名前が「みやもとひろじ」だと知った。四半世紀以上「こうじ」って読んでた…



今年24歳になる君へ
これは、あなたの生まれた年のバースデーソングの一つだよ。

ちょっと羨ましい!(いやかなり!)






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夕暮れ時の巨人に向かって(足元で愚痴の涙)

おや、もう今日はバレンタインデーだった。
いつもだとあっち行ったりこっち行ったりデパートでもみくちゃになりながらも(^ω^ ≡ ^ω^)「今年はどんなチョコにしよーかなー♪(自分用含め)」と楽しみつつ準備したりするのだが、今回はもう手近に買えるところでサラッと用意済み。ネットとかでも探せば色々な種類の美味しいチョコは手に入るんだろうけど、私はあれこれ現物見て比較して無駄に悩んで買いたい派なので今年はなんか物足りないわぁ。でもお花は用意しよう。


さて、この新型コロナウイルス感染症の脅威を本格的に感じ始めたのは、昨年の2月頃でしたっけ?その前の年末くらいにはもう「なんか海外でヤバい風邪が流行っているらしい」と言われていたんだったか。その頃はまるでピンとこなくて他人事だったが、気がつけばもう1年以上に渡って我々はこのウイルスと格闘していることになるのか。

ウイルスとは=
細菌の50分の1程度の大きさで、とても小さく、自分で細胞を持ちません。ウイルスには細胞がないので、他の細胞に入り込んで生きていきます。ヒトの体にウイルスが侵入すると、ヒトの細胞の中に入って自分のコピーを作らせ、細胞が破裂してたくさんのウイルスが飛び出し、ほかの細胞に入りこみます。このようにして、ウイルスは増殖していきます。(中略)ウイルスは大きさや仕組みが細菌と異なるので抗菌薬抗生剤抗生物質)は効きません。
抗ウイルス薬はまだ少数しか開発されていません。(※2018年:平成30年11月現在)

★【細菌とウイルス|感染症の基本|AMR(薬剤耐性)対策サイトより
 ◯参考:国立国際医療研究センター病院



手強い手強いとは言われていたが、本当に手強いわよね。。。
我々は、この巨人の足元でまだ右往左往してるようなものなのかもしれない。だけども、個人でも家庭でもできる範囲のことを注意していけば、いつか何とかできるはず。(多分…)



201911-kyojin.jpg
<巨人の足元を駆け抜けよ!>
 注:この巨人は駆逐できません。




昨年のGWを過ぎた頃はみんな頑張ってかなり抑え込んだように思えたんだけども、夏から秋にかけてちょっと開放的になって、空気が乾燥して普通に風邪も流行るような季節になり忘年会とかもあったからかな、年末頃にはガツん!と感染者が増え、年明けに一部の都道府県で再度緊急事態宣言も発令された。
まだ今のところ、知り合いや身近な家族に感染したとか濃厚接触者がという話はないのだけど、最近は周囲で以前よりも感染に気を使っている人と「もう大丈夫でしょ♪」と気楽に構えている人との温度差をとても感じる。
電車に乗って近くにその気楽な人がいると勘弁してくれよと言いたくなる。





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末永く魂鎮るところ 5 諫鼓鳥の庭、龍の夢
もっと船を出せーーーっ!
と念を送ったのが早速通じたのか!?>「麒麟がくる:第42回離れゆく心」
めっちゃ適当なCGだったけど和船が出たー!(@∇@)!
★【末永く魂鎮るところ 4 麒麟はきたか】2021(R3)/01/22(金)記事参照〜
★【船の科学館と「宗谷」の思い出 4 和船の趣き(下)】2019(H31→R1)/07/24(水)記事参照〜

船に乗っている体で左馬之助と十兵衛が話しているけど全然揺れてねぇwまあいいか、きっと瀬戸内海は凪だったのだ。しかし村上水軍に捕まらずよく往復できたな。でも船の上から鯛釣りとか、船の匂いがまあまあ増えて嬉しいw(本願寺攻めの九鬼水軍の勝利の件はまた台詞だけだったけど…|ω・`)なぜじゃ)
そして当分出てこんだろうと思っていた岡村菊丸がもう三河から帰ってきたw(嬉)疑問だった家康(竹千代)が十兵衛と初めて会った時の年齢が「7つの時だった」と判明、ということはあの時十兵衛は20歳頃だったということか。そして今のところまだ”籠の鳥”と燻る家康37歳、忠心が揺れる十兵衛50歳頃というところでしょうか。本当に心の声が聞こえたのか!?実に痒いところに手が届く回であったな。家康が十兵衛に会うためにわざわざ船で密談しにやって来るとか(三河の岡崎城から〜紀伊半島周り〜摂津沖まで!?季節や天候にもよるが片道何日ぞ?)いいぞいいぞ、もっと船を出せぃw




さあ、その徳川家康(享年75歳)の魂鎮まるところとして明智光秀こと天海僧正(※個人的妄想ですw)藤堂高虎の屋敷地に建立したという上野の東照宮の黄金扉の内側には、透塀のに負けず劣らず美しい彫刻があります。左右それぞれに素晴らしいデザインでもっと近づいて見たい・:*+.(( °ω° ))/.:!と思うのですが、門の前にはこれ以上は近づけないのです。残念。
★【末永く魂鎮るところ 3 彫刻の楽園より】2020(R1)/07/05(日) 記事参照〜

201505-tousyougu-monnoutigawa.jpg


内側から見て左に「諫鼓鳥(かんこ鳥、閑古鳥とも)」、右には「松竹梅」。柱上部の唐獅子と牡丹もいいですね〜(´∀`*)

=諫鼓鳥(閑古鳥)とは=

中国の故事に由来する。
その昔、尭帝という聖天子が朝廷の門前に諫鼓(かんこ:太鼓)を置いて、自らの政道に誤りがある時は人民にそれを打たせて、その訴えを聞こうとした。しかし尭帝の政治に誤りが無く、人民がこれを打つことが無かった為、諫鼓は鳥の遊び場になってしまったという。
諌鼓に鶏が止まっているのは、善政により世の中がうまく治まっている天下泰平の世である様を表現しており、「諫鼓苔生す」という言葉は、「善政によって諫鼓を鳴らす必要がなく、その鼓に苔が生えているほど長く安泰である」との意です。(大辞林より)



本来、諫鼓鳥は善政による天下泰平のシンボルですが、

 誰も太鼓を叩かない
  ↓
 めっちゃ静か(誰も不満に思う者がいない平和な世)
  ↓
 ああ、商売が暇やわぁ( ノД`)(←!?急にネガティブw)

のイメージになり、今もよく使われる「閑古鳥が鳴く」と言う場合は、店に客が来ない、客がいなくて商売がはやらない様を指します。
諫鼓鳥の姿はカッコウではなく尾長の鶏なのですが(よく神輿の上に乗っている金色の鶏、鳳凰の場合もある)、閑古鳥はカッコウの事でもあり、山間で響くあの長閑な鳴き声が、暇で暇でしょうがないよ…といったイメージをさらに増幅させて今に至るのかも知れませんw



ちなみに神輿に諫鼓鳥を乗せるようになったきっかけは、2代目将軍秀忠の鶴の一声から。
1615年(元和元年)5月、大坂夏の陣で豊臣陣営に勝利し江戸へ凱旋した2代目将軍の徳川秀忠が、日枝神社の大祭である6月の山王祭を前に
「太平の世を祝って諫鼓鶏の山車を末代に至るまで一番で渡せい!」ヾ(・∀・)ノ
と上意を下したのが始まりとか。(そして本当に現代までも続いているw)
★【日枝神社(山王さま)諫鼓鳥とは】東京都神社庁HPより

※「大阪」は明治以前は「大坂」と表記されていた。
 へぇ〜、へぇ〜、へぇ〜ヽ(´∀`)。


とすると、この左側の諫鼓鶏の彫刻は2代目将軍秀忠の功績を、東照宮をキンキラキンにした3代目家光が尊んで刻まれたものなのかも。だとすると、右の松竹梅の彫刻は3代目である自分を象徴していて、初代家康(と、その心の友高虎と明智光秀かも知れない天海僧正w)の築いた功績を2代目と3代目が支え、これからも長きに亘って善政を続けて行きますよ、安心して下さいとの決意や祈りも含まれていたのかも知れません。



さて、その諫鼓鶏と松竹梅の側にはそれぞれ昇り龍の彫刻が施されています。
  <諫鼓鶏(秀忠)側:左龍>    <松竹梅(家光)側:右龍>
201505-ryuu-sayuu.jpg

持っている写真がめっちゃヘボいので拡大して加工しまくって並べてみたら、なんか流行りの『鬼滅の刃』、水の呼吸!拾弐の型「昇り龍(`・ω・´)!!」みたいな感じになったw

★【鬼滅の刃の水の呼吸1〜11の型




201505-sayuunoryu.gif

うまく写真が動いてくれないよう…(泣
とりあえずクリックすると動きます( ゚Д゚)⊃→


2頭の龍が描かれていると、よく「どちらが昇り龍なのか?」という話になります。(龍を数える時の単位って”頭”でok?)
色々なところで解釈を聞いていると、大抵は偉い方が心持ちは謙虚で頭を垂れているものだ…という理由で、
「下を向いている方が昇り龍である」
と言われている様です。

その解釈では、下を向いているのは<松竹梅(家光)側:右龍>なので、右が”昇り龍”ということでしょうか。
まあ、この東照宮をキンキラキンに改築したのは3代目家光なので、「私が昇り龍ね!」とそう言うことにした、…と言えなくもないと思ったりはしますw




ただ、これらの彫刻をぱっと見の印象で私が感じたのは、むしろ<諫鼓鶏(秀忠)側:左龍>が普通に昇っている龍ではないかと言う事です。<松竹梅(家光)側:右龍>も昇ってはいるには違いはないけれど、彫刻の龍の動きを想像するに、こちらはこれから下界へ降っていかんとする様子に見えるのです。

なので、「右が昇り龍」という説明がどうにも腑に落ちないのです。
私の元写真がヘボかったため変に加工してしまったせいもありますが、左右の龍を見ていて、やっぱり<諫鼓鶏(秀忠)側:左龍>の方が上へ上へと昇っていく様に見えるし、単純に彫刻としての出来栄えも実にカッコ良いのですw

それはさておきw
この2頭の龍をよくよく見ていると、頭の向きの他にも違いがあるのが分かります。そう、宝珠です!
 <諫鼓鶏(秀忠)側:左龍>…宝珠を掴んでいない
 <松竹梅(家光)側:右龍>…宝珠を掴んでいる
この宝珠は、摩尼宝珠とも如意宝珠とも呼ばれ、「意のままに様々な願いをかなえる宝」として、如意輪観音様や地蔵菩薩様がその手上に載せておられ、龍もしばしばその珠を持っている場合もあるものだそうで、仏教の教えの中ではそれはそれは大変にありがたい効力のあるアイテムなのです。これぞドラゴンボール!?それこそ、この世で太陽や月の次に明るく清い光を世に放つ、衆生にとって実にありがたいお宝なのでした。
(意のままにといっても、腹黒い俗世の欲望を叶えてくれる類のものではありませんw)

そう、2代目将軍秀忠はまだ戦の火種の残る渦中にいて大坂夏の陣で敵対する豊臣陣営を下し、家光は3代目将軍としてその後の徳川家の、ひいては日本の政情を磐石なものにしていったと言え、確実に掴んだ宝珠を持ってこの世に平和をもたらそうとしている、この2頭の龍はその様を表現している様にも見えまする。
どちらがというか、この場合どっちも宝珠を掴むための”昇り龍”だろうと思います。(あれは宝珠を掴む前、掴んだ後のビフォアーアフター龍図なのであるw)

そして、それはなんのためだったか?
無為な戦に明け暮れぬため、ここを心穏やかなる平らかな世にまとめるためではなかったか。(「麒麟がくる」的解釈を参照)

あの門を飾る2頭の龍は、共に末永く魂静まるところに眠りたいと願った初代将軍家康とその心の友(高虎と、もしかして明智光秀だったかも!?な天海僧正)をお守りするためのものであり、
「とうとう衆生を照らすための宝珠を掴みましたぞ。
 御三方、もうご心配召されるな…」(´ 人 `* )

という、派手好きな家光なりの偉大なるあの3人への供養の表現だったのかも知れません。



さあ、いかがだったでしょうか。>個人的解釈による妄想絵巻w
この上野の東照宮の規模は日光東照宮には及ばないでしょうが、一つ一つの彫刻の佇まいの美しさは素晴らしいものがあります。
個人的にはキンキラキンの装飾にはあまり興味はないのですが、この上野の東照宮の黄金色は平和的な意匠の彫刻群とお互いに引き立てあい、響きあっているようでとても好きです。

そう言えば、ここに”麒麟”がいたかどうか、手元には写真もなく記憶もないのですが、きっとどこかにいそうな気がしますw



また気楽にお出かけできる日を迎えられるよう祈りつつ。
そう、まずはこの手強い感染症の脅威をみんなで克服した後、いつかまたゆるり探しに行って見たいと思うのです。





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末永く魂鎮るところ 4 麒麟はきたか

ここに来て、何故か明智光秀参上!!
♪ジャジャジャーン、ジャジャジャーン、ジャジャジャー、ジャジャジャー♬
ジョン・グラム風でw)


★【麒麟がくる メインテーマ (※エレクトーン)



いつもの如く気がついたらいつの間にか新年は明け令和ももう3年に。。。
うん、まあいつものことですからシレッと続きをば…(´∀`*;)ゞ




しかし、きっと分かる人は分かるw>なぜにここで明智十兵衛光秀の登場!?



江戸幕府開祖の初代将軍だった徳川家康が、死期を悟った頃に駿府城へ呼んだのが藤堂高虎天海僧正だったと知ったのは、数年前にフラッとあの上野にある東照宮へ行って看板を読んだ時でした。
(そこではまだ”天海僧正”って誰よ?的な薄いキャラ扱いw)
★【末永く魂鎮るところ 1 高虎の東照宮】2020(R2)/06/07(日) 記事参照〜


=以下、そんな看板の説明文から始まった妄想歴史絵巻でございます=



さて、駿府城へ引退した後も大御所様として絶大な権威を誇っていた家康が、その心の友に人生最後に望んだのが

「3人で一緒に末永く魂鎮まるところを作って欲しいのじゃよ…」(´・ω・`)

と言うものでした。
その時、藤堂高虎は当時宗派の関係上(?)家康と死後一緒に祀られることはできない立場だったそうなのだが、坊主(天海僧正)も一緒にいたのでその場で同じ宗派に改宗し(!?)
「これで死後も一緒にございますよ」と家康を安心させたとかどうとか。
高虎、優しい…やっぱそんなところが渋カッコいいと思ってしまうw



その場所が上野にあるあの地味な東照宮(造成当初は東照社)だったと知って「へー、日光の方じゃないん?」と、当時の私は素朴に思ったものでした。
(でも実はちゃんと日光東照宮の方に3人一緒におるんだっけ!?…とイマイチまだよく分かっていないが、ここはもう個人的解釈による妄想歴史絵巻として押して参りまするぞw)



家康の死後日光東照宮(※当初は日光東照社)の竣工は2代目将軍徳川秀忠で進められ、随分と後になって上野の藤堂高虎の屋敷地内に自分の寺社の子院として東照社を建立したのは、この仲良し御三方で一番長寿だったとされた天海僧正でした。当時東照社だった社名はその天海僧正も亡くなったずいぶん後に「東照宮」となっています。
(いや日光東照宮の方も天海僧正が大いに関わっていたと思いますが、なんとなく日光東照宮の方は所謂国家事業、上野の東照宮は民間事業なイメージです)


家康は1616年(元和2年)に亡くなったがこの江戸のみならず乱世の末にまとまった日本を守る神となり、死後405年経った今も日光東照宮は日本中から参詣が絶えません。(※2021年令和3年現在)

が、先にも言った様に、上野にあった藤堂高虎の屋敷地に天海僧正が子院の一つとして建造したの当初の「東照社」は、こちらは個人的な事業だったからか、それ故もっと地味な感じだったとされている。
(私の中の藤堂高虎がとっても渋い人物像なので、それもあってきっともっとシンプルで地味だったに違いないというイメージもあり)

それをあの女性っぽい中性的な(私の勝手なイメージですw)芸術家肌な3代目将軍家光が「この社は地味過ぎて気に入らぬぞ!(*`・з・´)」と(これも想像w)、日光や上野の東照宮を豪華絢爛なキンキラキンに改修したのが、今に伝わる日光東照宮や上野にあったあの彫刻の楽園のような東照宮なのです、 が 。




さて、そもそもどうして家康、高虎、天海僧正がこうも仲良し?なのか。

それこそ死後も「一緒のお墓で安らぎたいよね…(´∀`)(´д`)(´-`)・・」
などと思うほどにw

仕事上の付き合いで、雇い主と仕事を請け負う会社であるとか、会社の社長と従業員、上司と部下などと言う関係でここまで深い結びつきが得られるものなのだろうか、などと、平和な現代の日本で呑気に生きる私にはその感覚があまりに理解し難いわけです。

何が彼らをそうも得難い絆で結んだのであろうか?
そして、そこで出てくるのがまさかのあの明智光秀な訳とは!?



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